秋風が吹いて あの猛暑とさようなら、がやっとできそうです。
夏の疲れが 身体のあっちこっちに出ると思います。
ゆっくり休んで、負担をかけないようにしましょうね。
3年前に 巨人の杉内投手が股関節を患って 手術をすると、
(たぶん 内視鏡かな❔ 骨切りではないと思う) いう話に
復帰は 正直厳しい のでは、と陰ながら とても心配しておりました。
どんなに、辛い想いとリハビリでの焦りと…
心中察するに胸が痛くなります!!
元のように戻すことは…
と思っていたら 今朝 ネットニュースで 引退を知りました。
第二の人生のスタートが切れますよに!!
陰ながら、また、応援したい と思います。
以下、ネットニュースから コピーしました。
巨人・杉内 今季限り引退へ
負傷離脱して3年…独占手記「体、もう、限界でした」
05年に沢村賞を獲得するなど、現役2位となる通算142勝をマークし一時代を築いた左腕だが、
15年オフに手術した右股関節に加え、近年は左肩痛にも苦しめられた。
17年間の現役生活を回想し、スポニチ本紙に独占手記を寄稿。背番号18のユニホームを脱ぎ、
近日中に都内ホテルで会見を行う。
17年間のプロ野球人生に別れを告げるときがきました。これまでの僕の野球人生に関わって
くださったすべての方々に感謝しています。
そして、どんなときでもたくさんのご声援をくださったファンの皆さま、本当にありがとうございました。
折れそうな心を、何度も支えてくれました。
引退の理由は体です。もう、限界でした。ホークス時代に痛め、じわじわと悪化していった右の股関節に、
それをかばいながら投げていたことで左肩にも痛みが出ました。
15年途中に1軍を離れてから、約3年間、1軍のマウンドを目指してきましたが、
上がることはできませんでした。
昨年のオフには、球団として支配下登録から外し育成選手として契約する選択肢もあったと思います。
それでも、僕の背番号18への強いこだわりを理解し、支配下登録のままで復活することを
待ち続けてくれました。周囲からの批判もあったと思います。
マウンドで恩返しすることができず、申し訳ない気持ちでいっぱいです。
ホークスと巨人、2チーム、2つのリーグでプレーすることができました。
両チームで日本一を達成しましたし、数多くの思い出があります。
たくさんの出会いにも恵まれました。ホークスでは王貞治監督(現ソフトバンク球団会長)
の下で一緒に戦うことができました。
巨人に移籍することを電話で報告した際に「巨人の野球を勉強してきなさい。頑張って」
と快く送り出してくださった言葉は、今でも耳に残っています。
巨人では長嶋茂雄終身名誉監督に投球を見ていただくことができました。
移籍1年目のキャンプでブルペン投球を視察し「その背番号(18)でチームを引っ張ってくれ」
と声を掛けてくださいました。体を触られ、声を掛けてくださったときには鳥肌が立ちました。
日本球界の象徴である「ON」の下で野球をできたことは、僕の人生の誇りです。
印象深いゲームは2つあります。ホークス時代の2010年9月25日に札幌ドームで
ダルビッシュと投げ合い、1―0で完封勝利を収めた試合。直前までふがいない投球が続いていたため、
試合後に感極まって泣いてしまいました。そして巨人時代の2012年5月30日、
交流戦の楽天戦で田中将大と投げ合い、東京ドームでノーヒットノーランを達成した試合です。
両方の試合で素晴らしい投手と投げ合い、勝つことができたので、達成感は大きかったです。
最後になりますが、家族がいなければ、ここまで続けることはできなかったと思います。
改めて「ありがとう」と感謝の思いを伝えたいです。
子供には、もう一度、マウンドで投げる姿を見せてあげたかったですが、
次の夢、目標に向かっていく父親の姿を見せることができればいいなと思っています。
(読売巨人軍投手・杉内 俊哉)
■「十分にやりきった」
反骨のサウスポーが、17年間の現役生活にピリオドを打つ。
立て続けに見舞われた故障との闘いで、1軍のマウンドから遠ざかること3年。
今季は2軍戦での登板機会もなかった。それでも杉内は「十分にやりきりました」と言い切った。
身長は175センチ。体格に恵まれたわけでも、圧倒的な球速を誇ったわけでもない。
それでも奪三振数2156個は現役最多。通算投球回の2091回1/3を上回る。
真っすぐ、スライダー、チェンジアップの3種類という少ない球種で打者のバットに空を切らせた。
九州で生まれ育った杉内は相思相愛の関係だった福岡ダイエーに入団した。
ソフトバンクも含めてホークスで10年投げた。斉藤和巳(本紙評論家)、同学年の和田毅や新垣渚とともに
「先発4本柱」を形成。工藤公康(現ソフトバンク監督)とともに背番号「47」はエース左腕の代名詞となり、
常勝ホークスを支え続けた。栄光の「18」を背負った巨人でも移籍1年目の2012年に
無安打無得点試合を達成するなど、3年連続2桁勝利をマークした。
3大会連続でWBCにも出場するなど国際試合でも無類の強さを発揮した左腕も満身創痍(そうい)
だった。15年秋に右股関節の形成手術を受け、同年オフの契約更改交渉では、
減額制限(年俸1億円超は40%)を大きく超える年俸5億円から90%減となる5000万円でサイン。
17年オフには2500万円減の年俸2500万円でサイン。
3年でトータル95%ダウンにも「諦めずに頑張っていく」と復活への意欲を失っていなかった。
ただ、17年春には左肩痛を発症。以降リハビリが続いた。
「どうやって投げたらいいのか、投げ方が分からなくなった」は紛れもない本音だった。
◆杉内 俊哉(すぎうち・としや)1980年(昭55)10月30日生まれ、
福岡県出身の37歳。鹿児島実では2、3年夏に甲子園出場。
3年夏の八戸工大一戦でノーヒットノーラン。
三菱重工長崎を経て、01年ドラフト3巡目でダイエー(現ソフトバンク)入団。
03年に日本シリーズMVPに輝き、05年にはパ・リーグMVP、沢村賞を受賞。
11年オフにFAで巨人移籍。15年7月に股関節痛を発症し、同年オフに手術を受けた。
00年シドニー、08年北京五輪、06、09、13年WBC日本代表。1メートル75、82キロ。左投げ左打ち。
皆様 季節の変わり目 ご自愛くださいね💛
『変形性股関節症に負けないでね!』