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今夜の「NHKスペシャル」を観た。
特攻隊の生き残りの人々が語る。
陸軍特攻隊 出撃したが生還した大貫さん。
全国で慰霊の旅を続けている。
「もう2度とあんなことはいやだ」。
特攻隊編成は、まず海軍がはじめた。特攻の効果は上がった。
海軍から陸軍へと特攻隊編成は伝染する。
梅津参謀総長の命令となった。
話を聞いた天皇も喜ぶ。
若者の犠牲的精神への賛美。
戦局が好転できるとは思われない。
菅原中将は懐疑的だった。
「自己陶酔に陥っている」
陸軍の命令には従わざるを得なかった。
特攻隊員は「命令」から「志願」と形を変えた。
19年10月6日 訓練生への言葉の中に3択のメモが渡された。
特攻を、
・熱望する
・希望する
・希望せず
その場で「希望せず」と全員書いたが、1名から反論があった。
そして「熱望する」に全員○をつけた。
希望せずに○をつけても特攻に行っている人がいる。
形式的なものだった。
自ら志願したものとして、特攻に出撃することになった。
440人の特攻部隊が必要となった。
操縦技術が未熟(当然)だった。訓練機もオンボロだった。
事故が続いた。
養成がうまくいかない菅原中将に非難がくる。
特攻は高度な技術がいる。
急降下はスピードが速くなりすぎて操縦不能になるか、
空中分解してしまう。350kmでアウト。
飛行機のレベルが低く ちゃんと飛べない。
97式は訓練機。ところが沖縄戦に使われることになった。
重い爆弾を運ぶことには無理があった。長距離飛行に耐えられないのだ。
なぜ使うのか。
志願兵には旧式を配備。戦闘部隊が優先。
「戦闘部隊にはボロクソの飛行機はやれない」という証言があった。
米軍はレーダーで察知していた。
第6航空軍に命令。知覧飛行場に集結。48機のはずが、
12機しか到着していなかった。
他は整備不良だった。
海軍との共同作戦に遅れをとることはできない。
第22振部隊が単独で出撃することになった。
2日間仲間と酒を飲んで語った。
出発前に機関銃と無線機を外した。
援護機も出られなかった。
自決用のピストルを渡される。
当日は、偵察機も飛べなかった。
どうしようもない状態だった。
グラマン機に襲撃される。
防備もできない。
戦友が散った。
1900機の特攻機。(やはり海軍が主力だった)
当時すべてが死んだと思われたが、ひそかに生き残っていた。
605人に及ぶ。
帰還した特攻隊員はどこにいったか。
軍は福岡市に施設をつくった。
彼らは陸軍振部寮に収容された。
秘密裡に隔離した。
移動中に故障が続発。飛ぶべき飛行機がなかった。
3人出撃。9人は飛べず。
死んだと思ったものがゴロゴロそこにいた。
ひどい仕打ちを受けた。
お前らが生きて帰ったために米軍が生き残った。
国賊だとまで言われた。
倉澤参謀が仕切っていた。「こんなに帰ってくるとは思わなかった」。
ここで再び突撃するように仕向けられた。
毎日、決死の気持ちを強要された。
しごきの世界がここにあった。
自殺した人もいた。
(JR西の日勤教育を思い出した)
ここでなんのために死ねるのか、問い詰めた。
その後も特攻要員を外されることはなかった。
本土を守る特攻要員になった。
どこまでも特攻隊がついて回った。
厚木でもどこでも死ななければならない兵隊だった。
降伏の日。40人の特攻兵のうち3人。翌日3名が死んだ。
菅原中将は運命をともにすると言ったが98歳までいきた。
大貫さんの慰霊に旅は今も続く。
肌身は話さず持って歩く「寄せ書き」。
親友の言葉が書かれている。
「生まれかえるなら戦争のない国に生まれようね」と
彼岸の仲間に語りかける。
※このドキュメントを見て、この軍の姿勢では沖縄の自決強要は
当然のことだと思った。生き残ってはまずいのだ。
死んでもらわなくてはならないのは特攻隊であり沖縄県民だったのだ。
もし、本州に戦争が及べば、すべての国民に死んでもらうことが
軍隊思想の当然の帰着だったのだろう。
