3回も書くつもりじゃなかったんだけど、「教員の超過勤務をどう考えるか」問題の本質を書ききれない。最後のいくつかのポイントを提示して一端終わりにしたい。

上の写真は文科省前で「英語民間テスト導入」に反対運動をした高校生や大学生などの若者たちである。なんで再びこの問題の写真を載せるのか。高校生ながら自分たちの声を届けようと動いた人もいた。そのことを、大人である教員が考えないといけないと思うからだ。自分たちの労働にあり方について、「どうせ何を言っても変わらない」「何も通じない」と何十年も続く「猫の目教育行政」に振り回されて、ほとんどの教員は何も言わなくなってしまった。いつまでもそれでいいのだろうか。
確かに「声を挙げれば目を付けられる」し、「自分の身を守るだけで精一杯」と思う人も多いだろう。だが文科省だって「アクティブラーニング」を唱える時代だ。まあ安倍首相や管官房長官の「桜を見る会」問題の国会答弁を聞けば、「ちゃんと議論はしない」「追求をはぐらかす」ことを目的とした言語の使い方をしている。ディベートだのアクティブラーニングは日本社会では不要だという強いメッセージを発している。そういう国で生きているわけである。だからといって、教師たちが自分たちの労働条件の大きな変更にも、ただ決まったことに従うということでいいわけがない。
マスコミでは、最近は「いじめ調査」等の調査・報告が多くなって現場は忙殺されているというような報道がよくなされる。もちろんそういう報告などは実際に多くなっていると思う。教育委員会からメールで送りつけてきて、添付ファイルで報告する訳だから、昔より簡単に送ってくるんだろう。それに情報公開請求による新しい報告事項も多い。だけど、いくらそういう調査類が多くなったとしても、そんなに残業が多くなるはずがない。部活動や宿泊行事、生徒指導なども多いと思うが、これは昔もあったことだ。21世紀になって、特に超過勤務が激しくなる理由はどこにあるのか。
それは「教職の尊厳」を失わせるような政策がずっと行われていることにこそ原因がある。「忙しい」のも間違いないが、それ以上に「無意味なことに振り回される」「仕事がつまらない」のだと思う。どんなに忙しくても(もちろん限度はあるが)、それが真に生徒の向上に役立つような仕事なんだったら、忙しくて疲れるだけでなく、社会的に意義ある仕事をしているという「使命感」「充実感」も得られるだろう。そして昔はそういう仕事は多かったし、今も「文化祭」や「修学旅行」のために努力する仕事は「疲れるだけでなく楽しい」ものでもある。
まあ「楽しい」と言えるのは、うまく行ってるクラスや学年の場合かもしれないが。自分はすべての担当学年で旅行行事を担当したけど、それは「楽しい仕事」だった。だが(自分が所属した東京都で行われているような)「自己申告書」に基づく教員の勤務評価システムのための膨大な書類作りなんかは、ニンジンを鼻先にぶら下げて教員どうしを競争させ昇給に使うわけで、「これが教育か」と思う書類仕事だ。(都教委側では、そういう人事制度が民間では当たり前だとか言うわけである。)他にも山のように、20世紀にはなかった「書類のための書類作り」(例えばアリバイ的に情報公開で問題化しないように発言をうまくまとめた「○○委員会議事録」作成など)が多いのだ。
生徒に関わることでも小中では「全国学力テスト」があって、その成績を学校や教員の評価に使いたいと公言する知事や市長がいる。どうなってるんだ。大変な学校で大変な苦労をしている教員こそ、評価を上げるべきだろう。そのため「過去問」特訓をやったりするらしい。それでは本末転倒だ。そういう「競争的教育政策」のために、教員の仕事も変質し、事務仕事も増えてしまう。60年代に行われた学力テストは、教員組合の大きな反対運動で数年で中止になった。今は組合がほとんど力を失ってしまって、中止に向けた運動も行われない。それどころか、「競争意識」を内面化させてしまったような若手教員もいるんじゃないか。
(全国学テを前にした大阪府枚方市の学校)
このような「教育」の意味の変容の中で、教師にとっては「自らの尊厳のはく奪」が進行してきた。「教員免許更新制」はその代表的な例だ。「無意味な仕事」「つまらない仕事」をやらされていると、疲労感は倍増するだろう。社会のあり方も大きく変わり、教育も大きな変化を避けられない。マジメな議論は歓迎だが、今回の「英語民間テスト問題」のように、思いつき的な発想と結果的に中止といった事態は文科省の教育政策に振り回される教員に頑張る意欲を失わせる。
部活動などは別に考えなければならない問題だが、今回の「教員の変形労働時間制」では「労働時間」という量しか問われない。しかし教育のような仕事においては、量以上に「労働の質」を問わないといけない。労働内容の無意味化を何とかしないといけない。競争的教育政策の転換に向け、どのような反転攻勢ができるだろうか。今考えるとしたら、それこそが大きなテーマだと思う。もちろん、教員に限らずどんな仕事でも「労働の尊厳」が保証されなければいけない。しかし生徒が卒業後に就職する会社などを聞いても、尊厳が守られていない会社が多い。教員が行うべきことは、自分の仕事の量と質を問うことから始まって、生徒や保護者の労働をも問い続けていくことだと思う。

