尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

三越と三井本館-日本橋散歩①

2014年04月07日 23時27分43秒 | 東京関東散歩
 暖かくなってきて、ようやく街を散歩する気持ちが戻ってきたので、まず最近話題が多い日本橋近辺を。今年は第一次世界大戦から100年という年だけど、宝塚歌劇100年というのもあった。東京では三越デパートの「ライオン像」設置100年なんだそうだ。第一次大戦を機に、日本の大衆文化が成熟していったことがよく判る。このライオン像は本店本館1階の入り口に、狛犬のごとく左右に2頭が置いてある。しかし、日時限定で、今は他の入り口などにもある。この間、三越は店舗閉鎖を進めてきて、東京でも新宿、池袋店などがなくなった。全国の支店にも置いてあったライオン像がいっぱい要らなくなって、それを保管してあるんだそうである。黄金のライオン像(レプリカに金箔を塗ったもの)や、チョコレートのライオン像まで作った。入り口の2頭も花でお飾りしている。
   
 去年撮影した時は下の写真のような感じだった。このライオン像は、100年前の支配人、日比翁助という人が欧米を視察したときにイギリスで注文したもので、「ロンドンのトラファルガー広場にあるネルソン記念塔の下の4頭の獅子像」がモデルだという。ライオン像が出てくる物語として、北村薫の直木賞受賞作「鷺と雪」があるが、戦前から東京名物みたいな扱いだったのだろう。最後の写真は、裏の方から見た全景。
   
 さて、「三越百貨店」の本店を「日本橋本店」と呼んでいるが、地下鉄の最寄駅は「三越前」である。1927年(昭和2年)に東京初(というか「東洋初」)の地下鉄が浅草-上野間で開通し、以後少しづつ延伸して1932年に「三越前」という駅が作られた。資金難の地下鉄に対し三越が全額負担して作った駅である。以後、この駅名が定着すると、僕なんかは大きくなるまで「三越前にあるから三越デパートと言うんだ」などと転倒した認識をしていたものである。そもそもは江戸時代に三井高利が開いた「越後屋」、三井の越後屋だから「三越」とは、歴史を勉強してから納得したわけである。江戸時代に描かれた「熙代勝覧」というボストン美術館収蔵の大絵巻の複製が地下鉄通路に展示してある。これを見ると、越後屋の繁盛ぶりが印象的である。「現銀掛け値なし」と旗に書いてあるそうだけど、拡大してもよく判らない。日本橋の絵の写真とともに。(写真をクリックすると拡大されます。) 
  
 三越本店は東京都選定の歴史的建造物の指定第一号になっている。近くにある高島屋本店は重要文化財指定でもっと上だけど、これらのデパートは近代日本の発展を今目で見られるような立派な建造物だと思う。戦後に出来た駅直結のデパートにはない趣がある。屋上も何もない広場みたいな感じだけど、漱石の記念碑とか三圍神社(みめぐりじんじゃ)などがある。近くのビルの上だけ見えるから、ちょっと違った感じの風景がある。中央ホールや階段も面白い。階段はよく見ると大理石の中にアンモナイトなどの化石が見つかるという。
   
 さて、日本橋と言っても広いけど、この三越周辺は三井財閥の本拠地だったところである。三菱は東京駅前の丸の内が拠点だが、「三井本館」はここにあった。戦前の三井合名本社があったところで、団琢磨暗殺事件も起きた。三越の隣の風格あるビルがそれで、今は三井住友信託銀行が入っている。三井本館の真裏が日銀本店だが、どちらも重要文化財指定で、歴史的なムードの漂う東京有数の写真スポットになっている。
   
 さらにその隣に「日本橋タワービル」が出来ている。三井は本館建築を残して、そこに三井記念美術館を作った。三井家の持つ美術品を展示することが多い。建物が面白いので、中に入らなくてもエレベーターで登れる8階まで行ってみる価値がある。大体まずエレベーターに圧倒される。トイレも豪華な大理石作りで、ちょっとビックリ。もちろん館内の展示は写真が撮れないけど、そういったところを写真に撮ってみた。エレベーター、カフェ、トイレ。
   
