「英語教育問題」問題の続きだけど、「英語とは何か」などと大上段の議論をする前に、自分は社会科の授業で英語をどう扱っていたかにまず触れておきたい。「英語は日本の日常生活に必須のものではない」などと言うと、では英語の授業は不要なのかなどと余計な誤解を起こしかねないので。
では、まずクイズ。
第1問.「第二次世界大戦」を英語で書きなさい。
第2問.「産業革命」を英語で書きなさい。(答えは最後の方で。)
今は英語を論じているので、英語は学校を卒業したら忘れてしまうと書いたけれど、もちろん数学も歴史も…皆忘れてしまうのである。それでいいのである。実生活に必要なら、学校で学んだことはすぐに戻ってくる。学校は日々の生活にすぐ直結しないことを学んでいるから、「学びの尊さ」が生まれるのである。もちろん、学校で学んだ知識がすぐに生きる可能性が高い科目もあるだろう。(特に高校の職業科の授業など。)でも、そういう場合でも、授業でやっていることは、ちょっと実生活と違うことが多い。それは、「授業」には「評価」が伴うからである。「評価のしやすさ」、つまり教えるポイントがはっきりしているとか、テスト問題を作りやすいとか、そういうことも授業では大事なのであって、長い年月をかけて教材が開発され教科書に取り入れられている。だから、学校の授業には授業でしかお目に書かれない特別の教材や教え方なんかがあるのである。
さて、実は学校の授業では英語ほど重要な教科はないと思うくらいである。重要性の定義にもよるが、高尚な議論をするのではなく、現実の中学、高校の話をするならば、高校受験や大学受験、あるいは就職や進路選択の話を抜きに議論しても意味がない。高校から大学に進学しようとする場合、文系の進路を目指す生徒は国語や社会は得意だけど、数学や理科は苦手である。当たり前である。理系の場合はその反対。では英語は?ということで、英語が決め手になるわけである。生徒にとって、入試のあり方を自分で変えられない以上、(推薦入試を受ける場合も含めて)、「英語が人生を左右する」可能性が高い。英語教育をどうする、英語は何のために学ぶのかなどと議論している前に、中学生や高校生は英単語の一つでもより多く覚えた方が絶対いい。英語が出来て損することは何もない。英語が出来なくて損することは人生にいっぱいある。
という英語という教科の特別な意味から考えて、英語はすべての教科で何らかの形で触れていくことが望ましいと思う。近代の学校教育は、欧米の圧倒的な影響力のもとで開始され、すべての教科が何らかの形で英語と関連している。体育が英語と関係あるのかなどというかもしれないが、陸上競技やバレーボールやバスケットボール、あるいはサッカーや野球、テニス、卓球、バドミントン…学校体育で経験する競技のほとんどすべては江戸時代にはなかったもの、つまり明治以後に欧米の影響で日本に取り入れられたものである。(武道に関しては多少違うが、それでも現在のかたちに整備されたのは近代になってからである。)だから、サッカーの授業であれば、「ゴールキーパー」や「オフサイド」の意味を理解させるためには、「英語の原義を教える」ことが大事なのではないかと思うのである。音楽や美術も同じで、教科の成立事情からして、欧米の影響で始まったものばかりである。
「社会」科に関して言えば、そもそも「社会」という言葉が近代になってからできたものである。「政治」や「経済」用語のほとんどは幕末明治の造語である。「経済」は「経世済民」(けいせいさいみん)の略語としてはあったけれど、それを“economy”の翻訳として用いたのは、福澤諭吉などだった。(昔は福澤の翻訳とされたこともあったけど、今は福澤以前から使っていた例があり福澤だけの訳とは言えないとウィキペディアに出ている。)仏教用語などで使っていた場合もあるけど、大体以下のような言葉は幕末以後に欧米の概念を翻訳するために作られたものである。例えば、自由、民主、文明、民族、資本、思想、宗教、法律、文学、哲学、共和国、社会主義、共産主義…。これは社会科の授業で使う言葉を挙げたのであって、理科の用語も同じようにほとんどが造語である。
これらの言葉は、歴史や政治経済で使う「基礎概念」で、それを理解していないと授業が進まない。しかし、授業ではともすれば、「もう知ってる言葉」として「民族」とか「文明」とか「法律」とか口に乗せてしまいやすい。しかし、本当は一度それらを「知らない言葉」として、英語で(ドイツ語やフランス語を援用してもいいけど)表現してみて、それから日本語に移したことの意味を振り返ってみるべきではないか。でも、まあ僕もそこまではなかなかできなかった。「経済」とか「自由」は、今までに議論の蓄積もあるし、割合に生徒に示しやすい言葉だけど、他の言葉は難しい。「本質を理解しやすくする」のが授業で取り上げる目的であり、「かえって事態を複雑にしてクリアーな理解を妨げる」んだったら逆効果である。それぐらいなら、「黙ってただひたすら覚えなさい。絶対、試験に出るから」と言う方が親切なこともある。
