2013年のカンヌ映画祭パルムドール(最高賞)受賞作、「アデル、ブルーは熱い色」が公開されている。チュニジア系フランス人、アブデラティフ・ケシシュという日本人には覚えにくい名前の監督の5作目。(この監督の映画は映画祭では紹介されていたが、劇場初公開である。)179分という長い上映時間、同性愛というテーマ、長く美しいセックスシーンの数々など破格のスケールの映画で、忘れがたい傑作だと思う。
ある愛の始まりと終わりを数年間にわたって描いたこの映画は、見る者の心を鷲づかみにするような迫力に満ちている。見る者も主人公と共にドキドキし、心が痛み、愛の高揚と喪失を体験する。アクション映画なんかで、見てる間は画面に同化してるけど、終わったら全部忘れてるような映画がある。でも、この映画の記憶がなくなることはないと思う。
プログラムに出ている様々な批評を少し引用しておく。
「この映画を見ること、それは目くるめく時間を共有することだ」(ル・モンド紙、フランス)
「官能的であると同時に詩的。これこそ至高の愛の物語」(ル・ポワン誌、フランス)
「迫真の演技、それがこの映画を混じりけのない真実へと近づけた」(スクリーン・デイリー誌、イギリス)
「完璧な映画、登場人物たちもストーリーも、すべて完璧。しかも思いやりと人生への共感にあふれている」(インディアワイアー誌、アメリカ)…
2013年のカンヌ映画祭審査員は、スティーヴン・スティルバーグを委員長に、ニコール・キッドマン、アン・リー、クリストフ・ヴァルツ、ダニエル・オートゥイユ、河瀬直美らで構成されていたが、この映画の作品だけでなく、主演した二人の女優にも「パルム・ドール」(黄金の椰子賞=最高賞)を与えるという史上初の決定をしている。実際に二人の女優は素晴らしい。
1993年生まれのアデル・エグザルコプロス(ギリシャ系の名前である)は、同名のアデルの高校生から小学校教師になるまでの数年間を演じる。初めての愛と性のよろこび。そして喪失の痛みを全身で演じきった。失恋シーンなんて何度も何度もスクリーンで見てきたけど、きれいに一筋の涙が流れ落ちるなんて、ウソだったのだ。涙が止まらなければ、鼻水も出るはずではないか。もう顔中グチャグチャになって、涙が止まらない。争う場面の顔がひきつるような動きも、「演技」というものではないだろう。作って演技してるのではなく、設定を全身で生きている中で自然に生まれてくる動きだと思う。その意味では「記録映画」というか、「密着ドキュメント」という印象も受ける。
アデルが町で見て「一目ぼれ」したエマ役のレア・セドゥ(1985年生まれ)は、「ロビン・フッド」などですでに活躍してきた映画女優ということだが、髪をブルーに染めた美大生という設定で、観客の心もつかんでしまう。どういう人だろうと探し求めてゲイ・バーへ行き、偶然に出会う。それはしかし「偶然」だったのだろうか。エマが高校の校門前に会いに行き、アデルは友人を振り捨てて付いて行く。そして、公園の大きな木のそばでスケッチをしながら、お互いが求めあっていることを感知する。この辺の「一目ぼれ」「愛の確認」は映画史上もっとも印象的な愛のシーンかもしれない。そして長い長い女性同士のセックス場面(美的に非常に美しいと思う)になる。
もともとアデルは「クラスでもカワイイ方」と人気があり、女子高生どうしで食堂にいると、一級上の男子トマが見つめている。「彼が見てるよ」と友人がからかう。バスでトマと一緒になり、付き合うようになる。映画に行き、彼の家でセックスもする。だから、同性愛者という自己規定はしていない。ただ、トマと付き合って、その後エマに一目ぼれすると、トマは好きではないと気付き別れを告げるくというプロセスである。一方、エマは家にアデルを連れてって母親と義父に紹介するシーンを見ると、同性愛を親も認めているのではないかと思う。14歳の時から、同性愛を自認しているというセリフがある。画家を目指しているという点も大きく、「世間の目」などに囚われない生き方をしているようである。アデルもエマを招くが、アデルの両親はエマを年上の友人としか思わず、「絵で食べていくのは大変だろう」などと世間的な心配を口にする。