上の写真は文科省前で「英語民間テスト導入」に反対運動をした高校生や大学生などの若者たちである。なんで再びこの問題の写真を載せるのか。高校生ながら自分たちの声を届けようと動いた人もいた。そのことを、大人である教員が考えないといけないと思うからだ。自分たちの労働にあり方について、「どうせ何を言っても変わらない」「何も通じない」と何十年も続く「猫の目教育行政」に振り回されて、ほとんどの教員は何も言わなくなってしまった。いつまでもそれでいいのだろうか。
確かに「声を挙げれば目を付けられる」し、「自分の身を守るだけで精一杯」と思う人も多いだろう。だが文科省だって「アクティブラーニング」を唱える時代だ。まあ安倍首相や管官房長官の「桜を見る会」問題の国会答弁を聞けば、「ちゃんと議論はしない」「追求をはぐらかす」ことを目的とした言語の使い方をしている。ディベートだのアクティブラーニングは日本社会では不要だという強いメッセージを発している。そういう国で生きているわけである。だからといって、教師たちが自分たちの労働条件の大きな変更にも、ただ決まったことに従うということでいいわけがない。
マスコミでは、最近は「いじめ調査」等の調査・報告が多くなって現場は忙殺されているというような報道がよくなされる。もちろんそういう報告などは実際に多くなっていると思う。教育委員会からメールで送りつけてきて、添付ファイルで報告する訳だから、昔より簡単に送ってくるんだろう。それに情報公開請求による新しい報告事項も多い。だけど、いくらそういう調査類が多くなったとしても、そんなに残業が多くなるはずがない。部活動や宿泊行事、生徒指導なども多いと思うが、これは昔もあったことだ。21世紀になって、特に超過勤務が激しくなる理由はどこにあるのか。
それは「教職の尊厳」を失わせるような政策がずっと行われていることにこそ原因がある。「忙しい」のも間違いないが、それ以上に「無意味なことに振り回される」「仕事がつまらない」のだと思う。どんなに忙しくても(もちろん限度はあるが)、それが真に生徒の向上に役立つような仕事なんだったら、忙しくて疲れるだけでなく、社会的に意義ある仕事をしているという「使命感」「充実感」も得られるだろう。そして昔はそういう仕事は多かったし、今も「文化祭」や「修学旅行」のために努力する仕事は「疲れるだけでなく楽しい」ものでもある。
まあ「楽しい」と言えるのは、うまく行ってるクラスや学年の場合かもしれないが。自分はすべての担当学年で旅行行事を担当したけど、それは「楽しい仕事」だった。だが(自分が所属した東京都で行われているような)「自己申告書」に基づく教員の勤務評価システムのための膨大な書類作りなんかは、ニンジンを鼻先にぶら下げて教員どうしを競争させ昇給に使うわけで、「これが教育か」と思う書類仕事だ。(都教委側では、そういう人事制度が民間では当たり前だとか言うわけである。)他にも山のように、20世紀にはなかった「書類のための書類作り」(例えばアリバイ的に情報公開で問題化しないように発言をうまくまとめた「○○委員会議事録」作成など)が多いのだ。
生徒に関わることでも小中では「全国学力テスト」があって、その成績を学校や教員の評価に使いたいと公言する知事や市長がいる。どうなってるんだ。大変な学校で大変な苦労をしている教員こそ、評価を上げるべきだろう。そのため「過去問」特訓をやったりするらしい。それでは本末転倒だ。そういう「競争的教育政策」のために、教員の仕事も変質し、事務仕事も増えてしまう。60年代に行われた学力テストは、教員組合の大きな反対運動で数年で中止になった。今は組合がほとんど力を失ってしまって、中止に向けた運動も行われない。それどころか、「競争意識」を内面化させてしまったような若手教員もいるんじゃないか。

このような「教育」の意味の変容の中で、教師にとっては「自らの尊厳のはく奪」が進行してきた。「教員免許更新制」はその代表的な例だ。「無意味な仕事」「つまらない仕事」をやらされていると、疲労感は倍増するだろう。社会のあり方も大きく変わり、教育も大きな変化を避けられない。マジメな議論は歓迎だが、今回の「英語民間テスト問題」のように、思いつき的な発想と結果的に中止といった事態は文科省の教育政策に振り回される教員に頑張る意欲を失わせる。
部活動などは別に考えなければならない問題だが、今回の「教員の変形労働時間制」では「労働時間」という量しか問われない。しかし教育のような仕事においては、量以上に「労働の質」を問わないといけない。労働内容の無意味化を何とかしないといけない。競争的教育政策の転換に向け、どのような反転攻勢ができるだろうか。今考えるとしたら、それこそが大きなテーマだと思う。もちろん、教員に限らずどんな仕事でも「労働の尊厳」が保証されなければいけない。しかし生徒が卒業後に就職する会社などを聞いても、尊厳が守られていない会社が多い。教員が行うべきことは、自分の仕事の量と質を問うことから始まって、生徒や保護者の労働をも問い続けていくことだと思う。