木曜日、午後から研究発表会に行ってきました。その中で「講演」がありいろいろと考えさせれる機会となりました。
テーマは「命」について。これは以前からずっと心の中にある部分です。我々の宿命の中に「死」というものが必ず存在します。生を受けた者は必ず死ぬ。お金持ちであろうが、容姿端麗であろうが必ず迎える「死」。さまざまな人の「死」に直面する中で考えさせられるものです。これについては正解はない。今考えるのはいかにして「死」を迎えるか。
具体的な内容に関しては省略します。講演で話された内容は公開してもそれほど問題はないと思いますが、私が語る「死」と「本当に死に直面した方の話」では雲泥の差があります。ここで語るには恥ずかしすぎる。
話の中に「絆」と「縁」というものがありました。「絆」とは「人と人」が結ぶもの。自分たちの力でどうにかなる部分。自分が積極的に人と関わっていけば自然とできてくる「絆」です。東北大震災の時に日本中をこの言葉が飛び交いました。そこには「一人では生きていけない」ということに直面した人たちの「想い」があったのだと思います。「縁」は「神様がつないでくれるもの」ということでした。我々個人の力を超えたもの。努力してどうにかなる部分ではない。出会うことができたというのは「縁」なのです。
話の中に「選手との出会い」もありました。たまたまその学校に赴任して指導することになった。それが数十年たって別の形で出会う。これも何かの「縁」です。偶然ではなく「必然」としてそこの出会いには意味があるのだと思います。指導をするということはその子達と何かしらの「縁」がある。そしてそこには「命」がある。その「命」と向き合うことが本当の意味での「指導」となる。選手によっては「私の指導を受けたい」と望んでくれる。この子たちを何よりも大切にしなければいけない。多くの選手がいると思いますが何より大切にしていかなければいけないのは「目の前の選手」です。特に「指導を受けたい」と慕ってくれる選手たちはその「想い」に応えるべく私も努力しないといけない。「縁」があるからです。
以前から「偶然」と「必然」については考えていました。世の中の出会いに関しては「偶然」はない。たまたまではないのです。良い出会いや悪い出会いがあると思います。悪い出会いでさえそこには「必然性がある」のです。出会うべくして出会った。そう感じることが大切。
「この人のようになりたいな」と思う。逆に「この側面のようになりたくないな」と思う。それはそこから学ぶべくして出会ったということ。これまでは否定的に捉えていた部分もこう考えるとプラスになってくる。神様からもらった「縁」というのは自分の捉え方によって様々な変化をするものなんだと思う。
「死」を迎える。そう考えた時に1秒も無駄にしたくないなと思う。どうでも良いことであれこれ言っている間は自分も器が小さく時間をかけ無駄にしているのだと思う。与えられた時間というのは有限。そうであればま「どうでも良いこと」や「どうにもならないこと」に心悩ましている時間はない。今の私に「世界平和のために何をするか」を考えて行動できる力はない。情けないが世界を救うヒーローにはなれない。
だからこそ「縁」あって毎日指導する選手のためにできる事だけはしたい。それは今も昔も変わらない想い。出来ることなんて限られている。だからこそ神様が私に「やれ」と言っている「使命」を遂行しないと。それが「縁」あってこの世に生まれてきた意味なんだと思う。
多くの人に出会う。そこから学ぶことはある。「絆」なのか「縁」なのか。分からない。しかし、意味はある。
自分自身と向き合う大切なのか機会だったと思います。これも大切な「縁」だと思います。感謝。
テーマは「命」について。これは以前からずっと心の中にある部分です。我々の宿命の中に「死」というものが必ず存在します。生を受けた者は必ず死ぬ。お金持ちであろうが、容姿端麗であろうが必ず迎える「死」。さまざまな人の「死」に直面する中で考えさせられるものです。これについては正解はない。今考えるのはいかにして「死」を迎えるか。
具体的な内容に関しては省略します。講演で話された内容は公開してもそれほど問題はないと思いますが、私が語る「死」と「本当に死に直面した方の話」では雲泥の差があります。ここで語るには恥ずかしすぎる。
話の中に「絆」と「縁」というものがありました。「絆」とは「人と人」が結ぶもの。自分たちの力でどうにかなる部分。自分が積極的に人と関わっていけば自然とできてくる「絆」です。東北大震災の時に日本中をこの言葉が飛び交いました。そこには「一人では生きていけない」ということに直面した人たちの「想い」があったのだと思います。「縁」は「神様がつないでくれるもの」ということでした。我々個人の力を超えたもの。努力してどうにかなる部分ではない。出会うことができたというのは「縁」なのです。
話の中に「選手との出会い」もありました。たまたまその学校に赴任して指導することになった。それが数十年たって別の形で出会う。これも何かの「縁」です。偶然ではなく「必然」としてそこの出会いには意味があるのだと思います。指導をするということはその子達と何かしらの「縁」がある。そしてそこには「命」がある。その「命」と向き合うことが本当の意味での「指導」となる。選手によっては「私の指導を受けたい」と望んでくれる。この子たちを何よりも大切にしなければいけない。多くの選手がいると思いますが何より大切にしていかなければいけないのは「目の前の選手」です。特に「指導を受けたい」と慕ってくれる選手たちはその「想い」に応えるべく私も努力しないといけない。「縁」があるからです。
以前から「偶然」と「必然」については考えていました。世の中の出会いに関しては「偶然」はない。たまたまではないのです。良い出会いや悪い出会いがあると思います。悪い出会いでさえそこには「必然性がある」のです。出会うべくして出会った。そう感じることが大切。
「この人のようになりたいな」と思う。逆に「この側面のようになりたくないな」と思う。それはそこから学ぶべくして出会ったということ。これまでは否定的に捉えていた部分もこう考えるとプラスになってくる。神様からもらった「縁」というのは自分の捉え方によって様々な変化をするものなんだと思う。
「死」を迎える。そう考えた時に1秒も無駄にしたくないなと思う。どうでも良いことであれこれ言っている間は自分も器が小さく時間をかけ無駄にしているのだと思う。与えられた時間というのは有限。そうであればま「どうでも良いこと」や「どうにもならないこと」に心悩ましている時間はない。今の私に「世界平和のために何をするか」を考えて行動できる力はない。情けないが世界を救うヒーローにはなれない。
だからこそ「縁」あって毎日指導する選手のためにできる事だけはしたい。それは今も昔も変わらない想い。出来ることなんて限られている。だからこそ神様が私に「やれ」と言っている「使命」を遂行しないと。それが「縁」あってこの世に生まれてきた意味なんだと思う。
多くの人に出会う。そこから学ぶことはある。「絆」なのか「縁」なのか。分からない。しかし、意味はある。
自分自身と向き合う大切なのか機会だったと思います。これも大切な「縁」だと思います。感謝。