映画を見るも見ないも自由だし、何を見るかも好きにすればいい。年末年始なんだから楽しく見られる映画を見たい人が多いだろう。でも「世界のいま」を考えるために、イギリスのケン・ローチ監督の新作「家族を想うとき」を見て、是非多くの人にもこの映画を見て欲しいと思った。この映画を見ても何だかユウウツになってしまう。結論は出ないし、どうして世界がこうなってしまったか考え込んでしまう。そんな映画だけど、東京では上映館が広がっている。ミニシアター系だけど、けっこう入っている。
ケン・ローチ監督は前作「わたしは、ダニエル・ブレイク」でカンヌ映画祭パルムドール、キネマ旬報外国映画ベストワンに選ばれた。「新自由主義」的な現代社会で人間の尊厳が奪われている様を圧倒的な迫力で描いた感動作だった。「家族を想うとき」は、映画的な完成度では前作に及ばないかと思う。(実際、2019年のカンヌ映画祭では無冠に終わった。)しかし、「家族」を見つめる視点、「独立自営業者」という労働業態など、非常に身近なテーマを扱っていて、他人事に思えない。
ニューカッスルに住むリッチーとアビーの夫妻には、セブ(男)とライザ(女)の二人の子どもがいる。様々な建築現場の仕事をしてきたリッチーだが、現場仕事は大変で子どもを養うために、今度は宅配ドライバーになることにした。会社に雇われた労働者ではなく、会社と契約したフランチャイズの独立自営業者になるという。しかし会社による厳しいノルマ管理があり、配達時間厳守も求められる。自分で車を買うか、会社の車をレンタルするか迫られ、高いレンタル代を避けるため大きな車を買った。
妻のアビーはホームヘルパーをしていたが、夫の車を買うために自分の車を売る。その後はバスを乗り継いで、幾つもの老人家庭を掛け持ちする日々が始まる。リッチーの仕事はやってみれば時間とノルマに追われる重労働で、最初は頑張っていたが次第に無理が重なるようになった。セブが学校をサボりがちで、問題を起こす。突然学校から呼び出されても、リッチーは仕事を抜けられない。警察沙汰になったときは、さすがに仕事を放って駆けつけるが、制裁金を課せられる。
(父の仕事に付き添ったライザと)
宅配と介護でイングランドの幾つもの家庭の状況が見えてくる。どこも孤立していらだっている。夫も妻も疲れてしまい、子どもも荒れてくる。そんな家の救いだった一番下のライザだったけど…。しかし、これはただ外国の問題だとは思えない。日本でもコンビニ店主は自由がないのに「独立自営」だとされてしまう。「ウーバーイーツ」ではまさに同じような問題が生じている。そんな中で家庭がバラバラになってゆくのを、彼らは止められるのか。その苦闘に共感しつつ、涙を禁じ得ない。
現代社会はいつからこんなシステムになってしまったのか。原題の「Sorry We Missed You」は、宅配業者の「不在通知」のことである。日本でも留守中に宅配が来た場合、通知の紙が入っている。いつ再配達すればいいかを知らせて欲しいと書いてある。昔は日本でも隣の家に預けるというのが普通だったが、今はそれはほとんどなくなって、再配達だろう。「すみませんが、あなたがいなかったので」ぐらいのニュアンスで、その下に「隣家にあずけてあります」とか「改めて配達します」とかに○を付けて投函している。原題はその通知の上に書いてある文言なんだけど、それだけでなく「我々の社会」が「マジメに働いているあなたがた」を見失って、申し訳ないという含意もあるんだろう。
(ケン・ローチ監督)
ケン・ローチ(1936~)は、60年代末の傑作「ケス」などから、現在まで一貫して社会の中の弱き者に寄り添い、権力の不正を追及する映画を作ってきた。闘争の映画ばかりではないが、鋭く歴史を見つめた映画に傑作が多い。カンヌ映画祭でパルムドールを取った「麦の穂をゆらす風」と「わたしは、ダニエル・ブレイク」がやはり最高傑作だろう。そこまでの傑作ではなくても、現代社会について考えさせ、イギリス労働者の生活が判るから、ずっと見続けてきた。現代世界でも最も偉大な映画監督の一人だ。
そんなケン・ローチによりによって、フジサンケイグループの「高松宮殿下記念世界文化賞」なんていう賞が与えられたことがある(2003年)。ケン・ローチは賞の背景を知った上で受賞し、イギリスの鉄道民営化を批判し、賞金を日本の国労争議団にカンパしたものだ。サッチャー元英国首相が死去した際には、「彼女の葬儀は民営化しよう。競争入札にして、一番安い応札者に決めよう。彼女はそれをこそ望んだろう。」と述べた。日本で新自由主義的改革を進めた中曽根が死んだ時に、これほど痛烈な言葉を発した人がいただろうか。ケン・ローチはまさに「筋金入り」である。
