ウクライナの複雑な歴史を簡単にまとめておきたい。キーワードは「正教」と「コサック」だと僕は思う。ウクライナあるいはロシアというのは、ヨーロッパ世界の辺境にある。ローマ帝国の版図は地中海からガリア(フランス)、ブリタニア(イギリス)の方まで伸びていくが、東方のドナウ川以東にはなかなか勢力を伸ばせなかった。ウクライナのステップ平原には遊牧民が様々に行き来するが、やがてスラヴ系農民が定住して農村社会が成立する。そこに北欧ヴァイキング系の王朝が成立した(この王朝はだんだん現地化する)。それが「キエフ・ルーシ公国」で、9世紀末から13世紀まで続いた。「ルーシ」というのは、ロシアとかベラルーシの語源となるけど、本来はウクライナあたりが「ルーシ」だったのである。
このキエフ・ルーシ公国がキリスト教を受け入れたのである。それが988年のことで、ヴォロディーミル聖公と呼ばれるようになる大公の時代である。ユダヤ教やイスラム教という選択肢もあったけど、結局コンスタンティノープルの東方正教を受け入れた。使節を送って検討したが、儀式が一番壮麗なのを見て感動したらしい。位置的にローマ教会を受け入れず、正教会を受けいれたということが歴史を決定した。後に長年にわたって争いが続く西隣のポーランドはカトリック国となるからである。カトリックと正教の境目が、西欧世界とロシア世界の分かれ目になるのである。ところで中国世界の辺境にあった日本(倭国)が正式に仏教を受け入れたのは、538年(または552年)とされる。450年も違うのである。そして今のロシア一帯はまだ大きな国家がない。
この公国は一時はヨーロッパ世界で最大の領土を持つが、1240年に滅びる。モンゴル遠征である。こんなところまで来ているのである。中央アジアからロシア一帯はキプチャク汗国(チンギス=ハンの長男ジョチの系列)が支配した。ロシア史ではこの時代をよく「タタールのくびき」などと言うが、この時の混乱でキエフにあった正教の主教座が移動して、やがてモスクワに移る。キエフ公国の一地方に過ぎなかったモスクワ公国が力を伸ばしていき、やがてルーシの本拠がモスクワ公国に移ってしまった。モスクワ公国は16世紀にイヴァン雷帝が登場してシベリアに勢力を広げ、自らツァーリを名乗って専制国家として発展していく。
キプチャク汗国の支配は納税さえすれば従来の支配は容認したので、この時代に正教の信仰が定着する。一方、キエフが衰退し西部に成立したハーリチ・ヴォルイニ公国が勢力を伸ばした。この公国が建設した首都が、今西部の中心地となっているリヴィウである。この公国がルーシの支配者と認められたが、1340年に後継がなくて滅亡し、以後3世紀ほど東ヨーロッパ各国の戦国時代が続くのである。僕たちはこの時代のことに詳しくないから、ポーランドやリトアニアなどと言ったら歴史の中で「弱国」だと思いやすい。でも、歴史上強かった時代もあるのである。14世紀には北方からリトアニア公国が勢力を伸ばし、今のベラルーシからウクライナ北西部まで支配する。一方、それ以外のウクライナはポーランド王国が支配する。この時代にリトアニア、ポーランド、モスクワ大公国に分かれたことが、民族、言語の上でベラルーシ、ウクライナ、ロシアに分かれた原因だという。(なお、1569年から1795年までポーランドとリトアニアは複合君主制を取り、ポーランド・リトアニア連合王国となっている。当時ヨーロッパで、オスマン帝国に次ぐ領土を持つ大国だった。)
この時代はポーランド支配のもとで、様々な変化が起こっている。ポーランド王がユダヤ人を保護したので、ウクライナにユダヤ人が多数居住するようになった。またカトリックのポーランド支配の下で、正教とカトリックを合同させる試みもなされた。結局、正教の儀式を残しながらローマ教皇に服属する東方カトリック教会(ユニエイト)という教会が出来た。この教会はソ連時代に弾圧されたが、今も15%程度の信者がいて、ウクライナ西部の独自文化の象徴ともなっている。
一方、東部ではモスクワ大公国が勢力を伸ばし、南部の黒海沿岸はオスマン帝国が支配するようになり、ウクライナは戦乱の巷となった。ウクライナの大地は、今も穀倉地帯で知られる肥沃な土地が多く、そのため「武装開墾集団」が南部一帯に入植し共同体を建設する。その人々が「コサック」で、砦を築き独自の風習を持ち、ソ連時代に反革命としてほぼ根絶されたけど、文化としては今もなお大きな影響を持っている。アメリカの西部入植とか、明治時代の北海道の墾田兵とか、そんな感じもするけど、鎌倉時代に権力を握った「東国武士」が一番近いかもしれない。15世紀以後に勢力を伸ばし、オスマン帝国との最前線で「キリスト教守護」を任じ、武力を誇示する。コサック・ダンスやコサック合唱団が今もなお人気があるように、歴史の中で独特の存在感を持っている。日本の時代劇で「サムライ」が今もなお独自の精神文化を持つ集団とされるようなもんだろう。やがて日本で武士政権が出来たように、ウクライナ史でも「コサック国家」が出来てくるのである。(長くなったのでいったんここまで。)
