埼玉県の県立高校で、新入生の担任が自分の子の入学式に出席するために、休暇を取って入学式にいなかったという事例があった。該当者は4人いたという。多分、他県でもいたかと思うし、また休暇を取らずに我が子に淋しい思いをさせた教員もいたのだと思う。なぜ問題化したのかと言えば、出席していた県議がフェイスブックに書き込んだかららしい。それに対して、尾木直樹氏が「プロ意識に欠ける」と教師側を批判、大きな話題となってしまったわけである。この問題に関しては、あまり書きたくないと思っていたのだが、自分はちょっと違った観点で見ているので、やはり書いておこうかなと思った。まず「あまり書きたくない」と思う理由を書き、続いてこの問題に関する自分なりの見方を書きたい。その後、入学式における担任の仕事、学級担任の決め方なども書ければと思っている。
書きたくないというのは、「正解がない」「他人のプライバシーに踏み込まないと判断ができない」、「書くといろいろと傷つける人が出る」、そういう問題には触れないでスルーするのも「大人の知恵」ではないかと思うからである。でも書いてしまった人がいて、全国紙各紙に取りあげられてしまった。僕が書いても、まあいいのだろう。僕はその県議が誰だか知らないし、どの高校かも知らない。そのくらいなら調べていけばネットで判るかもしれないが、埼玉の事情を知らないから、知ってもあまり意味がない。さらに、その教師の子どもが進学した学校がどういう学校か、またどのような子どもなのかなどは、知りようがないし、知る気もない。だけど、判断するにはそういう点が一番大事な問題ではないかと思う。
僕が書きたくないと思う理由がもう一つあり、それは「自分には全く起こりえない出来事」だったという事情がある。僕は子どもがいないから、子どもの入学式と勤務先の入学式が重なる事態は起こらない。様々な事情により、世の中には、結婚してるけど子どもがいない、結婚もしていない、あるいは離婚して子どもと疎遠になっているなどという人がたくさんいるだろう。そういう人から見れば、この議論自体が何か遠いというか、議論したくない、もっと言えばうらやましい問題ではないか。僕だって、だから入学式は(入学式そのものがなかった時は別にして)すべて勤務しているが、自分の子を理由に入学式に休暇を取ってみたかったとも思う。
入学式などに参加している保護者はどういう人なんだろうか、皆が皆、専業主婦か自営業者なのだろうか。そんなことはないだろう。両親そろって出席している家庭も今は結構あるし、休暇を取って参加している人が多いだろう。そういう親も「プロ意識に欠ける」のだろうか。それとも、特に教師だけ、それも新入生の担任にだけ「プロ意識」が求められるのだろうか。でも、親は他にいないのだから、全員が「わが子の教育に関してはプロの親」なんではないのか。もし、入学式で保護者席がガラガラだったら、「出席する親がこんなに少なくていいのだろうか。もっと家庭の協力がないと、学校は良くならないのではないか。親なら何を置いても子どもの入学式に参列するべきではないのか。」などと書き込む来賓がきっといるに違いないと僕は思うのだが。
ところで、僕がこの問題を聞いて最初に思ったことは、そんなことを言ったら「教師の子どもは、親が入学式に来てくれなくてもガマンせよ」ということになるが、そこまで言っていいのだろうかということである。親が自分の入学式に来てくれたというだけで非難されてしまった。来てもらってはいけなかったのだろうかと悩んではいまいか。一方、休暇を取らなかった教師の子ども(も多分全国にいることだろう)も複雑な思いを持っているだろう。批判を恐れず休暇を取った親もいると判ってしまった。どうして自分の時は来てくれなかったか、自分はそれほど大事にされていないということかなどと悩んではいまいか。そういう風に、子どもの心を想像すれば、この問題は触れない方が良かったんだろうと思うわけである。
「担任が入学式を欠席してはいけない」と言っても、さすがの県議と言えども、「親の葬式」による忌引きなら問題視しなかったのではないか。(それとも最近は、親が死んでも学校に来いという人もいるのかもしれないが。)「権利ばかり言う」と批判しているようだけど、「年休」を申請して認められているので、「権利ばかり言う」というのは違うのではないか。確かに、年次有給休暇は理由を問わずに認められている。でも、自分の子どもの入学式と判っているのだから、事前に相談しているのである。そして、校長はその年休を承認した。さすがに「子どもとディズニーランドに行くので」といった理由なら、校長も「時季変更権」を行使したのではないだろうか。それでも子どもと遊びに行ったというのなら、確かにそれは「権利の濫用」ではないかと僕も思う。