時間の経過ははっきり示されないが、やがて二人は同棲するようになり、エマが画家の友人を招くと「私のミューズ(美神)」とまで言う。アデルはパーティの料理をすべて作って、皆は称賛する。エマはアデルが文才を生かして欲しいと思っているが、アデルは小学校の教員を目指している。幼稚園で働くようになると、だんだん二人の関係が変わってくる。エマがつれなくなると、淋しいアデルは男の同僚の誘いに乗ってしまう。それをエマに目撃され、「二度と会いたくない、今すぐ出ていって」とエマに言われてしまう。あまりにも突然の、思ってもいない別離。泣きながら謝罪するアデルをエマは全く許さない。この場面のアデルの傷心は、非常に「心に痛い」場面で、見ている方も辛くていたたまれないような場面である。
どうしてエマはアデルと別れたのだろうか。以下は僕の解釈だけど、追い出すシーンで激怒したのは、多分「男といた」からではないか。同性愛者である自分と付き合っているアデルが、求められるまま男の同僚に身を任せてしまう。エマは自分を否定されたと思ったのではないか。しかし、それはきっかけであり、子どもが好きで教師を目指すという人生、料理を作って皆に評価されてしまうアデルの生き方が、あくまでも芸術の表現に生きるエマにとってだんだん物足りなくなってきていたのではないか。最初の方で、アデルは知ってる画家を問われて、「えーっと、ピカソ。次に…ピカソ」としか答えられない。エゴン・シーレかクリムトかがパーティで議論になるが、どっちも知らないアデルは話に入れない。そういう彼女がだんだん物足りなくなって行ったのかもしれない。ヘテロセクシャルの場合、愛情が醒めても「育児という一大作業」のパートナーとして関係が続くことがある。だがホモセクシャルの場合、そういう関係にはなれない。(養子を取るとか、片方が何らかの方法で妊娠することもあるが。)結局、エマは妊娠していたリンダと暮らすことになり、一緒に育児をする人生を選ぶ。
その後一回だけ、エマはアデルと会ってくれる。もう一回よりを戻したいと迫るが、エマはもう許しているけど、私たちの関係は終わったと言う。アデルも、見ている方も、「もう終わりなんだ、この愛は」と、ものすごい喪失感だけど、否応なく納得せざるを得ない。すごいシーンだと思うけど、このような「もう元に戻れない瞬間」というのは、肉親やペットの死などが一番だけど、人生に何回か訪れるのを避けられない。そして、辛いけど「仕事は続く」。われわれの実人生でもそうであったように。原題は「アデルの人生 第1章・第2章」である。愛の日々が第1章、別れの日々が第2章なんだと思うけど、これから第3章が続くのである。最後に、エマの個展が開かれ、招待されて出かけていくシーンで終わる。ここも忘れがたい。
フランスのコミックの映画化だそうで、原作「ブルーは熱い色」は翻訳もされている。同性愛の物語という骨格は同じだが、主人公の名前は主演女優に合わせてアデルに変えたそうである。アデルはパスツール高校だとあるけど、パスツール高校というのはスイスに近いブザンソンという町にあるらしい。でもロケで使われる公園や美術館は北部の町にあるようで、幼稚園でも海に出かけている。どこという地名は出てこないので、架空の町ということなのだろうか。アデルはちょっと吉高由里子っぽい感じ。でも教師の場面では、もっと机間巡視した方がいいと思う。アデルの父の得意料理で、アデルもパーティで作るスパゲッティ・ポロネーゼを食べたくなること請け合い。
二人が知り合った時に、サルトルの「実存主義とは何か」の話をする。これはかつて10代で背伸びして読む本の定番だったけど、フランスの高校生は今でも読むのか。文学、哲学、絵画の話が多く、高校生のデモも出てくる。同性愛への偏見も取り上げられている。二人の家庭を通してフランスの状況を察することもできる。そのように様々な見方ができる映画ではあるが、そういうのは背景事情の説明で出てくるだけで、同性愛というのもたまたま人生で一目ぼれした相手というだけで、要するに出会いの喜びと別れの淋しさをうたいあげた作品だと思う。そして自分の人生の痛みのように、アデルの痛みが伝わってくる稀有の映画である。
