尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

ウクライナとは何か②-ウクライナ問題③

2014年04月02日 23時31分59秒 |  〃  (国際問題)
 ウクライナの複雑な歴史を簡単にまとめておきたい。キーワードは「正教」と「コサック」だと僕は思う。ウクライナあるいはロシアというのは、ヨーロッパ世界の辺境にある。ローマ帝国の版図は地中海からガリア(フランス)、ブリタニア(イギリス)の方まで伸びていくが、東方のドナウ川以東にはなかなか勢力を伸ばせなかった。ウクライナのステップ平原には遊牧民が様々に行き来するが、やがてスラヴ系農民が定住して農村社会が成立する。そこに北欧ヴァイキング系の王朝が成立した(この王朝はだんだん現地化する)。それが「キエフ・ルーシ公国」で、9世紀末から13世紀まで続いた。「ルーシ」というのは、ロシアとかベラルーシの語源となるけど、本来はウクライナあたりが「ルーシ」だったのである。

 このキエフ・ルーシ公国がキリスト教を受け入れたのである。それが988年のことで、ヴォロディーミル聖公と呼ばれるようになる大公の時代である。ユダヤ教やイスラム教という選択肢もあったけど、結局コンスタンティノープルの東方正教を受け入れた。使節を送って検討したが、儀式が一番壮麗なのを見て感動したらしい。位置的にローマ教会を受け入れず、正教会を受けいれたということが歴史を決定した。後に長年にわたって争いが続く西隣のポーランドはカトリック国となるからである。カトリックと正教の境目が、西欧世界とロシア世界の分かれ目になるのである。ところで中国世界の辺境にあった日本(倭国)が正式に仏教を受け入れたのは、538年(または552年)とされる。450年も違うのである。そして今のロシア一帯はまだ大きな国家がない。

 この公国は一時はヨーロッパ世界で最大の領土を持つが、1240年に滅びる。モンゴル遠征である。こんなところまで来ているのである。中央アジアからロシア一帯はキプチャク汗国(チンギス=ハンの長男ジョチの系列)が支配した。ロシア史ではこの時代をよく「タタールのくびき」などと言うが、この時の混乱でキエフにあった正教の主教座が移動して、やがてモスクワに移る。キエフ公国の一地方に過ぎなかったモスクワ公国が力を伸ばしていき、やがてルーシの本拠がモスクワ公国に移ってしまった。モスクワ公国は16世紀にイヴァン雷帝が登場してシベリアに勢力を広げ、自らツァーリを名乗って専制国家として発展していく。

 キプチャク汗国の支配は納税さえすれば従来の支配は容認したので、この時代に正教の信仰が定着する。一方、キエフが衰退し西部に成立したハーリチ・ヴォルイニ公国が勢力を伸ばした。この公国が建設した首都が、今西部の中心地となっているリヴィウである。この公国がルーシの支配者と認められたが、1340年に後継がなくて滅亡し、以後3世紀ほど東ヨーロッパ各国の戦国時代が続くのである。僕たちはこの時代のことに詳しくないから、ポーランドやリトアニアなどと言ったら歴史の中で「弱国」だと思いやすい。でも、歴史上強かった時代もあるのである。14世紀には北方からリトアニア公国が勢力を伸ばし、今のベラルーシからウクライナ北西部まで支配する。一方、それ以外のウクライナはポーランド王国が支配する。この時代にリトアニア、ポーランド、モスクワ大公国に分かれたことが、民族、言語の上でベラルーシ、ウクライナ、ロシアに分かれた原因だという。(なお、1569年から1795年までポーランドとリトアニアは複合君主制を取り、ポーランド・リトアニア連合王国となっている。当時ヨーロッパで、オスマン帝国に次ぐ領土を持つ大国だった。)

 この時代はポーランド支配のもとで、様々な変化が起こっている。ポーランド王がユダヤ人を保護したので、ウクライナにユダヤ人が多数居住するようになった。またカトリックのポーランド支配の下で、正教とカトリックを合同させる試みもなされた。結局、正教の儀式を残しながらローマ教皇に服属する東方カトリック教会(ユニエイト)という教会が出来た。この教会はソ連時代に弾圧されたが、今も15%程度の信者がいて、ウクライナ西部の独自文化の象徴ともなっている。

