今日、自宅の物置を整理していたら、かつての横綱千代の富士の優勝額のミニチュアが出てきました。これは新聞社が希望者に売っているもので、当時千代の富士の引退を惜しんだ私が、小遣いの中から出して手に入れた、千代の富士最後の優勝当時の額に入った写真です。そんなタイミングなので、自分が相撲を好きになるきっかけになった力士、千代の富士の思い出を書きます。
千代の富士は、私が小学校のときに横綱に上がり、大学生のときに引退した力士なので、それだけ長い時間見ることができたわけですが、そのちょっと前に一時代を作った北の湖とは2歳しか年が違いません。北の湖が21歳で横綱に昇進し、千代の富士が25歳で昇進したというタイミングの差もあって、この両者の全盛期はほとんど重なっていません。
千代の富士の思い出といえば、その筋肉質の体から繰り出される「ウルフスペシャル」と呼ばれた強烈な上手投げです。自分より体の大きい力士を、思い切った投げでしとめる豪快さは、今でも忘れることができません。ただ、この相撲スタイルは負傷と隣り合わせでした。千代の富士は肩の脱臼癖があるのですが、その原因となったのはこの投げです。
そのため、十両時代の千代の富士は肩に大きなテーピングを巻いて出場したこともありました。当時、千代の富士の体重は100kg前後でしたから、それより遥かに重い力士を投げようとするのは「身のほどを知らない相撲をする」と言われていた時期もありました。しかし、それから前褌速攻の形を身につけ、寄り切り主体の相撲にしたことと、ハードな筋力トレーニングで肩を外れにくくしました。
それでも、千代の富士はこの肩の脱臼は横綱に昇進してからも何度かあり、休場も多い力士でした。ただ、千代の富士の凄いところは、休場明けの場所で優勝することが多かったことです。負傷したら、その翌日から負傷したところ以外の部分を使ったトレーニングを再開するというストイックさは、今の力士には真似できないでしょう。
そんな千代の富士の思い出は、何と言っても53連勝でしょう。本人は本気で双葉山の69連勝の更新を狙っていたらしく、九州場所の千秋楽で大乃国に敗れたときは相当荒れたらしいと言われます。しかし、この連勝が続いていたときは、相撲好きの友達と、「千代の富士の連勝はいつまで続く?」というのが挨拶代わりだった時期がありました。
そんな千代の富士も、35歳を迎え、貴花田(後の貴乃花)に敗れると潔く引退を決意しました。こんな鮮やかな世代交代を見るのは、私の長い相撲観戦歴でも初めてのことです。親方としても大関千代大海を育て、充実した人生でしょう。
千代の富士は、私が小学校のときに横綱に上がり、大学生のときに引退した力士なので、それだけ長い時間見ることができたわけですが、そのちょっと前に一時代を作った北の湖とは2歳しか年が違いません。北の湖が21歳で横綱に昇進し、千代の富士が25歳で昇進したというタイミングの差もあって、この両者の全盛期はほとんど重なっていません。
千代の富士の思い出といえば、その筋肉質の体から繰り出される「ウルフスペシャル」と呼ばれた強烈な上手投げです。自分より体の大きい力士を、思い切った投げでしとめる豪快さは、今でも忘れることができません。ただ、この相撲スタイルは負傷と隣り合わせでした。千代の富士は肩の脱臼癖があるのですが、その原因となったのはこの投げです。
そのため、十両時代の千代の富士は肩に大きなテーピングを巻いて出場したこともありました。当時、千代の富士の体重は100kg前後でしたから、それより遥かに重い力士を投げようとするのは「身のほどを知らない相撲をする」と言われていた時期もありました。しかし、それから前褌速攻の形を身につけ、寄り切り主体の相撲にしたことと、ハードな筋力トレーニングで肩を外れにくくしました。
それでも、千代の富士はこの肩の脱臼は横綱に昇進してからも何度かあり、休場も多い力士でした。ただ、千代の富士の凄いところは、休場明けの場所で優勝することが多かったことです。負傷したら、その翌日から負傷したところ以外の部分を使ったトレーニングを再開するというストイックさは、今の力士には真似できないでしょう。
そんな千代の富士の思い出は、何と言っても53連勝でしょう。本人は本気で双葉山の69連勝の更新を狙っていたらしく、九州場所の千秋楽で大乃国に敗れたときは相当荒れたらしいと言われます。しかし、この連勝が続いていたときは、相撲好きの友達と、「千代の富士の連勝はいつまで続く?」というのが挨拶代わりだった時期がありました。
そんな千代の富士も、35歳を迎え、貴花田(後の貴乃花)に敗れると潔く引退を決意しました。こんな鮮やかな世代交代を見るのは、私の長い相撲観戦歴でも初めてのことです。親方としても大関千代大海を育て、充実した人生でしょう。