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イメージと違った(イタリア対メキシコ)

2013-06-20 19:09:12 | ワールドサッカー
日本時間の今朝、日本代表はイタリアと対戦して、善戦はしたものの惜しくも敗れました。この試合はもちろんビデオで後日確認しますが、映像を見られるのはたぶん明日の夜になると思います。そのため、今日と明日は穴埋めネタで失礼します。

ビデオで見た、コンフェデ杯初戦のイタリア対メキシコを取り上げます。イタリアはバロテッリ(9番)を真ん中に置いた3トップ気味の布陣でした。バロテッリは強靭な身体能力で驚異的なシュートを放てますが、ドリブラーではないので、イタリアのチャンスに絡むのはサイドのマルキージオ(8番)とジャッケリーニ(22番)です。

もっとも、マルキージオはユベントスではボランチですし、ジャッケリーニも本来MFです。点を取るのはバロテッリに任せた布陣と言えます。また、3人の中盤は横に並べ、ピルロ(21番)をアンカーに置いた布陣です。

この布陣はピルロの守備力をカバーするためのものです。ピルロはACミラン時代、1ボランチに置くと相手のドリブラーにファウルしてしまう課題がありました。そのため、当時のアンチェロッティ監督は守備に強いアンブロジーニをボランチに置いてピルロと組ませました。これでACミランの守備が安定して、欧州制覇をした実績があります。

今回のイタリア代表は守備の強いローマのデロッシ(16番)と、運動量の多いACミランのモントリーボ(18番)をピルロのサポート役につけました。そこまでしてピルロを使いたい理由は、その正確なパスです。このメキシコ戦では長いパスで右SBアバーテ(20番)を走りこませ、正確に足元にパスを送っています。ピルロは先制点になる直接FKも決めています。

イタリアのイメージが今までと違うのは、攻撃重視のプレースタイルです。イタリアは以前、1-0で勝つのが勝負哲学だった堅い守りを軸にしたチームを作ることの多い傾向が見られました。しかし、このメキシコ戦を見る限り、イタリアの最終ラインは高く引かれ、スペインのようなポゼッションサッカーでメキシコを圧倒しようとしてきました。

このサッカーで来られても、メキシコが互角に戦えたのは、メキシコがここしかないという弱点をうまく突いたからです。それはCBバルザーリ(15番)の足元の技術でした。トップ下のドスサントス(10番)がバルザーリに詰め、バルザーリのトラップミスを拾ってファウルを誘い、PKを決めて同点に追いついています。

最後はバロテッリがメキシコDF2枚の間を強引に抜くドリブルの力技で決勝点を決め、イタリアが2-1で勝利していますが、W杯を思わせるようなスピードある戦いぶりは、コンフェデ杯の意義を世界中が認めた証だと思います。面白い試合でした。
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怪童と呼ばれた男(尾崎行雄)

2013-06-20 18:41:13 | 他スポーツ
先日、東映フライヤーズ(現日本ハムファイターズ)の元エース、尾崎行雄さんの訃報がありました。尾崎行雄の時代は私は生まれていないので、新聞報道と記録面の情報ですが書きます。尾崎行雄は大阪の浪商高校の出身で、高校を中退してのプロ入りでした。

今だと高校を中退させての入団は世論の反発を招きそうですが、当時はドラフト制度もできておらず、金銭をちらつかせば高校を中退する決断をするのはわからないでもありません。尾崎行雄が伝説に残っているのは1年目から活躍したのも理由でしょう。

尾崎行雄のピッチングフォームも独特でした。両腕を後ろに振って勢いをつける投げ方は、当時ロッキングチェアに引っ掛けて「ロッキングモーション」と呼ばれました。最近の選手では野茂英雄のトルネード投法が近いですが、こういう勢いをつける投げ方は、どうやって盗塁を防ぐかは重要です。

野茂英雄の場合は、ひねらないで投げることもできて、クイックもやっていましたが、それでもメジャーの俊足選手は盗塁を挑んできました。尾崎行雄のランナーを出したときの映像は見たことがありませんが、クイックができないと通算103勝はあり得ないでしょう。

当時はスピードガンのない時代でしたから、尾崎行雄のストレートの威力は伝聞に頼るしかありませんが、当時チームメイトだった張本勲氏によれば「150kmは出ていた」そうです。力勝負でねじ伏せることができた豪腕投手でした。

もっとも、当時のプロ野球は、「優勝するためにはエースを一人潰さないといけない」という投手受難の時代でした。当時中日ドラゴンズのエースだった権藤博さんの酷使を表す言葉に「権藤、権藤、雨、権藤」と言われたほどです。尾崎行雄もこの酷使で、選手生命は短く、プロには10年在籍しましたが実働(一軍登板)はわずか6年と、彗星のように消えることになりました。

それでも、怪童と呼ばれた豪腕投手だったことで、歴史には確実に名を刻みました。この時代を無事にくぐり抜けたのは400勝した金田政一さんだけという厳しい時代でした。今の時代ならローテーションで大事に使われただろうと思うと残念な思いもあります。
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