 一方、東部ではモスクワ大公国が勢力を伸ばし、南部の黒海沿岸はオスマン帝国が支配するようになり、ウクライナは戦乱の巷となった。ウクライナの大地は、今も穀倉地帯で知られる肥沃な土地が多く、そのため「武装開墾集団」が南部一帯に入植し共同体を建設する。その人々が「コサック」で、砦を築き独自の風習を持ち、ソ連時代に反革命としてほぼ根絶されたけど、文化としては今もなお大きな影響を持っている。アメリカの西部入植とか、明治時代の北海道の墾田兵とか、そんな感じもするけど、鎌倉時代に権力を握った「東国武士」が一番近いかもしれない。15世紀以後に勢力を伸ばし、オスマン帝国との最前線で「キリスト教守護」を任じ、武力を誇示する。コサック・ダンスやコサック合唱団が今もなお人気があるように、歴史の中で独特の存在感を持っている。日本の時代劇で「サムライ」が今もなお独自の精神文化を持つ集団とされるようなもんだろう。やがて日本で武士政権が出来たように、ウクライナ史でも「コサック国家」が出来てくるのである。(長くなったのでいったんここまで。)
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ウクライナとは何か①-ウクライナ問題②

2014年04月02日 00時18分51秒 |  〃  (国際問題)
 「『プーチン大帝』の危険な賭け」を書いてから間が空いてしまったけど、ウクライナ問題を続ける。
 この間、27日に国連総会でロシアのクリミア併合を認めない決議が承認された。(国連総会決議には拘束力はない。)この決議には賛成100か国に対し、反対は11か国に留まるが、棄権58か国、欠席24か国と、棄権、欠席が異常に多い。カリブ海にセントビンセント・グレナディーンという小さな島国があるが、東京新聞(3.29日付朝刊)に以下のような棄権の理由が書かれている。「2008年にセルビアから独立を宣言したコソボを引き合いに、事態ごとに主張を代える欧米とロシアを暗に批判して棄権に回ったと説明。『当時、コソボを支持した国(欧米)がクリミアの独立は認めないといい、コソボの独立を認めなかった国(ロシア)が、コソボ独立を合法と認めた国際司法裁判所の判断を今回にも適用すべきだと主張する。悲しい逆説だ』と述べた。」これは、僕が前回書いたことと同じで、そういうことが言える小国もあるのである。

 さて3回にわたり、「ウクライナとは何か」を歴史的に考えてみたい。僕がウクライナという地名を知ったのは、多分小学生だか中学生だかの時に「国際連合の原加盟国」の中にウクライナ白ロシアという「国」を発見した時ではないかと思う。国際連合、つまり国連という組織は、第二次世界大戦終了後の1945年10月に正式に発足した。その時の加盟国は51か国だが、その中にウクライナ・ソビエト社会主義共和国と白ロシア・ソビエト社会主義共和国が入っていた。(なお、白ロシアはソ連解体後に独立してからはベラルーシと名乗っている。)もちろん、ソビエト社会主義共和国連邦という本体というか、連邦そのものも加盟しているのである。ソ連は安全保障理事会の常任理事国であるから、拒否権があった。国連総会での票が2票増えようと減ろうと影響はない。第一、連邦国家の中の一部が別個に加盟しているとは、何なんだろうか。アメリカ合衆国と別にカリフォルニア州が国連に加盟するとか、イギリス(連合王国)と別にスコットランドが加盟するなど、普通ありえないではないか。(もっとも世界サッカー連盟には、イギリスは4つの地域別に加盟しているけれど。)

 これは黒川祐次「物語 ウクライナの歴史」(中公新書)に経緯が書かれている。1945年2月のヤルタ会談(まさにクリミア半島で開かれた会談だが)で、スターリンがルーズヴェルト、チャーチルとの間で合意したことだとある。ウクライナとベラルーシは地図で見れば誰でも判るように、独ソ戦でもっとも甚大な被害を受けた国々である。ソ連としても、ウクライナの民族感情に対する配慮が必要だったのである。もっとも「国連の原加盟国」には象徴的な意味合いしかない。イギリスも英連邦加盟国に波及しても困るから賛成に回ったらしいが、アメリカとしても重大でない問題なので譲りやすかったのである。それにしても、ソ連国内の他の共和国、バルト三国や中央アジア諸国、グルジア、アルメニアなどは「配慮」の対象になっていない。それだけウクライナはソ連全体の中でも、絶対に配慮が必要な地域だったということだろう。