ある愛の始まりと終わりを数年間にわたって描いたこの映画は、見る者の心を鷲づかみにするような迫力に満ちている。見る者も主人公と共にドキドキし、心が痛み、愛の高揚と喪失を体験する。アクション映画なんかで、見てる間は画面に同化してるけど、終わったら全部忘れてるような映画がある。でも、この映画の記憶がなくなることはないと思う。
プログラムに出ている様々な批評を少し引用しておく。
「この映画を見ること、それは目くるめく時間を共有することだ」(ル・モンド紙、フランス)
「官能的であると同時に詩的。これこそ至高の愛の物語」(ル・ポワン誌、フランス)
「迫真の演技、それがこの映画を混じりけのない真実へと近づけた」(スクリーン・デイリー誌、イギリス)
「完璧な映画、登場人物たちもストーリーも、すべて完璧。しかも思いやりと人生への共感にあふれている」(インディアワイアー誌、アメリカ)…
2013年のカンヌ映画祭審査員は、スティーヴン・スティルバーグを委員長に、ニコール・キッドマン、アン・リー、クリストフ・ヴァルツ、ダニエル・オートゥイユ、河瀬直美らで構成されていたが、この映画の作品だけでなく、主演した二人の女優にも「パルム・ドール」(黄金の椰子賞=最高賞)を与えるという史上初の決定をしている。実際に二人の女優は素晴らしい。
1993年生まれのアデル・エグザルコプロス(ギリシャ系の名前である)は、同名のアデルの高校生から小学校教師になるまでの数年間を演じる。初めての愛と性のよろこび。そして喪失の痛みを全身で演じきった。失恋シーンなんて何度も何度もスクリーンで見てきたけど、きれいに一筋の涙が流れ落ちるなんて、ウソだったのだ。涙が止まらなければ、鼻水も出るはずではないか。もう顔中グチャグチャになって、涙が止まらない。争う場面の顔がひきつるような動きも、「演技」というものではないだろう。作って演技してるのではなく、設定を全身で生きている中で自然に生まれてくる動きだと思う。その意味では「記録映画」というか、「密着ドキュメント」という印象も受ける。
アデルが町で見て「一目ぼれ」したエマ役のレア・セドゥ(1985年生まれ)は、「ロビン・フッド」などですでに活躍してきた映画女優ということだが、髪をブルーに染めた美大生という設定で、観客の心もつかんでしまう。どういう人だろうと探し求めてゲイ・バーへ行き、偶然に出会う。それはしかし「偶然」だったのだろうか。エマが高校の校門前に会いに行き、アデルは友人を振り捨てて付いて行く。そして、公園の大きな木のそばでスケッチをしながら、お互いが求めあっていることを感知する。この辺の「一目ぼれ」「愛の確認」は映画史上もっとも印象的な愛のシーンかもしれない。そして長い長い女性同士のセックス場面(美的に非常に美しいと思う)になる。
もともとアデルは「クラスでもカワイイ方」と人気があり、女子高生どうしで食堂にいると、一級上の男子トマが見つめている。「彼が見てるよ」と友人がからかう。バスでトマと一緒になり、付き合うようになる。映画に行き、彼の家でセックスもする。だから、同性愛者という自己規定はしていない。ただ、トマと付き合って、その後エマに一目ぼれすると、トマは好きではないと気付き別れを告げるくというプロセスである。一方、エマは家にアデルを連れてって母親と義父に紹介するシーンを見ると、同性愛を親も認めているのではないかと思う。14歳の時から、同性愛を自認しているというセリフがある。画家を目指しているという点も大きく、「世間の目」などに囚われない生き方をしているようである。アデルもエマを招くが、アデルの両親はエマを年上の友人としか思わず、「絵で食べていくのは大変だろう」などと世間的な心配を口にする。
