今回の掛川~伊豆半島の旅で印象的だったのは、その各地で安政の大地震がキーワードとして登場したことでした。
一つ目は掛川城。ここは関ヶ原の合戦にあたって、豊臣側の家臣が徳川方につくという流れを作った山内一豊が今に伝わる近世城郭としての体裁を整えた、とされている城です。
今の姿は平成6年に天守が日本初の木造建築によって復元されたものですが、実はこのお城は、安政の大地震で天守と城郭が倒壊しています。
お城などの文化財を復元するためには、それがそういう姿をしていたということを証明しなくてはならないのですが、その根拠は、ここ掛川から高知23万石への大出世をした山内一豊の言葉にありました。
それは「高知城は掛川城のように作れ」というもので、やや時代は異なるとはいえ、今に残る高知城を参考にして掛川城が復元されたのでした。
次がレンタカーを借りた三島市内の三嶋大社。こちらも安政の大地震で社殿が倒壊し、その後13年の歳月をかけて明治2(1869)年に再建されたもの。
今目にしているのは江戸時代末期の建物、と言われるのは、まさにこの大地震後に再建されたからにほかなりません。
この神社は拝殿が大きいことで知られていますが、全国的に見ると、本殿の高さは23mにも及び、出雲(いずも)大社と並んで国内最大級を誇るとのことです。
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そして最後が下田での大地震とそれによる大津波。
下田では津波によって市街地がほぼ壊滅したほか、幕府と開港を交渉していたプチャーチン提督のディアナ号が、高さ6mの津波を受けて破損し自力航行が不可能になりました。
その後は先日書いたように、伊豆近在の船大工が寄ってたかって洋船の建造に携わり、それが日本海軍の技術の下支えにつながったという歴史物語に続いてゆきます。
【下田市ペリーロード】
静岡県を旅していると、そこここで安政の大地震の話が必ずと言って良いほど出る、ということはそれだけ本当に甚大な被害が発生して、それが歴史になっているという事です。
プレート型の大地震は、東海・南海地方は数百年の周期で繰り返されていますので、必ずやまたこの地方を襲う事が予想されています。
現代社会の知恵と技術で、それが悲しい歴史にならないように祈るばかりです。
先人の知恵を今に生かすためにも歴史の勉強が必要です。