こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

親を見送る歳になり

2017年11月01日 | 家族のこと

先週、今週と奇しくも同じ水曜日に友人の親御さんの葬儀があった。お二方とも、80歳をすぎておいでで一昔前だったら”大往生”とか、”天寿を全うされた”とか言えたかもしれないが、最近、胃癌、大腸癌の内視鏡手術のみならず、膵頭十二指腸切除術というような相当な体力を必要とする手術を受ける高齢の方の手術検体の診断をしていると、80歳ぐらいはまだまだ高齢とは言えないと思うようになってきている。とはいえ私も53歳、親も80歳をすぎた。両親とも元気なのはありがたく、楽しい。もともと足が少々不自由な親父が、転んだしりないかが心配だが、それ以外に気になることはない。

親御さんを見送る友人を見ると、さぞや寂しいだろうと思うと同時に、きちんとお別れできただろうかと心配にもなる。死は永久の別れであり、二度と言葉を交わすことはできない。子からみれば親はいつまでもしっかりしていて、自分のことなんて何も気にしてはいないだろうと思うけど、自分が子を持つようになり、息子や娘との関係をあれこれ考えることを鑑みれば、親は親で私とのことを多少は気にしているだろうと考える。

親がまだまだ元気でしっかりしているうちに孝行しようと思うのだが、いざとなると仕事だなんだで二の次になってしまう。それに、親孝行なんて今さらどうやっていいのかもよく分からない。もちろん、いよいよ足腰が弱って歩けなくなったら面倒をみるが、それは孝行というよりは当たり前のことだ。自分が思っていた道と違う道に進まされたなどという、親への葛藤を言い募ってもしょうがない。過去とは変えられないもので、私は私で未来をよりよく生きていくことしかできない。かといって、医者にしてくれて有難う、やっぱりよかったよというのもおかしな話だ。もしかしたら、心のどこかでそう言って欲しいかもしれないが、私がそんのことを言うこと自体、却っておかしなことになりかねない。

 

まあ、両親が元気なうちは、仕事だなんだと言い訳せずに、これまでよりも頻繁に顔を見にいくのがせいぜいの孝行だろう。両親は私が小学校から大学卒業まで過ごした都内の家を改築して今でも住んでいる。鎌倉の私の家からは車で1時間足らず。子供の頃は、お互いの時間は永遠にあると思っていたが、どうやらそれほど長くは残されていないようだ。会って、顔を見て、世間話をしてというなんでもないことをしていられる間がお互いにとっていかに幸せで貴重なことかとよくよく噛み締めていきたいものだ。

孝行をしたい時に親はいないので

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