秋分を過ぎ、街にはキンモクセイの馥郁たる香りがそこかしこに漂っている。
このブログ、こんな気持ちでいられたら、でもキンモクセイのことには何度か触れている。
私のお気に入りのキンモクセイは、自宅周辺のほか何本かある。いちばんのお気に入りは通勤で都内の駅を降りてから病院に向かって10分ほど歩いたところにある豪邸の庭に植わっていたものだった。4、5株を寄せてある立派な大木で、家の主が丹精していたことがよくわかった。
この季節、このキンモクセイの香りを鼻いっぱいにかいでから出勤すると、その日の元気をもらえるような気がした。
2011年の秋、このキンモクセイの写真を載せた記事の中で、「都市生活者は自然災害を身体的感覚として捉えることができない。」と言っている。たしかにそうだ。だから、こういう香る木は季節の移り変わりを思い出させてくれる貴重なものである。
この写真は去年の秋のもの。去年もキンモクセイ、コロ健に季節の移り変わりを知らせてくれていた(『思索の秋』)。
不肖コロ健、元来、草木に疎かったのだが、朝晩の歩きで、クチナシとキンモクセイの香りに触れ、少しずつ植物に興味を持つようになった。40もずいぶん過ぎてからのことだったが、うれしかった。
このブログでは個人宅の木や花の写真はなるべく撮らないようにしている。いくら素晴らしいものでも、所詮は人の家の庭、そのお宅の方の意向でそんなものどうとでもされてしまうからである。だから、出てくる草花、木はほとんどが遊歩道とか公園といった公共施設のもの。
だが、このキンモクセイに限っては立派で、切られたりするようなことはないと思って、何度か写真に収めていたのだ。
今年のはじめ頃だったろうか、この土地の塀にかけられた看板を読んで、どうやらこの土地になにかの施設が建てられることがわかった。
屋敷の主になにかあったのだろうか。
キンモクセイ以外にもおおきな木が多いお屋敷だったので、お庭がどうなるのか心配していた。
やがて家の解体工事が始まった。そして、無惨な姿になったキンモクセイを見て驚いた。
私が好きだった、大きなキンモクセイは2株だけ残され、あとは切られていた。
残された枝に小さなオレンジの花が見え、精一杯にかおりをあたりにふりまいていた。
私には相当なショックだった。
丸く、まるで1本の木のようになっていた見事な木だったのに、こうも無惨な切り方があろうか。
広大な土地にはなにかの施設が建つらしく、この2株しか残すことができなかったのだろう。そう思って、週末を迎えた。
そして、週明けの今朝。
キンモクセイの香りは咲き始めが一番素晴らしい。今のうちに今年の花の香りをかいでおこうと、今朝もまた同じ道から病院に向かった。
私が好きだった、大きなキンモクセイは、満開のうちに跡形も無く切られてしまっていた。もう、そこにはあの香りは漂って無かった。
これには、さすがに泣けた。
せめて、花の季節が終わるまで待っていてくれたならば、地味な木が切られただけであったのに。
さて、コロ健、あんなことを書いていたが、昨日一日中勉強していたわけではなかった。
課題にしていた論文2本を読み終えてから、夕方に妻と近所の園芸店に出かけた。
しばらく店内を回っていたら、妻が、「健ちゃんの好きなキンモクセイ、植えない?」と言って、キンモクセイを急に見繕い始めた。
以前私が庭に植えることを言ったら、虫がつきやすいからと、あまりいい顔をしなかったのだが、今回は妻から。驚いたものの、元来好きな木なので二人で選んで家に持ち帰った。
今考えると、あの、跡形もなく切られてしまったキンモクセイの精が私たち夫婦のところにやってきたのだろうか?
帰ったら、家の横のドッグランにしているところに、妻がさっそく植えておいてくれた。
あの無惨に切られてしまったキンモクセイの生まれ変わりと思って、この木を大事に育ててやりたい。
諸行無常