 ところで、僕は今まで次のようなことを知っていた。例えば、エイゼンシュテインの「戦艦ポチョムキン」という映画である。ソ連映画を代表する作品であり、モンタージュ理論を完成させた映画史上の傑作が革命ソ連で作られたという、いわば「伝説の映画」である。そこに有名な「オデッサ階段」というシーンがある。このオデッサは紛れもなくウクライナの港湾都市であり、第一次ロシア革命の戦艦ポチョムキンの反乱もウクライナ人水兵によるものだったという。でも、僕はソ連の社会主義革命の映画だと思い込んで、ウクライナの運命を背後に読むことはなかった。

 また「屋根の上のバイオリン弾き」である。アメリカで有名なミュージカルとなり映画化もされたこの作品は、帝政ロシア時代のユダヤ人迫害をのがれアメリカをめざす。この帝政ロシアのユダヤ人迫害は「ポグロム」と呼ばれ悪名高い事件である。これも実はウクライナの話であり、ウクライナはユダヤ人迫害が帝政ロシア内でも最も激しかった地域であるらしい。この物語の原作はショレム・アレイヘムの「牛乳屋テヴィエ」というイディッシュ語(東欧のユダヤ人の言語)の作家の代表作ということで、今は岩波文庫に収録されている。ここでも僕は、帝政ロシア=ソ連=ロシア連邦と思い込んで、今のロシアの物語だと思い込んでいた。(なお、ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺の最大の事件であるバービーヤールの虐殺は、ウクライナの首都キエフで1941年9月29日に起こっている。)

 あるいは、大正時代に日本に来て新宿中村屋にボルシチを教えたという「盲目の詩人エロシェンコ」という人がいる。中村屋サロンの一員だった画家中村彝(つね)の「エロシェンコ氏の像」は重要文化財に指定されている。この人はエスペランティストであり、童話を書き、メーデーに参加して国外追放となったが、もともとは視覚障害者が日本ではマッサージ師として自立していると聞き来日したのである。この人は、今まで社会運動や文学やエスペラントや障害者の歴史などで触れられてきたが、そもそもはウクライナ人だったのである。(モスクワの盲学校に学んだが。)

 このような例を挙げていくと、もっともっと「知られざるウクライナ」を挙げていくことができる。僕たちが「偉大なロシア文化」だとか「革命ソ連の文化」だとか思い込み、ソ連崩壊後はソ連を法的に継承したのはロシア連邦だったので(例えば国連安保理の常任理事国はロシアが継承した)、なんとなく自動的にロシアの文化だとか歴史だとか思い込んでいたものの中に、実は「ウクライナ」がいっぱい潜んでいたのではないか。いわば、「歴史の中のみえない国」、それがウクライナだったのである。中東におけるクルド民族のような存在、それがウクライナという民族だったのではないかと思う。

 最後に、ウクライナ文化に関わる芸術家を挙げておきたい。まず文学者だが、実はウクライナ人だったのが、ゴーゴリ(「鼻」「検察官」「死せる魂」など)、キエフ生まれのロシア人がブルガーコフ(「巨匠とマルガリータ」)、ウクライナのユダヤ人が先のショレム・アレイヘム、バーベリ(「騎兵隊」)、エレンブルグ(「雪どけ」)などソ連時代の巨匠がズラッと並ぶ。音楽家では、ロシア人だがウクライナ生まれのプロコフィエフ、ドイツ系のリヒテルなどの他、ウクライナのユダヤ人出身が、オイストラフ、ホロヴィッツ、ギレリス、アイザック・スターンなどなど。舞踊家のニジンスキーもポーランド系のウクライナ人だという。なお、ウィキペディアを見ると、ウクライナのスポーツ選手の一番上に「大鵬幸喜」とある。科学者を挙げても知らない人ばかりなのでやめるが、今の文学、音楽は知る人が見れば、驚くべき人名ばかりである。ロシアだと思っていた中に、実はウクライナが多いということなのである。
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