尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

ウクライナとは何か③-ウクライナ問題④

2014年04月03日 23時29分59秒 |  〃  (国際問題)
 ウクライナの歴史を簡単にまとめようと思ったけど、けっこう細かくなって2回目。「ウクライナとは何か②」から引き続き。
 15世紀から16世紀の頃、「コサック」という武装農業共同体(とその成員)ができた。日本でもちょうど戦国時代に当たる戦乱の時代である。もともとはポーランド内の下級地主や町人などが多いらしいが、スラヴ系以外からコサックになるものもいたという。冒険とロマンを求めたのである。彼らはただ暴力をふるうわけではなく(というか実際は私利私欲も多かっただろうが)、タテマエとしては「正教とウクライナとコサックの自治を守る」ということになっていた。イスラムとの戦いに役立つということで、やがてコサックは公認されていき、16世紀後半にはポーランド王国の下で自治権を認められた。(ポーランドはリトアニアと連合王国を結成していたが、事実上はポーランドによる併合みたいなものだったので、ただポーランドを書く。)

 コサックはウクライナだけではなく、もっと東のドン川下流域にも「ドン・コサック」と呼ばれた集団があった。こちらはロシアに所属し、有名なステンカ・ラージンの反乱などを起こしたが、鎮圧されてロシアの武力となった。北カフカスを征服する戦争では、コサックが活躍しトルストイの小説に描かれている。ノーベル賞作家ショーロホフの超大作「静かなるドン」が描いたのは、ロシア革命とコサック社会の変貌である。

 さてウクライナでは、コサックは平等の原則を持っていて、「ラーダ」(会議)と呼ばれる集まりで方針を決めた。コサックの首領を「ヘトマン」といい、ラーダで選ばれた。17世紀半ばに、ヘトマンのフメリニツキーを中心にした反乱がおきる。彼はもともとは穏健な指導者だったというが、ポーランド貴族と土地紛争が起きて、領地が襲われ子どもが殺されたりしたが、ポーランドの制度は全く役に立たなかった。あげくに本人も逮捕され、辛くも脱走に成功した彼は1648年にポーランドに対する反乱を決意したのである。その戦いの結果、経緯は多少あったが、ポーランド王は「ヘトマン国家」(コサック国家)を認めることになる。現在のウクライナ領土のほぼ東半分程度の領地に、コサックの自治が認められた。これは事実上「ウクライナ独立戦争」であり、カトリックのポーランドからの正教の独立とも言える。だからフメリニツキーは「第二のモーゼ」などと呼ばれたという。

 しかし、当時のコサックは自分たちだけで国家を維持できる実力はなかった。そのため、当初は敵のはずのクリミア・タタール汗国と同盟したが、結局はスラヴ系で正教のロシア帝国の保護を受けることになった。1654年に結ばれたペレヤスラフ協定である。ところが、1656年にロシアは突然ポーランドと和平してしまうのである。(北方のスウェーデンに対する共闘の意味があった。)以後、コサックはロシアと戦うが力及ばず、ウクライナ中央を流れるドニエプル川を境に、東はロシア、西はポーランドの保護下に置かれる。1689年に最終的にウクライナは分割され、「コサック」という制度は残るが、だんだん権利を奪われていく。コサックの反乱も起きるが、ピョートル大帝、エカチェリーナ2世などの強力な権力に追いつめられ、ウクライナ東部はロシアに併合され、1781年にはコサックの自治制度も廃止されるのである。

 このようにウクライナは数世紀にわたってポーランドの支配下にあったわけだが、そのポーランドが18世紀になると衰退の一途をたどるのである。そこでロシア、オーストリア(ハプスブルク帝国)、プロイセンによる「ポーランド分割」が行われる。1772年から1795年のことで、当時のヨーロッパではフランス革命という超重要事件が起きていた。ポーランドという国はここでなくなってしまう。その時、ウクライナの大部分はロシア領とされたが、西端部のリヴィウなどの地方はオーストリア領となったのである。ポーランド分割は「ウクライナ分割」でもあったのである。これが重要なのは、前回触れた東方カトリック教会(ユニエイト教会)がある地域が、再びカトリックのオーストリア支配下に置かれたことである。この地域は第二次世界大戦終了後の1945年から1991年までの間を除き、ロシア(ソ連)の支配を受けたことがない。現在のウクライナにおける東西対立というものは、こうした歴史的経緯から生まれてきたのである。

 1783年にはロシア帝国はクリミア汗国を併合して、黒海周辺に勢力を伸ばす。19世紀半ばには、オスマン帝国とのクリミア戦争が起き、ロシアの勢力増大を嫌う仏英がオスマン側に付きロシアは敗れた。この結果に衝撃を受けたロシアは急激に近代化を進めるが、その中心地がウクライナだった。ウクライナ南東部では急激に工業化が進み、ロシア帝国内の最大の工業地帯となる。そのためロシア人労働者が多数流入して、今もロシア人が多くなっている理由である。一方、19世紀末になると新大陸への移住も盛んになる。現在アメリカ合衆国とカナダには250万のウクライナ系住民がいるという。こうした中でウクライナにも民族主義(ナショナリズム)の流れは及び、ロシアとは異なるウクライナ文化も生まれ始めるのである。