もう一つ、英語を授業で取り上げる目的がある。それは「授業の活性化」であり、「ちょっと違った見方で歴史を見る」という方法である。(歴史だけではなく、地理や政治などすべて。)僕は「第二次世界大戦」を英語で何と言うかというのは、大体いつもやっていたと思う。それは「第一次世界大戦」を経た人類が、わずか25年で「第二次世界大戦」を起こしてしまった、それはどうしてか、そしてその過ちは第二次大戦後に正されたのか、というのが、現代人の最も重大な問いだと思うからである。それをよく理解するには、「第一次」「第二次」という言葉の重みを感じさせないといけない。(というか、第二次世界大戦が起きる前は、「第一次」世界大戦というわけはないんだから、それ以前は何と言ってたんだろう、という関連の問いがまず存在する。)
さて、「授業の活性化」という意味では、「第二次世界大戦」を英語で答えなさいという問題は、「野球部の生徒」に当てるのがふさわしい。「世界」が「world」というのは結構できるかもしれないが、案外「第二次」がすぐには出てこないからである。だから、「何で、野球部が出来ないんだ」と追っていく。要するに、一塁、二塁を、ファースト、セカンドというのは誰でも知ってるけど、とっさに「第二次」と言われると困ったりするのである。(まあ進学高校に勤務したことはないから、偏った感想かもしれないけど。)なお、当たり前と言えば当たり前だけど、「大戦」というから、つい“big war”などと答えてしまう生徒がいる。しかし、そんな形容はおかしいわけで、ただのwarでいい。
と言うことで、答を書くと、“the Second World War”だけど、”World War II”と言う言い方もよくする。この場合、Ⅱの読みは「two」だろう。さらに略すと、”WW2”と書くことになる。
産業革命の方は、“ Industrial Revolution”である。こっちは英語の知識を問う感じが強くなるが、「絶対に覚えるべき重要用語」は「英語でも教えておく」という意味になる。
では、まずクイズ。
第1問.「第二次世界大戦」を英語で書きなさい。
第2問.「産業革命」を英語で書きなさい。(答えは最後の方で。)
今は英語を論じているので、英語は学校を卒業したら忘れてしまうと書いたけれど、もちろん数学も歴史も…皆忘れてしまうのである。それでいいのである。実生活に必要なら、学校で学んだことはすぐに戻ってくる。学校は日々の生活にすぐ直結しないことを学んでいるから、「学びの尊さ」が生まれるのである。もちろん、学校で学んだ知識がすぐに生きる可能性が高い科目もあるだろう。(特に高校の職業科の授業など。)でも、そういう場合でも、授業でやっていることは、ちょっと実生活と違うことが多い。それは、「授業」には「評価」が伴うからである。「評価のしやすさ」、つまり教えるポイントがはっきりしているとか、テスト問題を作りやすいとか、そういうことも授業では大事なのであって、長い年月をかけて教材が開発され教科書に取り入れられている。だから、学校の授業には授業でしかお目に書かれない特別の教材や教え方なんかがあるのである。
さて、実は学校の授業では英語ほど重要な教科はないと思うくらいである。重要性の定義にもよるが、高尚な議論をするのではなく、現実の中学、高校の話をするならば、高校受験や大学受験、あるいは就職や進路選択の話を抜きに議論しても意味がない。高校から大学に進学しようとする場合、文系の進路を目指す生徒は国語や社会は得意だけど、数学や理科は苦手である。当たり前である。理系の場合はその反対。では英語は?ということで、英語が決め手になるわけである。生徒にとって、入試のあり方を自分で変えられない以上、(推薦入試を受ける場合も含めて)、「英語が人生を左右する」可能性が高い。英語教育をどうする、英語は何のために学ぶのかなどと議論している前に、中学生や高校生は英単語の一つでもより多く覚えた方が絶対いい。英語が出来て損することは何もない。英語が出来なくて損することは人生にいっぱいある。
