公立志津川病院は、もうどこにもなかった。
地図で探すと、組合病院前という交差点の表示があった。
これが公立志津川病院でした。
組合病院ってなんだろうかと調べてみると、「 1町3カ村国保直営組合病院」という開院時の名前が交差点名に残っていることがわかった。
町村合併もあっていよいよわからなくなった。
この地図にはまだ病院の建物が残っているけど今は何も無くなっている
東日本大震災では4階ま . . . 本文を読む
NHK 杉浦圭子アナは、この4月から広島局から大阪局に転勤されています。
「すてきにハンドメイド」という番組を担当されています。
3月30日に一度記事を書いたのですがその記事へのアクセスが日々増えています。
多くの人が彼女に対して関心を、持っていることがわかります。
彼女の行動、そして転勤についてへの関心でしょうか。
私にもわかりません。
とにかく、元気に頑張っていただきたいですね。 . . . 本文を読む
石巻市街から、今まで398号線を走ってきたのですが、南三陸町戸倉からは45号線になります。
青線が45号線であり赤線は私の道筋です。
45号線については、以下の書籍に詳しく書かれています。
命をつないだ道: 東北・国道45号線をゆく稲泉 連新潮社
一部、引用します。
「青森市と仙台市を結ぶ国道45号線は、約510kmにわたって三陸海岸を貫く基幹道路である。しかしその長大な距離に対して、三 . . . 本文を読む
神割崎から海岸沿いに西に向かいます。
このあたりの津波被害も甚大です。
画像を2枚並べてみます。
広範囲に浸水していることがわかります。
標高の低い土地が多く、川に沿って内陸奥深くまで浸水しています。
海岸から遠い地区は、津波の浸水を予想しておらず、人的被害が多かったと言います※。
※『消防団の闘い』126pより
これらの川には水門があります。
その水門が閉じているかどうか確認に回って津 . . . 本文を読む
小野幹さんは1932年岩手県藤沢町生まれの写真家です。
東北6県を昭和30年代から40年代に撮影した写真です。
塩竈、荒浜、渡波、七ケ浜、田老、山田、船橋、波板、浄土ヶ浜、釜石、大船渡、宮古など、
訪問した町々の人と風景が、当時を知らない私にも懐かしい。
写真を見るだけで、「シャイで奥ゆかしい東北の人々」を身近に感じることができます。
素晴らしい写真集です。
2011年8月出版。
震災後です。 . . . 本文を読む
「名勝 神割崎」という道路標識がありました。
まったく知識がなかったのですが、休憩に立ち寄りました。
三陸海岸は厳しい断崖絶壁と浜を繰り返す地形です。
398号線や45号線は、海岸線が切り立った場所は内陸を走り、浜があるところは海岸沿いに走ります。
それゆえ、断崖絶壁を見る機会は少ないのです。
断崖絶壁は恐ろしいような風景でもあります。
しかし、絶景です。
ここ神割崎もそのよう場所でした。 . . . 本文を読む
石巻市立吉浜小学校から398号線を北に向かいます。
398号線は浜辺や村(の跡)の中を、走っています。
ほとんど更地になっていますので、どの町や村で写真を撮影したのかわからなくなります。
撮影当日でもわからなくなりました。
記事を書いている時に、画像データの撮影時刻をみて地図で確定するようにしています。
例えば次の写真。
石巻市立相川小学校です。衛星写真で特定できました。
幸い、児童は避 . . . 本文を読む
岡山市の犬島に行ってきました。初めての訪問でした。犬島には銅の精錬所の跡を「犬島アートプロジェクト精練所」と名付けて、整備公開しています。前職場の仲間10名で行きました。大変面白い場所でした。明日でもブログにアップし...>続きを読む
これも記事です。 . . . 本文を読む
会員とは名ばかりですが、今年は出席することができました。
「きずな」の活動に触れることは私自身ずいぶんと刺激になります。
いろいろな支援団体に接する機会があるのですが、「きずな」も実に頼りになるNPOだと思います。
その頼りになることはなにか。
それは時代の要請に応じて、事業内容が「成長」していることです。
すなわち、支援の手がいくつもあるということです。
そして増えつつあるということです。
硬直 . . . 本文を読む
大川小学校から新北上大橋を渡って北上川沿いを河口に向かう。
津波に破壊され、そのまま放置されている建物があった。
校舎らしからぬ建物に見えた。
石巻市立吉浜小学校の体育館とわかったのは帰宅後でした。
校舎は取り壊されていた。
実は、すぐ隣に石巻市北上総合支所があったのだが、こちらもすでに解体されていた。
小学校の校舎は3階建て。
総合支所は2階建てだった。
総合支所が指定避難場所だった。
. . . 本文を読む
大川小学校の遭難については、大きなニュースとなり報道記事も多い。フォトジャーナリストの加藤順子さんが追跡取材をしている記事がネット掲載されています。子どもたちが向かった新北上大橋の三角公園を望む。右側の堤防から津波が押し寄せた。小学校校舎。川下側からも津波が押し寄せた。付近には住宅が並んでいたがすべて更地になっていた。
一帯は完全に水没した。小学校があった釜谷地区の死者は179名。死亡率は38. . . . 本文を読む
地図からわかるように大川小学校は河口から4kmしか離れていない。海抜もほとんどない。どうしてこんな場所に学校を造ったのかと思ってしまう。しかし、このような条件の学校はここだけではない。多くの学校が海の近くに建てられている。そして、他の学校の子どもたちは生き延びている。なぜ、どうして、74名もの児童と10名の教職員、そして避難してきた住民数十名が命を落とさなければならなかったのか。大川小学校は避難場 . . . 本文を読む
雄勝町から釜谷トンネルを抜けると、やがて前方に北上川の堤防が見えてくる。
北上川は明治期までは石巻市街を流れていたのだか、洪水対策のため太平洋側に流れるように開削、分流した。
北上川は東北第一、全国でも第4の大河である。
河口に近いこのあたりでは、川幅も広い。
架かる橋も大橋にならざるを得ない。
車を運転しながらも気持ちはどんどん重くなっていく。
大川小学校は新北上大橋のたもとを右折すればいいの . . . 本文を読む