尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

ゴダールの「気狂いピエロ」について

2019年12月22日 22時54分42秒 |  〃  (旧作外国映画)
 ジャン=リュック・ゴダール監督の「勝手にしやがれ」(À bout de souffle)と「気狂いピエロ」(Pierrot Le Fou)をキネカ大森で見た。それぞれ何回も見ているが、何回見てもいいものはいい。寺尾次郎新訳字幕のデジタルリマスター版もすでに見ているが、毎回発見がある。今回はアンナ・カリーナの訃報を聞いたばかりなので、「気狂いピエロ」を見たいなあと思った。プログラムの作家山口路子の文章にこんな一節がある。「それにしてもこの映画の、アンナ・カリーナの天衣無縫の魔性といったら、こういうのを天下無敵と言うのだろう。」(ゴチック=引用者)まさにその通り、言い得て妙。

 「気狂いピエロ」は非常に大好きで大きな影響を受けた。中学3年で見て、早速当時流行っていた「白い本」(何にも書いてない、つまり自分で書くための本)に「気狂いピエロ」と名付けたぐらい。そこに詩(らしきもの)やエッセイ(らしきもの)を書き付けていたわけである。なお題名は「きちがいぴえろ」である。そうは読めない、「きくるいぴえろ」だなどと言い張る人がいるが、それは違うだろう。「狂った」でも「狂気の」でもいいはずで、「狂った果実」や「狂った野獣」などは何の問題もなく、今でも違和感はない。でも語感的に「気狂いピエロ」が一番印象に残るのは何故だろう。

 それは映画リズムの「疾走感」に一番合っているからだと思う。もう少しするとハリウッド製のカーアクションというジャンルが登場する。そしてその後は宮崎駿のアニメで空を飛べるようになった。でも60年代半ばは、まだ「じっくり物語る」ことを良しとする風潮が強かった。しかし「気狂いピエロ」はストーリー展開の整合性など気にもしないで、ひたすら破滅へ向け走り去ってゆく。だからセリフものようだし、時にはミュージカルになったりする。そんな映画見たことなかった。

 この映画は表面的には「フィルム・ノワールのパロディ」である。長編デビュー作の「勝手にしやがれ」も同様。フランスの「ヌーヴェル・ヴァーグ」はシャブロルやトリュフォーも犯罪映画が多い。もともとアメリカのB級犯罪映画を「フィルム・ノワール」と名付けたのが彼らだった。だがゴダールの場合、フィルム・ノワール的ではあっても、大体はパロディである。犯罪映画という枠組みを使って、「詩と政治」の考察を行うのがゴダールのもくろみだからだ。そのためストーリーをマジメに受け取ると、理解出来ないことになる。荒唐無稽なシーンの連続だし、話がおかしい場面、都合の良すぎる場面が多い。

 パリでいい暮らしをしながら、心はくすぶっていたフェルディナンジャン=ポール・ベルモンド)。気に沿わないパーティに行くと、そこにアメリカ人がいる。それが監督のサミュエル・フラーで、「映画とは戦場のようなものだ」という歴史的名言を語る。つまらないパーティを早抜けして家に戻ると、臨時のベビーシッターは昔の恋人のマリアンヌアンナ・カリーナ)だった。時間が遅いので車で送っていくと、焼け木杭に火がつく。朝起きると、そこには謎の死体が… もっと大騒ぎするはずが、マリアンヌは全然動じない。二人はマリアンヌの兄がいるという南仏を目指して逃避行を始める。

 この冒頭シーンは短くて、すぐに逃避行が始まり以後は「ロード・ムーヴィー」である。そこも好きな理由で、自分自身も旅行好きだが、そのころいっぱい見たアメリカの「ニューシネマ」も大体はロード・ムーヴィーだった。農村地帯から中央山地、リヴィエラ海岸と風景も美しく飽きない。二人の逃避行は笑っちゃうほどチンケな犯罪の連続で、その中でマリアンヌ=アンナ・カリーナの絶好調ぶりが印象づけられる。しかし、そこにも謎の組織の手が伸びてくる。それはOASの残党一味だと思われる。OASはアルジェリア独立に反対し武装テロを行った秘密組織である。ドゴール大統領暗殺未遂事件(小説「ジャッカルの日」のモデル)もOASが絡んでいると言われる。

 65年当時は弱体化していたと思うが、現実のOASというわけではなく、要するに「謎の極右組織」のシンボルなんだと思う。壁に書いてあるのはおかしいけれど、ゴダールの政治的メッセージである。マリアンヌが兄といってるのも、どうも兄ではないかもしれず、イエメン内戦に武器を密輸する組織らしい。しかし、その金をマリアンヌが持ち逃げしている。マリアンヌはフェルディナンを道中何度も「ピエロ」と呼び、いちいちフェルディナンが訂正する。ピエロと言われるのは過去の理由があるようだが、要するに「マリアンヌの心は他にある」ということに聞こえる。それはまた破綻したアンナ・カリーナへのゴダールの眼差しにも読み取れる。そこが切ない。欺されても愛してしまったのだ。

 ラスト、再び出会って、また欺されたフェルディナン。島まで追っていって、銃でマリアンヌも撃ってしまう。その後、顔を青く塗りたくり、ダイナマイトを顔に巻き付けて、後悔しながら死んでゆく。カメラは静かに右にパンしてゆく。これは溝口健二「山椒大夫」のラストへのオマージュだというのは有名。そしてランボーの有名な詩、「また見つかった!何が? 永遠が 太陽と共に去った 海が」(寺尾訳)が出る。何が起こり、何故死ぬのか、説明不能だが、画面は一気に進行して疑問を感じさせない。ほとんど完成された神話的イメージの連続だ。

 フィルム・ノワールであり、ロード・ムーヴィーであり、永遠の愛を求めて挫折した男の映画であり、「運命の女」(ファム・ファタール)の考察である。詩であり、政治的メッセージでもあるが、もう一つ「引用の織物」でもあり、それが幾つ判るかで面白さも変わってくるだろう。このように現代芸術の様々な特質をすべてそろえて見せてくれる映画でもあった。だからアルジェリア戦争やヴェトナム戦争が昔のことになって現実的意味を失っても、今でも面白い。むしろつまらないもうけ仕事に飽き飽きして、自ら破滅に飛び込むなんていうプロットはますます人を引きつける。原色にあふれた画面構成も素晴らしく、多義的な意味を読み取れる傑作だ。
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