という英語という教科の特別な意味から考えて、英語はすべての教科で何らかの形で触れていくことが望ましいと思う。近代の学校教育は、欧米の圧倒的な影響力のもとで開始され、すべての教科が何らかの形で英語と関連している。体育が英語と関係あるのかなどというかもしれないが、陸上競技やバレーボールやバスケットボール、あるいはサッカーや野球、テニス、卓球、バドミントン…学校体育で経験する競技のほとんどすべては江戸時代にはなかったもの、つまり明治以後に欧米の影響で日本に取り入れられたものである。(武道に関しては多少違うが、それでも現在のかたちに整備されたのは近代になってからである。)だから、サッカーの授業であれば、「ゴールキーパー」や「オフサイド」の意味を理解させるためには、「英語の原義を教える」ことが大事なのではないかと思うのである。音楽や美術も同じで、教科の成立事情からして、欧米の影響で始まったものばかりである。
「社会」科に関して言えば、そもそも「社会」という言葉が近代になってからできたものである。「政治」や「経済」用語のほとんどは幕末明治の造語である。「経済」は「経世済民」(けいせいさいみん)の略語としてはあったけれど、それを“economy”の翻訳として用いたのは、福澤諭吉などだった。(昔は福澤の翻訳とされたこともあったけど、今は福澤以前から使っていた例があり福澤だけの訳とは言えないとウィキペディアに出ている。)仏教用語などで使っていた場合もあるけど、大体以下のような言葉は幕末以後に欧米の概念を翻訳するために作られたものである。例えば、自由、民主、文明、民族、資本、思想、宗教、法律、文学、哲学、共和国、社会主義、共産主義…。これは社会科の授業で使う言葉を挙げたのであって、理科の用語も同じようにほとんどが造語である。
これらの言葉は、歴史や政治経済で使う「基礎概念」で、それを理解していないと授業が進まない。しかし、授業ではともすれば、「もう知ってる言葉」として「民族」とか「文明」とか「法律」とか口に乗せてしまいやすい。しかし、本当は一度それらを「知らない言葉」として、英語で(ドイツ語やフランス語を援用してもいいけど)表現してみて、それから日本語に移したことの意味を振り返ってみるべきではないか。でも、まあ僕もそこまではなかなかできなかった。「経済」とか「自由」は、今までに議論の蓄積もあるし、割合に生徒に示しやすい言葉だけど、他の言葉は難しい。「本質を理解しやすくする」のが授業で取り上げる目的であり、「かえって事態を複雑にしてクリアーな理解を妨げる」んだったら逆効果である。それぐらいなら、「黙ってただひたすら覚えなさい。絶対、試験に出るから」と言う方が親切なこともある。
もう一つ、英語を授業で取り上げる目的がある。それは「授業の活性化」であり、「ちょっと違った見方で歴史を見る」という方法である。(歴史だけではなく、地理や政治などすべて。)僕は「第二次世界大戦」を英語で何と言うかというのは、大体いつもやっていたと思う。それは「第一次世界大戦」を経た人類が、わずか25年で「第二次世界大戦」を起こしてしまった、それはどうしてか、そしてその過ちは第二次大戦後に正されたのか、というのが、現代人の最も重大な問いだと思うからである。それをよく理解するには、「第一次」「第二次」という言葉の重みを感じさせないといけない。(というか、第二次世界大戦が起きる前は、「第一次」世界大戦というわけはないんだから、それ以前は何と言ってたんだろう、という関連の問いがまず存在する。)
さて、「授業の活性化」という意味では、「第二次世界大戦」を英語で答えなさいという問題は、「野球部の生徒」に当てるのがふさわしい。「世界」が「world」というのは結構できるかもしれないが、案外「第二次」がすぐには出てこないからである。だから、「何で、野球部が出来ないんだ」と追っていく。要するに、一塁、二塁を、ファースト、セカンドというのは誰でも知ってるけど、とっさに「第二次」と言われると困ったりするのである。(まあ進学高校に勤務したことはないから、偏った感想かもしれないけど。)なお、当たり前と言えば当たり前だけど、「大戦」というから、つい“big war”などと答えてしまう生徒がいる。しかし、そんな形容はおかしいわけで、ただのwarでいい。
と言うことで、答を書くと、“the Second World War”だけど、”World War II”と言う言い方もよくする。この場合、Ⅱの読みは「two」だろう。さらに略すと、”WW2”と書くことになる。
産業革命の方は、“ Industrial Revolution”である。こっちは英語の知識を問う感じが強くなるが、「絶対に覚えるべき重要用語」は「英語でも教えておく」という意味になる。