日本人は基本的にドラマを作るのが好きだと思う。何か一つのことに強い意味を持たせる。私自身そういうのがすごく好きだった。感情に訴えかけるというか「気持ち」を表に出し続けるというか。
自分の中での「想い」はそれぞれあると思う。例えば私で言えば「マイルでインターハイを逃した場所で4継でインターハイを決めた」というのは本当に大きなドラマだと思う。想い入れが強くなりすぎて冷静さを失うことの方が圧倒的に多い。その「想い」が強くなりすぎてやっている自分に酔うというのはよくあるパターン。ドラマのような展開を期待する気持ちはあっても現実はそうではない方が多い。ハッピーエンドを迎えることなんて本当はほとんどない。
TVで駅伝を見る。長距離自体にそれほど興味はないが多少は気になる。その時に過剰なまでに「ドラマ」を作り出そうとする姿がある。その方が見ている者を惹き付ける部分があるからだろう。スポーツにはドラマがある。成功した選手にも上手くいかなかった選手にも「自分だけが知っているドラマ」がある。実際にレースを走る選手もいれば走れない選手もいる。日本代表になる選手もいれば補欠となり試合に出れない者もいる。それぞれのドラマがあるのだと思う。
間違えて欲しくないのが「選手は誰かを感動させるためにやっているわけではない」という部分。視聴者のためにやっているわけではなく、「自分のため」「チームのため」にやっている。マスコミが過剰に取り上げることで「スター」となる。そこから背負うプレッシャーは計り知れないものがあるだろう。いつの間にか「ドラマを作り出す」ために利用されてしまっている感じがある。私だけがそう思っているのかもしれないが。それを受け入れている選手もいるだろうし、そうではない選手もいる。
ドラマを作る。これだけ国民が注目するコンテンツになっている駅伝であれば「更に見てもらう」ためにはそういう部分が出てくるのは仕方ないのかもしれない。感情移入する方が見ている側は応援しやすい。だから「敗者」を過剰なまでに取り上げる。失敗して上手くいかなかった選手を取り上げる。高校野球の新聞などを見れば顕著だ。勝ったチームよりも「負けたチーム」の記事が多くなる。「こんなに頑張って来たのに結果が出せませんでした」という方が「感情移入」しやすいからだと思う。日本人はこういうのがすごく好きだから。
勝った選手にも負けた選手にもそれぞれの「ドラマ」がある。負けた選手を過剰に取り上げて「感動させる」というのはちょっと違うかなといつも思う。負けた選手が知り合いに慰められながらひたすら涙を流す。それを大勢の人の前でやる。これは「ドラマ」かもしれない。が、そういう雰囲気に酔うというままではきっと何も変わらない。涙を流して泣き崩れるくらいの努力をした選手もいるだろう。そういう選手は人目に付かないところで涙を流す気がする。これはあくまで私見だし偏見を含む部分かもしれないが。
話が大きくそれるが「悲劇のヒーロー」「悲劇のヒロイン」が気になって調べてみた。色々な考え方がある。
日本人に多い、悲劇のヒーロー、ヒロインタイプ
ドラマの主役になれる場面で自分以外が主役になることに対して「なんで自分はこんなに辛い想いをしないといけないのか」と感じる。自分が賞賛を受けたいのに他者が褒められるのを極端に嫌う。誰にでもある部分だと思うがそれが大きく出てしまう。これは自分自身の考え方の部分もあると思うがそれ以上に「周囲が作り出す」のだと思う。
良い結果が出たら過剰に取り上げる。そしてそれを周りも過剰に褒めちぎる。結果が悪ければ「なんて可哀想なんだ」と抱きかかえる。本当の問題点から目を背けてしまう。
自分の中での「想い」はそれぞれあると思う。例えば私で言えば「マイルでインターハイを逃した場所で4継でインターハイを決めた」というのは本当に大きなドラマだと思う。想い入れが強くなりすぎて冷静さを失うことの方が圧倒的に多い。その「想い」が強くなりすぎてやっている自分に酔うというのはよくあるパターン。ドラマのような展開を期待する気持ちはあっても現実はそうではない方が多い。ハッピーエンドを迎えることなんて本当はほとんどない。
TVで駅伝を見る。長距離自体にそれほど興味はないが多少は気になる。その時に過剰なまでに「ドラマ」を作り出そうとする姿がある。その方が見ている者を惹き付ける部分があるからだろう。スポーツにはドラマがある。成功した選手にも上手くいかなかった選手にも「自分だけが知っているドラマ」がある。実際にレースを走る選手もいれば走れない選手もいる。日本代表になる選手もいれば補欠となり試合に出れない者もいる。それぞれのドラマがあるのだと思う。
間違えて欲しくないのが「選手は誰かを感動させるためにやっているわけではない」という部分。視聴者のためにやっているわけではなく、「自分のため」「チームのため」にやっている。マスコミが過剰に取り上げることで「スター」となる。そこから背負うプレッシャーは計り知れないものがあるだろう。いつの間にか「ドラマを作り出す」ために利用されてしまっている感じがある。私だけがそう思っているのかもしれないが。それを受け入れている選手もいるだろうし、そうではない選手もいる。
ドラマを作る。これだけ国民が注目するコンテンツになっている駅伝であれば「更に見てもらう」ためにはそういう部分が出てくるのは仕方ないのかもしれない。感情移入する方が見ている側は応援しやすい。だから「敗者」を過剰なまでに取り上げる。失敗して上手くいかなかった選手を取り上げる。高校野球の新聞などを見れば顕著だ。勝ったチームよりも「負けたチーム」の記事が多くなる。「こんなに頑張って来たのに結果が出せませんでした」という方が「感情移入」しやすいからだと思う。日本人はこういうのがすごく好きだから。
勝った選手にも負けた選手にもそれぞれの「ドラマ」がある。負けた選手を過剰に取り上げて「感動させる」というのはちょっと違うかなといつも思う。負けた選手が知り合いに慰められながらひたすら涙を流す。それを大勢の人の前でやる。これは「ドラマ」かもしれない。が、そういう雰囲気に酔うというままではきっと何も変わらない。涙を流して泣き崩れるくらいの努力をした選手もいるだろう。そういう選手は人目に付かないところで涙を流す気がする。これはあくまで私見だし偏見を含む部分かもしれないが。
話が大きくそれるが「悲劇のヒーロー」「悲劇のヒロイン」が気になって調べてみた。色々な考え方がある。
日本人に多い、悲劇のヒーロー、ヒロインタイプ
ドラマの主役になれる場面で自分以外が主役になることに対して「なんで自分はこんなに辛い想いをしないといけないのか」と感じる。自分が賞賛を受けたいのに他者が褒められるのを極端に嫌う。誰にでもある部分だと思うがそれが大きく出てしまう。これは自分自身の考え方の部分もあると思うがそれ以上に「周囲が作り出す」のだと思う。
良い結果が出たら過剰に取り上げる。そしてそれを周りも過剰に褒めちぎる。結果が悪ければ「なんて可哀想なんだ」と抱きかかえる。本当の問題点から目を背けてしまう。