ここ最近想うことが多いですね。年齢的にもそういう時なのかもしれません。たまたまそういう事が重なるだけなのかもしれないのですが。教育というものについて考えるとかなり気難しい内容になります。仕方ない部分かもしれませんが。本質的なものを書いてもなかなか理解できないと思うのでそれなりにしか書きませんが。
教育というか人との関わりというかその辺りについてかなり想うことがあります。誰かにモノを伝えるというのは責任が伴います。そこをどれだけ重く感じられるか。大切な部分と思います。基本的に私はストレートに想いをぶつけます。これが良いことかどうかは考えものです。もちろん、考えて話はしていますが許せないものは許せないという感覚が強くあります。一昨年だったかかなり頭にきた事があって本気で切れた事があります。これを許したら全て許さないといけないというレベルだと思ったからです。「学校だから許される」ではない。今から教えないといつになっても身に付きません。
が、その姿を見て「大人が本気で怒ったらダメ」だと言われました。私はそれに対しても激怒していました。何を言っているのかって話です。価値観が違うなと強く思いました。悪気はないのかもしれませんがどうなのかなと。別に私の価値観が全てではありませんが、客観的みて「教育」としては良くないのではないかと思いました。
「ダメなものはダメ」だときちんと教えないといけません。人に対する態度が悪い者に悪いと教えなければ「何が悪いのか分からない」ままで終わってしまいます。少し前の記事にも書きましたが国母選手のように今まで何も言われなかったのに社会に出てからいきなり叩かれて戸惑うということになります。誰かがきちんと教えなければいけないと思っています。
学校で生徒を見ていて「社会に出たら絶対にやっていけないな」という子がいるのを感じます。高校生は「自分がやりたいようにやる」事が正しい、カッコいいと思う傾向があります。失礼かもしれませんが、精神年齢がかなり低くなってきている感じを受けます。それを過保護的に親が守る。守ってやることが親の役割だと思う。自分の子供が問題行動を起こしても「自分の子は悪くない」と擁護する。誰からも注意を受ける事がないから、何か言われたら逆ギレをする。我慢をしたり、自分の行動を振り返ろうとはしない。当たり前の話です。
理想論で話をしたくはありません。関わる大人が本気で生徒の事を思い、真剣に向き合えば伝わるものがあると思っています。「~に怒られるからきちんとやらないといけない」と教えるのは教育ではない。それを本人が経験的に気づくのと言われてやるのでは違います。本当は「なぜダメなのか」という本質から理解させないといけませんが、それを全員に理解させるというのは不可能な話です。本質的な話は絶対に必要ですが、理解できるかどうかは別問題です。「何かきちんとやっておかないとまずい」というのが分かれば良いと思います。理想と現実は違いますから。
「生きてくる力」とはそのようなものだと思います。「この先生、今日は機嫌が悪いから気を付けないと」と分かるのも人としての「力」だと思います。形式的な言葉や態度では絶対に人は動きません。誰が教えるのか?関わる全ての大人が伝えるのが理想ですが難しい。だから、我々がきちんと伝えなければいけないのです。責任感というと大げさかもしれませんが、やはり使命感を持っていなければ人と関わる仕事はできないと思います。
今の仕事ははっきりいって労力に比例するような見返りはありません。100やって5返ってきたら十分です。以前は100返ってくることを期待していましたが無理でした(笑)。マイナスで返ってくる事もしばしばあります。それでもやらなければ人は育ちません。嫌われる事を恐れたら何もできないのです。こちらが真剣に向き合って相手の事を思って話を続ければいつか伝わる。真剣でなく意地悪なだけだと本当に嫌われますが。民間企業の理論は通用しないと思います。費用対効果でいえばかなり効率が悪いことをしていますから。
知り合いから聞いたのですが、仕事が忙しくて残業時間が100時間を越えたら月の給料が倍以上になったということでした。我々は全てサービスです。賃金形態には全く反映されません。そこを考えていたら絶対にできない仕事だと思っています。どれだけ伝えたいメッセージを持っているかだと。
