報徳の話の続き。
尊徳先生は弟子として誰かを鍛えたということはなく、尊徳先生の話を聞いてそれを自分のものとして他の場所で仕法と呼ばれる地域活性化事業を行う弟子たちがいたという形でした。
そんな中、すぐれた四人の高弟がおりなかでも『報徳記』という尊徳先生の幼い時の話から、四方によって村々を救済するときに行ったやり方や話を熱い情熱で書いたのが富田高慶(とみたたかよし:通称とみたこうけい)。
彼は今の福島県の相馬藩出身で、江戸時代末期の反省立て直しのために江戸へ出て昌平黌で学ぶこと十年。苦学を続けたものの藩政復興のために得るものなくもんもんとしていました。
あまりの苦学のために病気になったことをきっかけに医者から尊徳先生が荒れ地を復興させているという話を聞きつけ、「これぞ求めていた師である」と心に決め、持っていた書籍などを売り払って尊徳先生の元を訪ね教えを請いました。
しかし尊徳先生、江戸のエリートが教えを求めに来たと聞いても「暇がない」と会おうともしませんでした。
「それならば会ってくれるまで待とう」と現地の農民の家に仮住まいし、寺子屋を開いて生活しながらその時を待ちます。
待つこと四か月、「あの学者はまだいるか」と尊徳先生が門人に尋ねたところ、「いまだに入門したいと待っております」とのこと。「では会ってみるか」とついに面会がかなったのでした。
そして喜んでまかり出でた高慶に尊徳先生は「豆の字を書いてみよ」と言いました。
紙に豆の字を書くと今度は「それを馬に食わせて見よ」と言う。
豆と書いた紙を馬が食べるわけもありませんが、すると尊徳先生「わしの豆は食べるぞ」と本物の豆を取り出しました。
つまり、学問や理屈をいくら学んだところでそれで人や社会を助けることはできない。あくまでも実践でなくてはならん、というのが尊徳先生の教えで、これが有名な『豆の話』と呼ばれるものです。
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さて、尊徳先生は農村へ入って、村人を集め皆で悩みや課題を話し合うやりかたを"芋こじ"と呼びました。
この"芋"とはサトイモのことで、樽に泥のついたサトイモと水を入れてかき混ぜると互いに擦れ合ってきれいになるということを言い表しています。
つまり、報徳の常会は誰かからいい話を聞くだけではなく、互いに意見を言い合うことで互いの話からインスピレーションを受けて成長してゆくという形。
今でいうワークショップみたいなものですね。
教えというものは誰かから教えてもらえばすぐに自分の血や肉になるものではありません。
自分が心底、「そうか、そうだったんだ」と腹の底から納得したことでなくては人間は動くものではないのです。
現代学校教育でも「気づきを大切に」と言いますが、人に何かを気づかせるということはとても大変なこと。
それを理屈でなく、芋こじという実践によってやってみせることが尊徳先生の実践家としての神がかり的能力でした。
心に思ったこと、気づいたことは実践によって初めて世に役立つもの。
やってみるという生き方、それこそが報徳なのです。