ケン・ローチ監督は前作「わたしは、ダニエル・ブレイク」でカンヌ映画祭パルムドール、キネマ旬報外国映画ベストワンに選ばれた。「新自由主義」的な現代社会で人間の尊厳が奪われている様を圧倒的な迫力で描いた感動作だった。「家族を想うとき」は、映画的な完成度では前作に及ばないかと思う。(実際、2019年のカンヌ映画祭では無冠に終わった。)しかし、「家族」を見つめる視点、「独立自営業者」という労働業態など、非常に身近なテーマを扱っていて、他人事に思えない。
ニューカッスルに住むリッチーとアビーの夫妻には、セブ(男)とライザ(女)の二人の子どもがいる。様々な建築現場の仕事をしてきたリッチーだが、現場仕事は大変で子どもを養うために、今度は宅配ドライバーになることにした。会社に雇われた労働者ではなく、会社と契約したフランチャイズの独立自営業者になるという。しかし会社による厳しいノルマ管理があり、配達時間厳守も求められる。自分で車を買うか、会社の車をレンタルするか迫られ、高いレンタル代を避けるため大きな車を買った。
妻のアビーはホームヘルパーをしていたが、夫の車を買うために自分の車を売る。その後はバスを乗り継いで、幾つもの老人家庭を掛け持ちする日々が始まる。リッチーの仕事はやってみれば時間とノルマに追われる重労働で、最初は頑張っていたが次第に無理が重なるようになった。セブが学校をサボりがちで、問題を起こす。突然学校から呼び出されても、リッチーは仕事を抜けられない。警察沙汰になったときは、さすがに仕事を放って駆けつけるが、制裁金を課せられる。
(父の仕事に付き添ったライザと)
宅配と介護でイングランドの幾つもの家庭の状況が見えてくる。どこも孤立していらだっている。夫も妻も疲れてしまい、子どもも荒れてくる。そんな家の救いだった一番下のライザだったけど…。しかし、これはただ外国の問題だとは思えない。日本でもコンビニ店主は自由がないのに「独立自営」だとされてしまう。「ウーバーイーツ」ではまさに同じような問題が生じている。そんな中で家庭がバラバラになってゆくのを、彼らは止められるのか。その苦闘に共感しつつ、涙を禁じ得ない。
現代社会はいつからこんなシステムになってしまったのか。原題の「Sorry We Missed You」は、宅配業者の「不在通知」のことである。日本でも留守中に宅配が来た場合、通知の紙が入っている。いつ再配達すればいいかを知らせて欲しいと書いてある。昔は日本でも隣の家に預けるというのが普通だったが、今はそれはほとんどなくなって、再配達だろう。「すみませんが、あなたがいなかったので」ぐらいのニュアンスで、その下に「隣家にあずけてあります」とか「改めて配達します」とかに○を付けて投函している。原題はその通知の上に書いてある文言なんだけど、それだけでなく「我々の社会」が「マジメに働いているあなたがた」を見失って、申し訳ないという含意もあるんだろう。
(ケン・ローチ監督)
ケン・ローチ(1936~)は、60年代末の傑作「ケス」などから、現在まで一貫して社会の中の弱き者に寄り添い、権力の不正を追及する映画を作ってきた。闘争の映画ばかりではないが、鋭く歴史を見つめた映画に傑作が多い。カンヌ映画祭でパルムドールを取った「麦の穂をゆらす風」と「わたしは、ダニエル・ブレイク」がやはり最高傑作だろう。そこまでの傑作ではなくても、現代社会について考えさせ、イギリス労働者の生活が判るから、ずっと見続けてきた。現代世界でも最も偉大な映画監督の一人だ。
そんなケン・ローチによりによって、フジサンケイグループの「高松宮殿下記念世界文化賞」なんていう賞が与えられたことがある(2003年)。ケン・ローチは賞の背景を知った上で受賞し、イギリスの鉄道民営化を批判し、賞金を日本の国労争議団にカンパしたものだ。サッチャー元英国首相が死去した際には、「彼女の葬儀は民営化しよう。競争入札にして、一番安い応札者に決めよう。彼女はそれをこそ望んだろう。」と述べた。日本で新自由主義的改革を進めた中曽根が死んだ時に、これほど痛烈な言葉を発した人がいただろうか。ケン・ローチはまさに「筋金入り」である。