校長が年休を承認したのはどうしてだろうか。学校ごとの事情もあると思うが、学校の状態がうまく行っているのなら、「わが校なら入学式に担任が欠けても応援で乗り切れる」という判断もあったのかと思う。小中の場合、学校によっては教員数が少なく応援態勢が組めない場合もあると思うが、高校なら学級規模が大きい場合が多く、何とかやりくりできるのではないだろうか。もう一つは、自分の学校でも「保護者は全生徒分来る」を前提にしていただろうということである。体育館に設置する保護者席の椅子の並べ方、当日配布する書類の枚数…そういうものを「保護者は各生徒分は来る」ものとして用意しただろうと思う。こっちも親はみな来ると思っている以上、他校もそう思っているだろうから、行くなとは言えないのではないだろうか。もちろん、そういう事情がある教員を新入生の担任にすべきではないという意見も見受けられた。でも、それは次回以後に検討するように、難しい問題もあったのだろう。そうすると、子どもの入学式というのは、校長としても仕事を優先して欲しいとは言いにくいだろう。
要するに、「教師の代わりはある」けれど、「親の代わりはない」のだから、「まあ、あまり望ましいことではないだろうけど、やむを得ないのではないか」というあたりが僕の考えである。つまり、僕ももちろん、「学級担任はいたほうがいい」と思う。でも、この問題は「権利を優先する」という非難は当たらない事例ではないか。最初に問題化した県議は「権利ばかり言う教員」という言い方をしている。こういうのは、昔から保守系の政治家が教師などを批判するときの「定番的表現」である。だから、多分、これを言い出した県議は保守系で、昔の「教師聖職論」的な流れで言っているのではないかと思われる。それに対して、尾木氏の議論は「プロの職業人」という方向での批判になっている。これは「教師聖職論」というよりも、むしろ「教師労働者論」の流れの中で出てきているとも考えられる。古いタイプの組合闘士の教員だったら、入学式当日から「団結を乱す」「私生活優先」の教師に眉をひそめるのではないか。
しかし、親にも事情がある。親が入学式に出る目的の一つは「担任の顔を見る」ことだから、確かにいないと困るのである。でも、事情は相互に同じだから、なかなか非難はできないだろう。入学式に親が来ないうちは限られている。何か事情がある家庭と思われてしまいかねない。これから以後は、保護者会の日時が重ならなければ出られるが、大体同じころに設定されるので重なることもあるだろう。そっちは担任が必須なので、抜けることはできない。要するに、入学式ぐらいしか子どもの学校に行けないのである。教師の子どもだから成績がいいとか、いじめに関係ないとか、そういうことはない。教師の子どもでも、成績が下位だったり、不登校気味だったり、いろいろと配慮を要するケースは多いだろう。スイミングクラブに通わせているから、髪がちょっと塩素で脱色気味になっているという子どもの場合、親が高校の生活指導の方針を理解していないといらざるトラブルが起こる。場合によっては黒く染める必要があるかもしれない。学校ごとによって違うので、最初に親が確認しておかないと、子どもがいじめられたりする恐れがある。
親が入学式に出て、学校の方針を知る必要が昔に比べて格段に大きいのである。昔のように「学校にお任せ」ではやっていられない時代なのである。そのことは自分も教員だから、よく判っているだろう。だからこそ、自分の学校を欠席しても、わが子の入学式に出ざるを得ない。単に「子どもの入学を祝う」と言うだけの問題ではない。どうしてそうなったかと言えば、「親は教育サービスの消費者である」という教育政策を進めてきたからである。中学校やところによっては小学校まで、「学校選択制」を実施している地域がある。ましてや、高校は義務教育ではないので、留年もあれば退学もある。たくさんある高校の中から、自分で調べて選んだ高校を受験して合格した。でも具体的な生活指導方針や進路指導の状況は、入学してから初めて説明されるだろう。それを親に知ってもらい了承しておいてもらわないと、学校としては非常に困るのである。だから、もう何十年も入学式には親が来るということを前提にして、高校の指導が進められているのではないか。もちろん全員の親はそろわない。でも、よほど病弱や多忙か、何かないと入学式に来ない親はほとんどない。そういう状況になっているからこそ、休暇を取って子どもの入学式に参加するというのもやむを得ないのではないか…と思うのだが。