時間の経過ははっきり示されないが、やがて二人は同棲するようになり、エマが画家の友人を招くと「私のミューズ(美神)」とまで言う。アデルはパーティの料理をすべて作って、皆は称賛する。エマはアデルが文才を生かして欲しいと思っているが、アデルは小学校の教員を目指している。幼稚園で働くようになると、だんだん二人の関係が変わってくる。エマがつれなくなると、淋しいアデルは男の同僚の誘いに乗ってしまう。それをエマに目撃され、「二度と会いたくない、今すぐ出ていって」とエマに言われてしまう。あまりにも突然の、思ってもいない別離。泣きながら謝罪するアデルをエマは全く許さない。この場面のアデルの傷心は、非常に「心に痛い」場面で、見ている方も辛くていたたまれないような場面である。
どうしてエマはアデルと別れたのだろうか。以下は僕の解釈だけど、追い出すシーンで激怒したのは、多分「男といた」からではないか。同性愛者である自分と付き合っているアデルが、求められるまま男の同僚に身を任せてしまう。エマは自分を否定されたと思ったのではないか。しかし、それはきっかけであり、子どもが好きで教師を目指すという人生、料理を作って皆に評価されてしまうアデルの生き方が、あくまでも芸術の表現に生きるエマにとってだんだん物足りなくなってきていたのではないか。最初の方で、アデルは知ってる画家を問われて、「えーっと、ピカソ。次に…ピカソ」としか答えられない。エゴン・シーレかクリムトかがパーティで議論になるが、どっちも知らないアデルは話に入れない。そういう彼女がだんだん物足りなくなって行ったのかもしれない。ヘテロセクシャルの場合、愛情が醒めても「育児という一大作業」のパートナーとして関係が続くことがある。だがホモセクシャルの場合、そういう関係にはなれない。(養子を取るとか、片方が何らかの方法で妊娠することもあるが。)結局、エマは妊娠していたリンダと暮らすことになり、一緒に育児をする人生を選ぶ。
その後一回だけ、エマはアデルと会ってくれる。もう一回よりを戻したいと迫るが、エマはもう許しているけど、私たちの関係は終わったと言う。アデルも、見ている方も、「もう終わりなんだ、この愛は」と、ものすごい喪失感だけど、否応なく納得せざるを得ない。すごいシーンだと思うけど、このような「もう元に戻れない瞬間」というのは、肉親やペットの死などが一番だけど、人生に何回か訪れるのを避けられない。そして、辛いけど「仕事は続く」。われわれの実人生でもそうであったように。原題は「アデルの人生 第1章・第2章」である。愛の日々が第1章、別れの日々が第2章なんだと思うけど、これから第3章が続くのである。最後に、エマの個展が開かれ、招待されて出かけていくシーンで終わる。ここも忘れがたい。
フランスのコミックの映画化だそうで、原作「ブルーは熱い色」は翻訳もされている。同性愛の物語という骨格は同じだが、主人公の名前は主演女優に合わせてアデルに変えたそうである。アデルはパスツール高校だとあるけど、パスツール高校というのはスイスに近いブザンソンという町にあるらしい。でもロケで使われる公園や美術館は北部の町にあるようで、幼稚園でも海に出かけている。どこという地名は出てこないので、架空の町ということなのだろうか。アデルはちょっと吉高由里子っぽい感じ。でも教師の場面では、もっと机間巡視した方がいいと思う。アデルの父の得意料理で、アデルもパーティで作るスパゲッティ・ポロネーゼを食べたくなること請け合い。
二人が知り合った時に、サルトルの「実存主義とは何か」の話をする。これはかつて10代で背伸びして読む本の定番だったけど、フランスの高校生は今でも読むのか。文学、哲学、絵画の話が多く、高校生のデモも出てくる。同性愛への偏見も取り上げられている。二人の家庭を通してフランスの状況を察することもできる。そのように様々な見方ができる映画ではあるが、そういうのは背景事情の説明で出てくるだけで、同性愛というのもたまたま人生で一目ぼれした相手というだけで、要するに出会いの喜びと別れの淋しさをうたいあげた作品だと思う。そして自分の人生の痛みのように、アデルの痛みが伝わってくる稀有の映画である。