漠然と思うことを書いておきたい気持ちなので適度に書いておきます。
色々と本を読む。ここ最近は本を読む時間が作れない。まー移動時間が増えたりやることが増えたりで「実質的に使える時間」が少なくなったのも大きな要因だと思っています。もう少し余裕があれば良いのですが。本を読むといっても「小説」などは全くといっていいほど読みません。読んだといえばかなり前に「一瞬の風になれ」という陸上競技の小説。それ以外は「他者の考え方」や「哲学」「心理学」のような本ばかりです。明らかに「変わっている」と位置づけられる感じの人間ですかね。
基本的に他者の心を動かすのは「言葉」だという思いがあります。論語などを読むのもこの部分です。「不易」と「流行」があり、どれだけ時間が過ぎても「変わらない考え方」にこの世の中の「本質」があると思っています。小難しい話ですね。競技に関する話は多くの場合が「流行」だったりします。そのとき「速い選手」の動きが主流になる。その選手がやっている動きや練習が「速くなるために良い練習だ」となり広まる。その意味が議論されるのではなく「速い選手がやっているのだから正しい」という部分になる。
こういう部分は「表面的な情報」でしかありません。合同練習などをやってもそこの学校がやっていて「良いですよ」と言われたらそのまま導入する。以前同じ職場で働いていたバスケ部の指導者は「教えてほしいといわれたらすぐに教える」と言われていました。「表に見えることだけを真似しても結局本質がわからないから結果にはつながらないから問題ない」と。まさに。不易の部分には「本質」が含まれているのです。そこの部分が理解できないまま物事をやっても「中身のない行為」になってしまう。
これはすべて「考え方」だと思っています。小難しく考える意味があるのかどうか。私にとってはこの部分が「人生の大半を占めている」と感じています。何も考えずとりあえずやるだけの生き方は楽しくない。「自由奔放」に生きていると思われるかもしれません。否定しません(笑)。自分が「これだ」と決めたことに対してはかなりのエネルギーを使います。逆に「これは意味がない」と思うことに関してはほぼエネルギーを使いません。一人の人間として生きている中で「どのように生きるか」という部分は大きいと思っています。
本を読む中で「志」に関するものがありました。吉田松陰の「言葉」がまとめられている本です。「何のために生きるか」という部分。「志」のために死ねるか?長く生きることに「価値」を見出すのではない。周りを全て敵に回しても自分が「正しい」と思うことであればそこに尽力する。もちろん一人でできることは限られているので「全員を敵に回す」ことはできない。が、自分のやりたいことを捨てて周囲に迎合して生きることに「価値があるのか」とう部分です。
「想い」は時間を超えて引き継がれる。この部分というのは本当にあると思っています。強い信念を持って生きていけばそれは必ず何処かで誰かに引き継がれる。本当に正しい「志」であればどんなに批判が生じても必ず受け入れられる時が来る。吉田松陰は29歳でこの世を去っています。考えたらすごい話だと思います。私よりも圧倒的に若い年代から「世の真理」を突き詰めている。亡くなってからもこの日本を動かすほどの「志」が引き継がれる。
志を立てるためには人と異なることを恐れてはならない、世俗の意見に惑わされてもいけない
夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に成功なし。故に、夢なき者に成功なし
私は私にできることを最大限にやっていかないといけない。それが天から与えられた「使命」なんだと思う。大きな話ですし、小難しい話ですからなかなか理解してもらえないと思います。宗教云々ではありません。私は私の信じる道を進んでみようという話です。
「志」はある。漠然と人と関わる気はない。これまでの「流れ」や「保守的な考え方」とは異なるかもしれない。それでも「志」を持ちそれを信じて進んでいく。もっともっと多くの「考え方」を学びたい。「不易」の中に自分が進むべき道がある。
感化されやすいというのもあると思います(笑)。ちょっと真面目に書いてみました。なかなか理解してもらえない&読みにくい内容ですね。まーこんな面倒な人間なのです。