このような考えれば、日本国軍隊こそ、いわゆるテロリストだったと
思わざるをえない。
特攻隊の生き残りの人々が語る。
陸軍特攻隊 出撃したが生還した大貫さん。
全国で慰霊の旅を続けている。
「もう2度とあんなことはいやだ」。
特攻隊編成は、まず海軍がはじめた。特攻の効果は上がった。
海軍から陸軍へと特攻隊編成は伝染する。
梅津参謀総長の命令となった。
話を聞いた天皇も喜ぶ。
若者の犠牲的精神への賛美。
戦局が好転できるとは思われない。
菅原中将は懐疑的だった。
「自己陶酔に陥っている」
陸軍の命令には従わざるを得なかった。
特攻隊員は「命令」から「志願」と形を変えた。
19年10月6日 訓練生への言葉の中に3択のメモが渡された。
特攻を、
・熱望する
・希望する
・希望せず
その場で「希望せず」と全員書いたが、1名から反論があった。
そして「熱望する」に全員○をつけた。
希望せずに○をつけても特攻に行っている人がいる。
形式的なものだった。
自ら志願したものとして、特攻に出撃することになった。
440人の特攻部隊が必要となった。
操縦技術が未熟(当然)だった。訓練機もオンボロだった。
事故が続いた。
養成がうまくいかない菅原中将に非難がくる。
特攻は高度な技術がいる。
急降下はスピードが速くなりすぎて操縦不能になるか、
空中分解してしまう。350kmでアウト。
飛行機のレベルが低く ちゃんと飛べない。
97式は訓練機。ところが沖縄戦に使われることになった。
重い爆弾を運ぶことには無理があった。長距離飛行に耐えられないのだ。
なぜ使うのか。
志願兵には旧式を配備。戦闘部隊が優先。
「戦闘部隊にはボロクソの飛行機はやれない」という証言があった。
米軍はレーダーで察知していた。
第6航空軍に命令。知覧飛行場に集結。48機のはずが、
12機しか到着していなかった。
他は整備不良だった。
海軍との共同作戦に遅れをとることはできない。
第22振部隊が単独で出撃することになった。
2日間仲間と酒を飲んで語った。
出発前に機関銃と無線機を外した。
援護機も出られなかった。
自決用のピストルを渡される。
当日は、偵察機も飛べなかった。
どうしようもない状態だった。
グラマン機に襲撃される。
防備もできない。
戦友が散った。
1900機の特攻機。(やはり海軍が主力だった)
当時すべてが死んだと思われたが、ひそかに生き残っていた。
605人に及ぶ。
帰還した特攻隊員はどこにいったか。
軍は福岡市に施設をつくった。
彼らは陸軍振部寮に収容された。
秘密裡に隔離した。
移動中に故障が続発。飛ぶべき飛行機がなかった。
3人出撃。9人は飛べず。
死んだと思ったものがゴロゴロそこにいた。
ひどい仕打ちを受けた。
お前らが生きて帰ったために米軍が生き残った。
国賊だとまで言われた。
倉澤参謀が仕切っていた。「こんなに帰ってくるとは思わなかった」。
ここで再び突撃するように仕向けられた。
毎日、決死の気持ちを強要された。
しごきの世界がここにあった。
自殺した人もいた。
(JR西の日勤教育を思い出した)
ここでなんのために死ねるのか、問い詰めた。
その後も特攻要員を外されることはなかった。
本土を守る特攻要員になった。
どこまでも特攻隊がついて回った。
厚木でもどこでも死ななければならない兵隊だった。
降伏の日。40人の特攻兵のうち3人。翌日3名が死んだ。
菅原中将は運命をともにすると言ったが98歳までいきた。
大貫さんの慰霊に旅は今も続く。
肌身は話さず持って歩く「寄せ書き」。
親友の言葉が書かれている。
「生まれかえるなら戦争のない国に生まれようね」と
彼岸の仲間に語りかける。
※このドキュメントを見て、この軍の姿勢では沖縄の自決強要は
当然のことだと思った。生き残ってはまずいのだ。
死んでもらわなくてはならないのは特攻隊であり沖縄県民だったのだ。
もし、本州に戦争が及べば、すべての国民に死んでもらうことが
軍隊思想の当然の帰着だったのだろう。
このような考えれば、日本国軍隊こそ、いわゆるテロリストだったと
思わざるをえない。