このキエフ・ルーシ公国がキリスト教を受け入れたのである。それが988年のことで、ヴォロディーミル聖公と呼ばれるようになる大公の時代である。ユダヤ教やイスラム教という選択肢もあったけど、結局コンスタンティノープルの東方正教を受け入れた。使節を送って検討したが、儀式が一番壮麗なのを見て感動したらしい。位置的にローマ教会を受け入れず、正教会を受けいれたということが歴史を決定した。後に長年にわたって争いが続く西隣のポーランドはカトリック国となるからである。カトリックと正教の境目が、西欧世界とロシア世界の分かれ目になるのである。ところで中国世界の辺境にあった日本(倭国)が正式に仏教を受け入れたのは、538年(または552年)とされる。450年も違うのである。そして今のロシア一帯はまだ大きな国家がない。
この公国は一時はヨーロッパ世界で最大の領土を持つが、1240年に滅びる。モンゴル遠征である。こんなところまで来ているのである。中央アジアからロシア一帯はキプチャク汗国(チンギス=ハンの長男ジョチの系列)が支配した。ロシア史ではこの時代をよく「タタールのくびき」などと言うが、この時の混乱でキエフにあった正教の主教座が移動して、やがてモスクワに移る。キエフ公国の一地方に過ぎなかったモスクワ公国が力を伸ばしていき、やがてルーシの本拠がモスクワ公国に移ってしまった。モスクワ公国は16世紀にイヴァン雷帝が登場してシベリアに勢力を広げ、自らツァーリを名乗って専制国家として発展していく。
キプチャク汗国の支配は納税さえすれば従来の支配は容認したので、この時代に正教の信仰が定着する。一方、キエフが衰退し西部に成立したハーリチ・ヴォルイニ公国が勢力を伸ばした。この公国が建設した首都が、今西部の中心地となっているリヴィウである。この公国がルーシの支配者と認められたが、1340年に後継がなくて滅亡し、以後3世紀ほど東ヨーロッパ各国の戦国時代が続くのである。僕たちはこの時代のことに詳しくないから、ポーランドやリトアニアなどと言ったら歴史の中で「弱国」だと思いやすい。でも、歴史上強かった時代もあるのである。14世紀には北方からリトアニア公国が勢力を伸ばし、今のベラルーシからウクライナ北西部まで支配する。一方、それ以外のウクライナはポーランド王国が支配する。この時代にリトアニア、ポーランド、モスクワ大公国に分かれたことが、民族、言語の上でベラルーシ、ウクライナ、ロシアに分かれた原因だという。(なお、1569年から1795年までポーランドとリトアニアは複合君主制を取り、ポーランド・リトアニア連合王国となっている。当時ヨーロッパで、オスマン帝国に次ぐ領土を持つ大国だった。)
この時代はポーランド支配のもとで、様々な変化が起こっている。ポーランド王がユダヤ人を保護したので、ウクライナにユダヤ人が多数居住するようになった。またカトリックのポーランド支配の下で、正教とカトリックを合同させる試みもなされた。結局、正教の儀式を残しながらローマ教皇に服属する東方カトリック教会(ユニエイト)という教会が出来た。この教会はソ連時代に弾圧されたが、今も15%程度の信者がいて、ウクライナ西部の独自文化の象徴ともなっている。
一方、東部ではモスクワ大公国が勢力を伸ばし、南部の黒海沿岸はオスマン帝国が支配するようになり、ウクライナは戦乱の巷となった。ウクライナの大地は、今も穀倉地帯で知られる肥沃な土地が多く、そのため「武装開墾集団」が南部一帯に入植し共同体を建設する。その人々が「コサック」で、砦を築き独自の風習を持ち、ソ連時代に反革命としてほぼ根絶されたけど、文化としては今もなお大きな影響を持っている。アメリカの西部入植とか、明治時代の北海道の墾田兵とか、そんな感じもするけど、鎌倉時代に権力を握った「東国武士」が一番近いかもしれない。15世紀以後に勢力を伸ばし、オスマン帝国との最前線で「キリスト教守護」を任じ、武力を誇示する。コサック・ダンスやコサック合唱団が今もなお人気があるように、歴史の中で独特の存在感を持っている。日本の時代劇で「サムライ」が今もなお独自の精神文化を持つ集団とされるようなもんだろう。やがて日本で武士政権が出来たように、ウクライナ史でも「コサック国家」が出来てくるのである。(長くなったのでいったんここまで。)