落ち葉の季節となって、家の横のアプローチにも毎日落ち葉が溜まるようになった。朝、妻とナイトと駅まで歩くが、今朝は「毎日掃いているんだけど、きりがないわ。でもうちがやらないと、(枯葉は)すぐご近所の方に行っちゃうし。」と出がけにそうつぶやいていた。
主婦の仕事は重労働だ。
1日終わって、子供たちも帰ってきたら、寝る頃には洗濯カゴの中身はいっぱい。ゴミの回収は、分別に厳しいし、回収時刻を逃したら一週間先までやってこない。食事の準備に、食器洗いもある。夜遅ければ駅まで車で迎えに来てくれる。
掃除、洗濯、おさんどん、馴れたらなんとかできることもあるかもしれないが、全てを一人で満足いくようにこなそうなどということ、とてもじゃないが私にはできない。
最近は、“外注”としての掃除屋さんとか食事のデリバリーサービスも充実してきているけど、それでは経済的な負担が大きいし、生まれたばかりの赤ちゃんを育てるとか、老親の介護などはなかなか人に頼めないことも少なくない。
それなのに、主婦の仕事は「できて当たり前」と考えられてしまいがちだ。
家事は全てのことが連動している。だから、どれか一つでも手を抜いたら、あっという間にあれこれ滞るようになってしまう。それに誰もがしてきたことだからできて当たり前というわけでもない。環境は十人十色、どこの家庭も同じではない。
妻に家事をお願いしている身としては、何か少しのことでも評価してあげたいと思う。毎日家が綺麗なこと、下着やタオルが洗ってあること、食事が出てくること、食器が洗ってあること。子育てなんか、20年以上継続して行なってきた。悲しい時、辛い時でも話し相手になってくれること。
主婦は年中無休の膨大な仕事を抱えている。
私だって、風呂掃除や犬の散歩と餌やりぐらいはするし、頼まれたらご飯を炊いたり、ちょっとした掃き掃除はするし、(自分のシャツの)アイロンがけもする。でもそれは、妻にとってはちょっとしたオプションに過ぎない。
自分を含め家族みんなが、日々健康に仕事や学校に出られるということが、妻のおかげだということを噛み締ながら毎日を送りたい。
家事一般などできて当たり前のこと、ということではなくて、一つの立派な仕事としてやってもらっているということを自覚して日々主婦業をやっている妻をいたわりたい。
今日のエントリーは、一億総活躍とか女性の社会進出とかいった問題とは別の次元のこととして挙げた。それらに関しては、別の機会に考えることにする。
感謝の気持ちは口にしよう