尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「英語教育問題」という問題

2014年04月16日 21時40分39秒 |  〃 (教育問題一般)
 何回か「英語教育」について考えたいと思う。そう思ってから1年近くたつので、そろそろちゃんと書かないと。きちんと書くと10回ぐらい続くと思うので、断続的に何回かに分けて書くことになる。最初に書いておくけど、僕は「英語教育」そのものには、特に関心があるわけではない。(もっと正確に書けば、「世の中のほとんどの問題にある程度の関心を持っているレベルを超えて、特にそれだけに強い関心があるわけではない」ということ。)だから、僕が関心があるのは「英語教育をめぐる言説」の方であって、「英語教育問題問題」とでも言うべきものである。

 教育に関しては安倍政権で様々な「改革」(僕からすればほとんど「改悪」ばかり)が進められている。社会科の教科書検定基準などはもう「改定」され、今は「教育委員会制度改革」や「道徳の教科化」などが重大な段階を迎えている。そっちの方も書きたい気はあるが、あえて自分の専門外の「英語」について書くのは、二つの意味がある。一つは自民党の「教育再生本部」などの議論を見れば判ることだが、「国や郷土を愛する心」の育成とか「いじめ対策」、「教科書の適正化」などをなしとげた後には、「大学入試制度の抜本的改革」と「英語や理科教育の充実」がめざされているのである。社会科や道徳などは「おとなしく言うことを聞く国民を育てる」ということだろうが、それだけが目標ではなく「グローバル化に適応したリーダー育成」を進めなければいけないというわけである。しかし、安倍政権の教育政策を危惧する人々の中でも、また現場教員などでも、英語や理科に関する「危機感」は乏しいのではないかと思うのである。

 もう一つの理由は、何で英語が標的になるのか、純粋に不思議なのである。それは「英語という科目の特殊性」ということでもある。例えば、2013年5月1日付の朝日新聞オピニオン欄「争論」は「大学入試にTOEFL」という特集を組んでいる。これは直前に自民党教育再生本部が言い出した、「大学入試の受験資格として、米国の英語力試験TOEFLを導入」という、現実には実現不可能としか思えない提言に関して、賛成、反対の意見を掲載している。そこで衆議院議員で自民党教育再生本部実行本部長である遠藤利明氏はまず次のように論を始めている。「中学高校で6年間英語を学んだのに英語が使えない。コミュニケーションできない。それが現状です。」と。

 僕はこういう意見を読むと、いやあ、さすがに自民党のエライ先生は出来が違うなあと感心してしまうのである。この人は多分、今でも微分積分や三角比などをよく理解しているのである。あるいは、きっと元素記号なんかも全部覚えているのである。小学校では算数と言うが、中学高校では数学と名前が変わる。だから「中学高校と6年間学んだ」のは「数学も同じ」である。でも、英語が使えないと「英語教育が間違っている」というんだから、論理必然的に「数学で学んだことは今でもすべて覚えている」という結論が導き出されるはずである。そうでなかったら、「数学教育も間違っている」というはずではないか。

 もちろん僕も英語が使えるというには遠い状況だけど、だからと言って「英語教育が間違っていた」などと思ったことはない。世の中の大部分の人も、「英語教育が間違っていたから自分は英語ができない」などとは言わないだろう。仮にもし言ったとしたら、「お前、サボってたくせによく言うよ」と言われてしまいそうである。だから、先の遠藤氏は「自分がサボっていたとはだれにも言わせない」という自信があるんだろう。それだけでも、庶民のレベルとは全然違うんですねえと思うのである。ま、皮肉だけど。

 世の中の人にとって、勉強というのは大体次のようなものだろう。多くの人にとって、①から順番に「有りそうなこと」ではないかと思う。
①試験前に一生懸命取り組んだけど、試験後は実生活に役に立たない知識だから、定着しない。
②試験前でも、やる気が出なかったり他の教科の勉強に忙しく、結局テストでもできない。
③そもそも勉強の時にも理解していなかったので、テストでも全く太刀打ちできない。
④勉強し理解し、生活にも役立つ知識なので、学んだことを今もよく理解できている。
⑤勉強したしテストもできたけれども、受けた教育の間違いにより定着しない。

 どうだろうか。学校の勉強というのは、全部覚えている人はいないだろう。そんな人がいたら、社会生活には使い物にならないのではないだろうか。社会生活に役立つことなら、学校の勉強と無関係に、自然と覚えて定着するものである。国語で勉強した漢字熟語なんかは、その後も覚えていて実生活でも使う人もあるだろう。でも、そういう言葉というものは、なんか新聞や雑誌、あるいはテレビのクイズ番組で覚えたのかもしれず、確実に学校の授業で教えられたのかどうか、もうよく覚えていないのではないか。

 それに対して、英語というのは、日本の社会生活では普通はほとんど必要ではないのである。英単語の理解が重要な場合もあるし、外国旅行で使うこともある。外国人に英語で道を聞かれたこともあるけど、でもそれは例外的なケースである。最近でこそ、勤務先の会社で英語が日常語になるというところも出てきたようだけど、一般的には英語が話せなくても、日常生活を送るのに特に支障はない。どうして日本では英語を必要とはしないのか。また、今後もそうなのか。それでいいのか、という問題はあるけど、まずは実態として、日本の日常生活では英語はいらない。

 その実態が変わらない限り、英語教育をどんなに変えても、試験が終わり、あるいは学校生活が終わり、日常生活が続いて行けば、自然と学校で学んだ英語は忘れてしまうはずである。それは三角関数や元素記号、歴史の年号などと全く同じである。でも、「家庭科教育をずっと受けていたのに、私の妻は料理が下手だ」などという人はいないのに、「英語教育をずっと受けていたのに、日本人は英語ができない」という人はいっぱいいるのである。何故だろうか。どうして「英語に向けるまなざし」だけが異なるのか?

 そして、問題として、さらに次のことを考える必要があるだろう。ここまで自民党が英語英語と言いだしているということは、今までの教育の前提としての日本人の日常生活の方を変えるつもりなのだろうかということである。外国人労働者の大量受け入れにより、日本人の労働環境として英語理解が必須となる社会、あるいは大学生の就職環境がさらに悪化して、学生の半数以上は日本以外で就職するという社会。そういった社会の到来を見越して、「できる英語教育」が叫ばれているのだろうか。ところで、英語、英語と書いてきたけど、そもそも「英語とは何だろうか」ということを次回以後で考えておきたい。
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