ソフトバンクの王監督が退任することで、後任候補に秋山幸二氏の名前が挙げられています。秋山といえば、西武時代を少年時代に見ていた私にとってヒーローなので、その思い出に触れます。
まず、今年、西武の「おかわり君」こと中村剛也選手が、球団の日本人最多本塁打を塗り替えたというニュースがありました。それ以前に、その記録(43本)を持っていたのは秋山です。田淵、清原、和田ら30本を打つバッターは多く輩出した西武ですが、意外にも秋山の43本を越えた打者はいなかったのです。
秋山といえば、進学希望だったためドラフト指名されず、当時あった「ドラフト外」という制度で西武が獲得した選手です。そのため、当時の背番号は72番で、「俺はコーチで入団したのか」と本人が振り返ったほどです。一年目から一軍に入ったことで、背番号はすぐに24番に昇格しましたが、当時の西武ライオンズファンブックでは小さな写真一枚の寂しい扱いでした。
しかし、秋山といえば、清原と組んだ「AK砲」や、走攻守三拍子揃った俊足の中堅手と美しい思い出がたくさん残っています。しかし、本塁打は40本打っても、打率が2割6分台と低いことが多かったので、日本シリーズの本塁打後のバック転ホームインのような派手な活躍をしている割には球団の評価はあまり高くありませんでした。
また、当時の森監督と折り合いが悪かったとも伝えられています。そのため、FA制度ができた年、FAまであと一年を残していた秋山の残留は不可能と西武サイドは諦め、FAで出て行かれるくらいなら代わりの選手を取ろうとして、当時のダイエーホークスと史上空前の大トレードに出してしまいます。
西武球場より俄然広くなった福岡ドームでは、秋山の本塁打は激減し、ダイエーでは守備の良い中堅手というイメージに変わりました。しかし、熊本出身の秋山にとっては、準地元の福岡は居心地が良かったのでしょう。引退後はコーチとして球団に残っています。
今回、監督候補に名前が出たのは、王監督の就任前後に移籍し、ほぼ王監督の14年間を共に過ごしていることと、コーチ歴が十分長いことでしょう。もちろん、監督としての手腕は未知数ですが、指導者もこれから若返っていかなければなりませんから、新しい指導者として球界に一ページを残すつもりで頑張って欲しいものです。
まず、今年、西武の「おかわり君」こと中村剛也選手が、球団の日本人最多本塁打を塗り替えたというニュースがありました。それ以前に、その記録(43本)を持っていたのは秋山です。田淵、清原、和田ら30本を打つバッターは多く輩出した西武ですが、意外にも秋山の43本を越えた打者はいなかったのです。
秋山といえば、進学希望だったためドラフト指名されず、当時あった「ドラフト外」という制度で西武が獲得した選手です。そのため、当時の背番号は72番で、「俺はコーチで入団したのか」と本人が振り返ったほどです。一年目から一軍に入ったことで、背番号はすぐに24番に昇格しましたが、当時の西武ライオンズファンブックでは小さな写真一枚の寂しい扱いでした。
しかし、秋山といえば、清原と組んだ「AK砲」や、走攻守三拍子揃った俊足の中堅手と美しい思い出がたくさん残っています。しかし、本塁打は40本打っても、打率が2割6分台と低いことが多かったので、日本シリーズの本塁打後のバック転ホームインのような派手な活躍をしている割には球団の評価はあまり高くありませんでした。
また、当時の森監督と折り合いが悪かったとも伝えられています。そのため、FA制度ができた年、FAまであと一年を残していた秋山の残留は不可能と西武サイドは諦め、FAで出て行かれるくらいなら代わりの選手を取ろうとして、当時のダイエーホークスと史上空前の大トレードに出してしまいます。
西武球場より俄然広くなった福岡ドームでは、秋山の本塁打は激減し、ダイエーでは守備の良い中堅手というイメージに変わりました。しかし、熊本出身の秋山にとっては、準地元の福岡は居心地が良かったのでしょう。引退後はコーチとして球団に残っています。
今回、監督候補に名前が出たのは、王監督の就任前後に移籍し、ほぼ王監督の14年間を共に過ごしていることと、コーチ歴が十分長いことでしょう。もちろん、監督としての手腕は未知数ですが、指導者もこれから若返っていかなければなりませんから、新しい指導者として球界に一ページを残すつもりで頑張って欲しいものです。