 第一次世界大戦後に、ロシアとオーストリアの2大帝国が滅亡し、ポーランド、チェコスロヴァキア、フィンランド、バルト三国などが皆独立したわけだから、ロシアとオーストリアに分割支配されていたウクライナはどうして独立できなかったのだろうか。いや、実は独立国家は成立したのである。二月革命で帝政が崩壊して臨時政府ができると、キエフでも「中央ラーダ(会議)」が成立する。(この「ラーダ」というのは、ロシア語の「ソヴィエト」だが、ウクライナではコサック以来の「ラーダ」に特別な歴史的意味がある。ソ連崩壊後のウクライナ国家も、この「中央ラーダ」の継承とされているそうだ。)十月革命のソヴィエト政権成立を、中央ラーダは認めず、ウクライナ人民共和国の独立を宣言する。ウクライナの農業、工業の重要性から、赤軍はウクライナ独立を認めず、キエフは赤軍に占領される。以後、ウクライナは様々な勢力が入り乱れ複雑な戦争が続くのである。ウクライナ人民共和国軍、ソヴィエト赤軍だけでなく、反革命の白軍、アナーキズムの農民反乱軍、フランスなど外国干渉軍である。今考えると、反ソヴィエトの立場で、白軍とウクライナ軍が共闘してもいい気がするが、ウクライナの独立を絶対に認めない超保守派の白軍と社会主義的なウクライナ軍は相いれなかった。一方、諸外国もウクライナ軍を社会主義的と見なして見殺しにした。オーストリア支配下の西ウクライナは、今度はポーランド支配にすることで列強は協調した。(一部はルーマニア、チェコスロヴァキア領にもなり、三分割された。)結局、ウクライナの独立はならなかった。赤軍が勝利し、ウクライナはソヴィエト連邦内の共和国、実体はモスクワのソ連共産党支配下に置かれたわけである。

 第二次世界大戦以前のソ連時代のウクライナは人類史的な悲劇の地である。カンボジアやルワンダと並ぶような。一時は高揚したウクライナ民族主義に融和的で、ウクライナ民族文化を奨励した時期もあったが、スターリン時代にはウクライナ民族主義の根絶が目指された。もともと穀倉地帯で、かつ工業地帯だから、ソ連としては分離を認めるわけはない。内戦時代には強烈な農産物徴発で、ウクライナでは飢餓が発生している。それ以上に1932~1933年の強制的農業集団化にともなう飢餓と混乱で、数百万から1千万が死亡したと言われる。共産党が敵視する「富農」階層が多かったウクライナでは、農業集団化がウクライナを敵視する「ジェノサイド政策」として意図的に進められたと現在のウクライナ政府は認定している。大粛清もウクライナから始まり、ウクライナのソ連体制(ロシア化)が進められたのである。

 第二次世界大戦以後を簡単に。1939年9月17日にソ連がポーランドに侵攻した。独ソ不可侵条約でドイツと密約したラインまで占領するためである。この結果、ポーランドから獲得した西ウクライナは、ウクライナ・ソヴィエト共和国に併合されたから、ここにウクライナの統一自体は達成されたことになる。ルーマニアから獲得した領土もウクライナ領とされた。しかし、独ソ戦が始まると、ウクライナは主戦場となり、一時はほぼドイツに占領された。ドイツによる「解放」に期待をかけた人々もいたが、ドイツも独立を認めなかった。ソ連軍が反撃を開始し、結局ウクライナを奪還したが、その過程でウクライナ人の5人に1人、数百万から1千万が亡くなったとされる。この恐るべき戦災にソ連も配慮せざるを得ず、ウクライナの民族文化は少しずつ認められるようになった。なお、戦後になっても領土は変更されず、ウクライナとベラルーシがポーランドから領土を獲得し、その分ポーランドはドイツから領土を獲得した。ポーランドが西へ移動させられたわけである。

 スターリン死亡の直後の1954年、フルシチョフにより、クリミア半島のウクライナ移管が実施された。最初の方を見て欲しいのだが、1654年に結ばれたペレヤスラフ協定というのものがある。ウクライナがロシアに保護を求めた協定である。その300年記念という名目だった。しかし、ソ連時代にウクライナかロシアかということは意味を持たず、これは象徴的な意味しかない。しかし、象徴的な措置を取って、コサック国家時代の(ウクライナからすれば苦い思い出でもある協定を)「ロシアとウクライナの友好の証」として記念するということの中に、ウクライナとロシアの微妙な関係を読み取ることができるのである。一応、クリミア移管まで長くなったけど、ウクライナの苦難の歴史を振り返ってみた。ほとんど知らないことばかりだったけど、強国にはさまれた厳しい歴史に驚くほかないというのが、書いてみての感想である。
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