少し真面目な話ですが、かなりポリシーを持ってやっているつもりです。自分が評価を受ける必要はないと思っています。そのためにやっているわけではありませんから。誰のために何を目指すのかを常に意識しておきたいと思います。そんなことをふと考えました。
教育というか人との関わりというかその辺りについてかなり想うことがあります。誰かにモノを伝えるというのは責任が伴います。そこをどれだけ重く感じられるか。大切な部分と思います。基本的に私はストレートに想いをぶつけます。これが良いことかどうかは考えものです。もちろん、考えて話はしていますが許せないものは許せないという感覚が強くあります。一昨年だったかかなり頭にきた事があって本気で切れた事があります。これを許したら全て許さないといけないというレベルだと思ったからです。「学校だから許される」ではない。今から教えないといつになっても身に付きません。
が、その姿を見て「大人が本気で怒ったらダメ」だと言われました。私はそれに対しても激怒していました。何を言っているのかって話です。価値観が違うなと強く思いました。悪気はないのかもしれませんがどうなのかなと。別に私の価値観が全てではありませんが、客観的みて「教育」としては良くないのではないかと思いました。
「ダメなものはダメ」だときちんと教えないといけません。人に対する態度が悪い者に悪いと教えなければ「何が悪いのか分からない」ままで終わってしまいます。少し前の記事にも書きましたが国母選手のように今まで何も言われなかったのに社会に出てからいきなり叩かれて戸惑うということになります。誰かがきちんと教えなければいけないと思っています。
学校で生徒を見ていて「社会に出たら絶対にやっていけないな」という子がいるのを感じます。高校生は「自分がやりたいようにやる」事が正しい、カッコいいと思う傾向があります。失礼かもしれませんが、精神年齢がかなり低くなってきている感じを受けます。それを過保護的に親が守る。守ってやることが親の役割だと思う。自分の子供が問題行動を起こしても「自分の子は悪くない」と擁護する。誰からも注意を受ける事がないから、何か言われたら逆ギレをする。我慢をしたり、自分の行動を振り返ろうとはしない。当たり前の話です。
理想論で話をしたくはありません。関わる大人が本気で生徒の事を思い、真剣に向き合えば伝わるものがあると思っています。「~に怒られるからきちんとやらないといけない」と教えるのは教育ではない。それを本人が経験的に気づくのと言われてやるのでは違います。本当は「なぜダメなのか」という本質から理解させないといけませんが、それを全員に理解させるというのは不可能な話です。本質的な話は絶対に必要ですが、理解できるかどうかは別問題です。「何かきちんとやっておかないとまずい」というのが分かれば良いと思います。理想と現実は違いますから。
「生きてくる力」とはそのようなものだと思います。「この先生、今日は機嫌が悪いから気を付けないと」と分かるのも人としての「力」だと思います。形式的な言葉や態度では絶対に人は動きません。誰が教えるのか?関わる全ての大人が伝えるのが理想ですが難しい。だから、我々がきちんと伝えなければいけないのです。責任感というと大げさかもしれませんが、やはり使命感を持っていなければ人と関わる仕事はできないと思います。
今の仕事ははっきりいって労力に比例するような見返りはありません。100やって5返ってきたら十分です。以前は100返ってくることを期待していましたが無理でした(笑)。マイナスで返ってくる事もしばしばあります。それでもやらなければ人は育ちません。嫌われる事を恐れたら何もできないのです。こちらが真剣に向き合って相手の事を思って話を続ければいつか伝わる。真剣でなく意地悪なだけだと本当に嫌われますが。民間企業の理論は通用しないと思います。費用対効果でいえばかなり効率が悪いことをしていますから。
知り合いから聞いたのですが、仕事が忙しくて残業時間が100時間を越えたら月の給料が倍以上になったということでした。我々は全てサービスです。賃金形態には全く反映されません。そこを考えていたら絶対にできない仕事だと思っています。どれだけ伝えたいメッセージを持っているかだと。
少し真面目な話ですが、かなりポリシーを持ってやっているつもりです。自分が評価を受ける必要はないと思っています。そのためにやっているわけではありませんから。誰のために何を目指すのかを常に意識しておきたいと思います。そんなことをふと考えました。