つらつらと書いてしまいました。
色々と本を読む。ここ最近は本を読む時間が作れない。まー移動時間が増えたりやることが増えたりで「実質的に使える時間」が少なくなったのも大きな要因だと思っています。もう少し余裕があれば良いのですが。本を読むといっても「小説」などは全くといっていいほど読みません。読んだといえばかなり前に「一瞬の風になれ」という陸上競技の小説。それ以外は「他者の考え方」や「哲学」「心理学」のような本ばかりです。明らかに「変わっている」と位置づけられる感じの人間ですかね。
基本的に他者の心を動かすのは「言葉」だという思いがあります。論語などを読むのもこの部分です。「不易」と「流行」があり、どれだけ時間が過ぎても「変わらない考え方」にこの世の中の「本質」があると思っています。小難しい話ですね。競技に関する話は多くの場合が「流行」だったりします。そのとき「速い選手」の動きが主流になる。その選手がやっている動きや練習が「速くなるために良い練習だ」となり広まる。その意味が議論されるのではなく「速い選手がやっているのだから正しい」という部分になる。
こういう部分は「表面的な情報」でしかありません。合同練習などをやってもそこの学校がやっていて「良いですよ」と言われたらそのまま導入する。以前同じ職場で働いていたバスケ部の指導者は「教えてほしいといわれたらすぐに教える」と言われていました。「表に見えることだけを真似しても結局本質がわからないから結果にはつながらないから問題ない」と。まさに。不易の部分には「本質」が含まれているのです。そこの部分が理解できないまま物事をやっても「中身のない行為」になってしまう。
これはすべて「考え方」だと思っています。小難しく考える意味があるのかどうか。私にとってはこの部分が「人生の大半を占めている」と感じています。何も考えずとりあえずやるだけの生き方は楽しくない。「自由奔放」に生きていると思われるかもしれません。否定しません(笑)。自分が「これだ」と決めたことに対してはかなりのエネルギーを使います。逆に「これは意味がない」と思うことに関してはほぼエネルギーを使いません。一人の人間として生きている中で「どのように生きるか」という部分は大きいと思っています。
本を読む中で「志」に関するものがありました。吉田松陰の「言葉」がまとめられている本です。「何のために生きるか」という部分。「志」のために死ねるか?長く生きることに「価値」を見出すのではない。周りを全て敵に回しても自分が「正しい」と思うことであればそこに尽力する。もちろん一人でできることは限られているので「全員を敵に回す」ことはできない。が、自分のやりたいことを捨てて周囲に迎合して生きることに「価値があるのか」とう部分です。
「想い」は時間を超えて引き継がれる。この部分というのは本当にあると思っています。強い信念を持って生きていけばそれは必ず何処かで誰かに引き継がれる。本当に正しい「志」であればどんなに批判が生じても必ず受け入れられる時が来る。吉田松陰は29歳でこの世を去っています。考えたらすごい話だと思います。私よりも圧倒的に若い年代から「世の真理」を突き詰めている。亡くなってからもこの日本を動かすほどの「志」が引き継がれる。
志を立てるためには人と異なることを恐れてはならない、世俗の意見に惑わされてもいけない
夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に成功なし。故に、夢なき者に成功なし
私は私にできることを最大限にやっていかないといけない。それが天から与えられた「使命」なんだと思う。大きな話ですし、小難しい話ですからなかなか理解してもらえないと思います。宗教云々ではありません。私は私の信じる道を進んでみようという話です。
「志」はある。漠然と人と関わる気はない。これまでの「流れ」や「保守的な考え方」とは異なるかもしれない。それでも「志」を持ちそれを信じて進んでいく。もっともっと多くの「考え方」を学びたい。「不易」の中に自分が進むべき道がある。
感化されやすいというのもあると思います(笑)。ちょっと真面目に書いてみました。なかなか理解してもらえない&読みにくい内容ですね。まーこんな面倒な人間なのです。
つらつらと書いてしまいました。