 この日本橋タワーも面白い。入ると超高級果物屋として有名な「千疋屋総本店」が入っている。2階には千疋屋パーラーもある。高いけど、フルーツポンチやケーキに飲み物付けて1500円ぐらいだから、行って行けないことはない。でも一階のフルーツ店の方は、絶対買えないようなすごいフルーツを並べてる。ジュエリーだと思った方がいいかもしれない。天井を見ると、なかなか見事なデザイン。
  
 さて、最近三井タワーの真向いにコレド室町という大型商業施設が出来た。地下鉄三越前駅から直結、そこにTOHOシネマズ日本橋というシネコンも入って、日本橋唯一の映画館である。(昔、三越名画座というのがあった時代もあるが。)3つもある巨大な施設で、日本橋という場所が改めて注目されているわけである。日本橋そのものや日銀は次回に。
  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2014年3月の訃報

2014年04月07日 01時26分07秒 | 追悼
 2014年3月の訃報のまとめ。フランスの映画監督アラン・レネだけ追悼の記事を書いたけど、他にも映画や演劇関係の訃報が多く聞かれた。まずはそのあたりから。
 蟹江敬三(3.30没、69歳)が亡くなり、大体「あまちゃん」に触れられている。好感をもたれるテレビの脇役になっていたのか。また、60年代には蜷川幸雄の演出した清水邦夫の劇で活躍したという話も大体出ている。それらの劇はさすがに中高生の時代なので見ていない。では何でこの人の名前を知ったのかと言えば、それは「日活ロマンポルノ」なのである。新聞の訃報では書いてないけど、そういう人は多いのではないか。悪役というか野獣のような役ばかりだったと思うけど、一度見たらもう名前を忘れられなくなる演技だった。今探してみると何を見たのかどうもはっきりしないのだけど、蟹江敬三という名前は以後忘れることはなく、だんだん一般的にも知られるようになって行ったわけである。

 さて蟹江敬三が出ていた現代人劇場、櫻社は劇作家清水邦夫の上演を行っていたわけだが、その清水邦夫の夫人で女優の松本典子(3.26日没、78歳)も亡くなった。俳優座養成所を出て劇団民藝に入団とあるから、そういうこともあったのである。その後、清水邦夫と木冬社を結成した。その時期は勤め始めて一番多忙な時期だから、全然見ていない。僕が知ってるのは、「狂熱の季節」とか「地の群れ」などの映画での存在感ある脇役。前者は蔵原惟繕監督の作品で昨年見直して記事を書いた。後者は最近見直したのだが、井上光晴原作、熊井啓監督の重苦しいATG作品で、民藝が協力てて大挙して出演しているが、松本典子も医者の妻役で印象的。あまり見た人ではないけど、ちょっときつい感じの存在感が印象的である。

 さて清水邦夫作品を演出していた蜷川幸雄は、その後大劇場の商業演劇に転じて大評判になった。それらの「近松心中物語」とか「往生メディア」などの舞台美術を担当していたのが、朝倉摂(3.27没、91歳)である。昨年秋に修復公開された朝倉彫塑館の主である彫刻家・朝倉文夫の長女で、谷中の彫塑館の屋敷で育ったということだ。初めは伊東深水門下の日本画家だったと訃報に出てるけど、60年代以後は舞台美術で知られて、文化功労者にも選ばれた。北千住に丸井が出来て、その上の方に「シアター1010」が出来た時に、劇場監督だったのが僕には一番の思い出。特に寺島しのぶが出たオニールの「楡の木陰の欲望」を見に行って、上の方の席だったこともあり、舞台セットの素晴らしさというか、もうそれでひとつの世界を形成してるを、演技は遠くてよく見えなかったけど、美術ばかり感心して戻ってきたことがある。彫塑館も行ってたし、名前は前から知ってたけど、一体この人は何歳なんだろうと不思議に思い、もしかして朝倉文夫の孫だったっけと確認したら、やはり娘に間違いなく、もう80歳を過ぎているのを確認して、なんてすごい人なんだろうとビックリしたものである。