この問題は、「権利か、仕事か」の対立ではなく、「親どうしの葛藤」の問題だろうと思う。そして、教育の本質は「贈与」だと思うので、担任がいなくて失望した親も多いだろうけど、「でも先生のお子さんからすれば、やっぱり来てほしいだろうなあ」と思って、事を荒立てないでいいかなと思う。そんなあたりがいいのではないか。なお、僕が唯一なりそうな立場としては「学年主任として、どうしようと相談される」というケースがある。その場合、まあ困ったなあとは思いつつも、何とかなるから大丈夫、みんなでフォローするからと言うだろうと思う。そう言いたいと思うけどなあ。
書きたくないというのは、「正解がない」「他人のプライバシーに踏み込まないと判断ができない」、「書くといろいろと傷つける人が出る」、そういう問題には触れないでスルーするのも「大人の知恵」ではないかと思うからである。でも書いてしまった人がいて、全国紙各紙に取りあげられてしまった。僕が書いても、まあいいのだろう。僕はその県議が誰だか知らないし、どの高校かも知らない。そのくらいなら調べていけばネットで判るかもしれないが、埼玉の事情を知らないから、知ってもあまり意味がない。さらに、その教師の子どもが進学した学校がどういう学校か、またどのような子どもなのかなどは、知りようがないし、知る気もない。だけど、判断するにはそういう点が一番大事な問題ではないかと思う。
僕が書きたくないと思う理由がもう一つあり、それは「自分には全く起こりえない出来事」だったという事情がある。僕は子どもがいないから、子どもの入学式と勤務先の入学式が重なる事態は起こらない。様々な事情により、世の中には、結婚してるけど子どもがいない、結婚もしていない、あるいは離婚して子どもと疎遠になっているなどという人がたくさんいるだろう。そういう人から見れば、この議論自体が何か遠いというか、議論したくない、もっと言えばうらやましい問題ではないか。僕だって、だから入学式は(入学式そのものがなかった時は別にして)すべて勤務しているが、自分の子を理由に入学式に休暇を取ってみたかったとも思う。
入学式などに参加している保護者はどういう人なんだろうか、皆が皆、専業主婦か自営業者なのだろうか。そんなことはないだろう。両親そろって出席している家庭も今は結構あるし、休暇を取って参加している人が多いだろう。そういう親も「プロ意識に欠ける」のだろうか。それとも、特に教師だけ、それも新入生の担任にだけ「プロ意識」が求められるのだろうか。でも、親は他にいないのだから、全員が「わが子の教育に関してはプロの親」なんではないのか。もし、入学式で保護者席がガラガラだったら、「出席する親がこんなに少なくていいのだろうか。もっと家庭の協力がないと、学校は良くならないのではないか。親なら何を置いても子どもの入学式に参列するべきではないのか。」などと書き込む来賓がきっといるに違いないと僕は思うのだが。
ところで、僕がこの問題を聞いて最初に思ったことは、そんなことを言ったら「教師の子どもは、親が入学式に来てくれなくてもガマンせよ」ということになるが、そこまで言っていいのだろうかということである。親が自分の入学式に来てくれたというだけで非難されてしまった。来てもらってはいけなかったのだろうかと悩んではいまいか。一方、休暇を取らなかった教師の子ども(も多分全国にいることだろう)も複雑な思いを持っているだろう。批判を恐れず休暇を取った親もいると判ってしまった。どうして自分の時は来てくれなかったか、自分はそれほど大事にされていないということかなどと悩んではいまいか。そういう風に、子どもの心を想像すれば、この問題は触れない方が良かったんだろうと思うわけである。
「担任が入学式を欠席してはいけない」と言っても、さすがの県議と言えども、「親の葬式」による忌引きなら問題視しなかったのではないか。(それとも最近は、親が死んでも学校に来いという人もいるのかもしれないが。)「権利ばかり言う」と批判しているようだけど、「年休」を申請して認められているので、「権利ばかり言う」というのは違うのではないか。確かに、年次有給休暇は理由を問わずに認められている。でも、自分の子どもの入学式と判っているのだから、事前に相談しているのである。そして、校長はその年休を承認した。さすがに「子どもとディズニーランドに行くので」といった理由なら、校長も「時季変更権」を行使したのではないだろうか。それでも子どもと遊びに行ったというのなら、確かにそれは「権利の濫用」ではないかと僕も思う。
校長が年休を承認したのはどうしてだろうか。学校ごとの事情もあると思うが、学校の状態がうまく行っているのなら、「わが校なら入学式に担任が欠けても応援で乗り切れる」という判断もあったのかと思う。小中の場合、学校によっては教員数が少なく応援態勢が組めない場合もあると思うが、高校なら学級規模が大きい場合が多く、何とかやりくりできるのではないだろうか。もう一つは、自分の学校でも「保護者は全生徒分来る」を前提にしていただろうということである。体育館に設置する保護者席の椅子の並べ方、当日配布する書類の枚数…そういうものを「保護者は各生徒分は来る」ものとして用意しただろうと思う。こっちも親はみな来ると思っている以上、他校もそう思っているだろうから、行くなとは言えないのではないだろうか。もちろん、そういう事情がある教員を新入生の担任にすべきではないという意見も見受けられた。でも、それは次回以後に検討するように、難しい問題もあったのだろう。そうすると、子どもの入学式というのは、校長としても仕事を優先して欲しいとは言いにくいだろう。
要するに、「教師の代わりはある」けれど、「親の代わりはない」のだから、「まあ、あまり望ましいことではないだろうけど、やむを得ないのではないか」というあたりが僕の考えである。つまり、僕ももちろん、「学級担任はいたほうがいい」と思う。でも、この問題は「権利を優先する」という非難は当たらない事例ではないか。最初に問題化した県議は「権利ばかり言う教員」という言い方をしている。こういうのは、昔から保守系の政治家が教師などを批判するときの「定番的表現」である。だから、多分、これを言い出した県議は保守系で、昔の「教師聖職論」的な流れで言っているのではないかと思われる。それに対して、尾木氏の議論は「プロの職業人」という方向での批判になっている。これは「教師聖職論」というよりも、むしろ「教師労働者論」の流れの中で出てきているとも考えられる。古いタイプの組合闘士の教員だったら、入学式当日から「団結を乱す」「私生活優先」の教師に眉をひそめるのではないか。
しかし、親にも事情がある。親が入学式に出る目的の一つは「担任の顔を見る」ことだから、確かにいないと困るのである。でも、事情は相互に同じだから、なかなか非難はできないだろう。入学式に親が来ないうちは限られている。何か事情がある家庭と思われてしまいかねない。これから以後は、保護者会の日時が重ならなければ出られるが、大体同じころに設定されるので重なることもあるだろう。そっちは担任が必須なので、抜けることはできない。要するに、入学式ぐらいしか子どもの学校に行けないのである。教師の子どもだから成績がいいとか、いじめに関係ないとか、そういうことはない。教師の子どもでも、成績が下位だったり、不登校気味だったり、いろいろと配慮を要するケースは多いだろう。スイミングクラブに通わせているから、髪がちょっと塩素で脱色気味になっているという子どもの場合、親が高校の生活指導の方針を理解していないといらざるトラブルが起こる。場合によっては黒く染める必要があるかもしれない。学校ごとによって違うので、最初に親が確認しておかないと、子どもがいじめられたりする恐れがある。
親が入学式に出て、学校の方針を知る必要が昔に比べて格段に大きいのである。昔のように「学校にお任せ」ではやっていられない時代なのである。そのことは自分も教員だから、よく判っているだろう。だからこそ、自分の学校を欠席しても、わが子の入学式に出ざるを得ない。単に「子どもの入学を祝う」と言うだけの問題ではない。どうしてそうなったかと言えば、「親は教育サービスの消費者である」という教育政策を進めてきたからである。中学校やところによっては小学校まで、「学校選択制」を実施している地域がある。ましてや、高校は義務教育ではないので、留年もあれば退学もある。たくさんある高校の中から、自分で調べて選んだ高校を受験して合格した。でも具体的な生活指導方針や進路指導の状況は、入学してから初めて説明されるだろう。それを親に知ってもらい了承しておいてもらわないと、学校としては非常に困るのである。だから、もう何十年も入学式には親が来るということを前提にして、高校の指導が進められているのではないか。もちろん全員の親はそろわない。でも、よほど病弱や多忙か、何かないと入学式に来ない親はほとんどない。そういう状況になっているからこそ、休暇を取って子どもの入学式に参加するというのもやむを得ないのではないか…と思うのだが。
この問題は、「権利か、仕事か」の対立ではなく、「親どうしの葛藤」の問題だろうと思う。そして、教育の本質は「贈与」だと思うので、担任がいなくて失望した親も多いだろうけど、「でも先生のお子さんからすれば、やっぱり来てほしいだろうなあ」と思って、事を荒立てないでいいかなと思う。そんなあたりがいいのではないか。なお、僕が唯一なりそうな立場としては「学年主任として、どうしようと相談される」というケースがある。その場合、まあ困ったなあとは思いつつも、何とかなるから大丈夫、みんなでフォローするからと言うだろうと思う。そう言いたいと思うけどなあ。