それでは家庭舎のハード面について、十次はどのように考えて
いたのだろうか。
十次は、建築についても大いに興味があったようだ。
旅行する町々で建築物を見て歩いている。
音楽隊が各地を巡回する時も、その地の建物の観察を怠らなか
ったという。
岡山孤児院の建物は78棟に達したのであるから、もし十次が
建築家であったとしても十分なキャリアである。
十次は小舎制の最高水準の建物を建てたと考える。
家庭舎と . . . 本文を読む
1906年(明治39年)収容児数が前年比3倍に急増する最中に
家庭舎という小舎制へ移行を始めた。
10~15名収容の建物を数多く建て、建物ごとに一人の主婦
(保育士)が児童の養育する体制は、当然ながら建物の
数に見合った主婦が必要になった。
十次は1906年(明治39年)1月発行の岡山孤児院新報で、
「院内を全く理想的即ち家族的(バーナード式)に改良した
きこと」などが書かれており、特に家庭舎建 . . . 本文を読む
御下賜金とは何か。
相撲の天皇杯のことを賜杯という。
これは正確に書けば、御下賜杯ではないだろうか。
詳しい方は教えていただたい。
私は御下賜金を以下のように理解している。
「立派な行いをしている人への皇室からのお金のプレゼント」
そして、皇室が寄付をするのだから、国民はこぞって寄付を
すべしということになる。
効果は絶大である。現在でも社会的な事業を行っている団体に
この寄付がある。しかし、戦 . . . 本文を読む
ここで少し突っ込んで、岡山孤児院の財政がどのように
なっていたか、考えてみよう。
100年前の施設の財政を書いてどうする、という意見もある
とは思いますが、現在では、福祉施設の運営経営(ソーシャル
・アドミニストレーション)が重要視されているので意味の
あることと考えています。
1906年(明治39年)、この年の岡山孤児院の全歳出は、
14万4000円といわれてる。
現在の貨幣価値にする12億円 . . . 本文を読む
テレビ・ドキュメントを観て、これは大変なことだと思った。
戦争に参加することで、精神を病むことは昔から知られて
いた。第1次世界大戦後にはすでに大きな問題になったいた。
日本では、戦争ボケなどどいわれた。
勇者がなる病ではないといわれ、表面化されない場合が
多かっただろう。この傾向は今でもある。
イラク戦争では、ストレスを感じたら上官に相談せよ、
といわれているらしい。
しかし相談すると、本国 . . . 本文を読む
1200名という、小さな町か大きな村の人口ほどの院生を
抱えた十次は、いかにキリストの導きとはいえ、着る服、
食べるもの、住む家は、「みんな」で集め、つくるしかない。
ここでいう「みんな」は、国の内外を問わない。ちょっと、
想像ができないくらいの人数の援助があったのではない
だろうか。
集った総額はどのくらいになるのだろう。この話が終る頃
までに調べればと思う。参考までに、死者14万という
関東 . . . 本文を読む
賢治の「雨ニモマケズ」に謳われた「寒さの夏はおろおろ歩き」
と謳われた東北大凶作は、1905年(明治38年)のことである。
岩手県花巻に生まれた賢治が9才の時である。
平年に比べて1~3割の収穫しかない大飢饉である。
全く収穫のない村もあった。
弱いものは生きていくのさえ困難になってしまった。
十次はこの飢饉が始まる直前に、この飢饉を予期するように、
無制限収容主義を発表していた。
1906年 . . . 本文を読む
辰子が孤児院に来てから3年が経った。
1895年、品子と十次に病魔が遅い、品子には炭谷小梅が
付きっきりで看病し、十次の収容先である離病院には二人の
看護婦が付き添った。そのひとりが辰子だった。
そして十次のみ生き残ることになる(2月21日号掲載)。
その時のことを、小梅の講演録から引用してみる。
少し長いが、大切な内容なのでお許しいただきたい。
石井氏は3人の実子と300人(1895年現在) . . . 本文を読む
一言。こんなことをしてはいけない。
フジ・ニッポンサイドの人もこれでは情けない。
野球に続いて、漁夫の利を得ようとするソフトバンクは
もっと情けない。
支持は一気にライブドアに移るだろう。
そんな判断もできないのか。 . . . 本文を読む
吉田辰子(以下辰子)に関して、今だ資料が十分集っては
いないが、書いておかなくてはならない女性である。
辰子と十次の出会いは、1892年のあの同志社病院である。
(2月9日号掲載)
辰子は、夫と死別した後、自活のために看護婦になって
同志社病院に務めていた。夫は、関西法律学校(関西大学
の前身)の初代校主吉田一士ということだから、かなり歳の
離れた夫婦だったのだろう。
この年の十次の日誌をじ . . . 本文を読む
福西志計子と木村静はともに、備中高梁の生まれである。
福西志計子(1847~1893)は、藩士の一人娘として生まれ
養子を迎えた。
木村静(1837~1900)も士族の生まれで、本家に嫁ぐが
寡婦となる。
ともに1875年(明治8年)、岡山の裁縫伝道所に向う。
時代は明治に移っており士族には厳しい時代である。
自活しなければならなかった。
福西の場合は自活の必要はなかったかもしれないが、向学の
. . . 本文を読む
30話を超えた。そこで約束の十次の回りにいた女性に
ついて書いていきたいと思う。
十次は、姉妹に囲まれて育ったことからか、女性に対する
接し方が自然である。このことがまた多くの女性に囲まれる
ことにつながる。
明治の初期は女性にとっても受難期であり、また未来が拓け
ようとする時でもあった。キリスト教に近づいた女性は、
その平等思想に惹かれたようである。
男性においても、平等思想は魅力的だった。 . . . 本文を読む
不可解な事故である。
爆破処理をしたのは下請業者で、初めての受注という。
このような情報はなかなか知ることができないので、
不使用弾の処理は演習を兼ねて自衛隊で処理されて
いるのではないかと思っていた。
しかし、東京で備蓄していた3万発となれば、演習でも
使えないのだろう。
特に手榴弾となれば、隊員がミスをすれば、すぐに事故に
つながる。ならば下請でということか。
不発弾処理は自衛隊でというの . . . 本文を読む
「里預け」は、今でいう里親制度である。この言葉は、
よく聞く。
では、現在、制度として機能しているのか。
平成15年現在、全国で2,811名が里親制度を利用している。
諸外国に比べてとても少ない。児童養護施設は28,988名が
入所しているのだがその1割にも満たない人数である。
今だ試行錯誤中といってよい※1。
ただし十次の里預けは戦後の里親事業との連続性はない※2。
では、十次は何人を里預けに . . . 本文を読む
人の噂も75日というけれど、2年もたてば、どんな大切な
ことも薄れていく。人間の脳がそうなっているのである。
別に忘れる脳が悪いわけではない。
人間のこの生理を、補うために、会社では毎朝社訓を読み
上げる。人は記念日をつくって当時を思い出す。
読経をし、朝夕の祈りを欠かさない。
このようなことは非常に大切なのである。
でなければ、日々の新しい出来事に流されることになる。
自分という確固たるもの . . . 本文を読む