 俳優では宇津井健(3.14没、82歳)が亡くなった。俳優座養成所で仲代達矢と同期だったというが、新東宝に入社して二枚目役をやっていた。新東宝は変な映画が多くて、いろいろやっていて、今見ると面白かったりする。当時大ヒットした「明治天皇と日露大戦争」では広瀬中佐役と出てる。その後大映を経て、テレビ中心になり、いまやテレビ俳優として知ってる人ばかりだろう。「ザ・ガードマン」とか「赤い疑惑」とかであるが、まあ影のある役柄ではないので、僕はあまり見てない。
 最後は新派の俳優だった安井昌二(3.3没、85歳)も亡くなった。最後まで1955年の「ビルマの竪琴」の水島上等兵ばかり言われてしまう。まあ、それだけ印象的だったのも間違いないが。その後は水谷八重子(初代)の相手役で新派に招かれ、ずっと新派で活躍した。そのことは知ってたけど、この人も全然見ていない。夫人が小田切みき(黒澤の「生きる」で志村喬の相手役だったあの人)で、子どもが一時子役で有名だった四方晴美である。

 歌手では安西マリア(3.15没、60歳)が亡くなり「涙の太陽」を久しぶりにテレビで聞いた。「ハイ・ファイ・セット」の、ということはそれ以前は「赤い鳥」のということだが、山本俊彦(3.28没、67歳)の訃報が伝えられた。「フィーリング」など忘れられない。また、劇作家の藤田傳(3.16没、81歳)の訃報もあった。能の人間国宝、金春惣右衛門(こんぱる・そうえもん、3.11没、89歳)という人の訃報もあった。
 外国では中国の映画監督、呉天明(3.4没、75歳)の訃報が小さく載っていた。「古井戸」という映画で第一回東京国際映画祭グランプリを取った。西安撮影所長として、いわゆる第五世代に映画を撮らせた功績が大きいが、「變臉 この櫂に手をそえて」という映画など忘れがたい映画を監督した人でもある。

 紙面上の扱いで一番大きかった訃報は大西巨人(3.12没、97歳)だったけど、あの巨大な「神聖喜劇」もだいぶ前に買ってあるけど読んでないし、どうもこの人も全然読んでないので書くことが判らない。ミステリー作品なんかも書いてるけど、それも読んでない。作家では芥川賞を「モッキングバードのいる町」で取った森禮子(もり。れいこ、3.28没、85歳)の訃報が小さく出ていた。
 ハンセン病療養所で句作を続けた俳人、村越化石(3.8没、91歳)の訃報があった。ハンセン病資料館に行くと、北条民雄、明石海人と並んで大きく展示してあるから、前から名前は知っている。俳人協会賞、蛇笏賞、紫綬褒章を受けた。全盲で俳句を作った「魂の俳人」で、草津温泉の栗生楽泉園にいた。代表句として新聞には「除夜の湯に 肌ふれあへり 生くるべし」が挙げられている。

 イラストレーター、作家の安西水丸(3.17没、71歳)は確か「ガロ」に書いていたマンガを読んだ気もするが、印象としては村上春樹と組んだ「村上朝日堂」なんかのイラストかなあと思う。帽子デザイナーの平田暁夫(3.16没、89歳)の訃報が大きく出ていて、名前を知らないだけでなく、そんな職業もあるのかという感じだったので驚いた。三宅一生や川久保玲なんかのショーで使う帽子もデザインしてたという。今の皇后の帽子もこの人だとか。女優の有馬稲子のブログに追悼文が載っていて、「観賞用男性」という映画で使った帽子はこの人のデザインだと出てた。14歳で銀座の帽子店に奉公に出て、30代後半でフランスに渡って高級婦人帽子の技を磨いたと出てる。そういう第一人者いたわけである。
 彫刻家の多田美波(ただ・みなみ、3.20没、89歳)は、屋外の立体作品をガラスやステンレスなどで作った作品で知られる。照明デザインなんかもやった、一種の空間デザイン作家というべき人で、舐めを知らない人が多いと思うけど、前に白洲正子の現代の名工みたいな本に出ていて、感心した記憶がある。

 参議院議員だった藤巻幸夫(3.15没、54歳)があっという間に突然死んでしまった。医先端のカリスマバイヤーで知られ、福助の社長に転じ、セブン&アイ生活デザイン研究所なんてのにいた。朝日新聞の土曜版にでてた「フジマキに聞け」という連載が結構面白かったけど、まさか「みんなの党」から選挙に出るとは思わなかった。落選したけど、その後衆院選に維新で出る人が辞任して繰り上げ当選、去年の暮れには「結いの党」に移った。兄の藤巻健史に至っては、維新から参院選に出たので、兄弟議員だったわけだが、そんな人だったのかと驚いた。こんなに早く死ぬとはだれも思ってなかっただろうけど。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする