2020年に亡くなった沖縄の作家、大城立裕を読むシリーズ。しばらく放っておいたけど,何とか2020年のうちにと「小説 琉球処分」上下巻を年末に読み終わった。何しろ上下巻合計で千頁を超えるので、そう簡単には終わらない。2010年に講談社文庫に入ったのを持っていたんだけど、10年間読まなかった。でも、読み始めたら案外読みやすかった。歴史的な基本用語が「本土」と違うから当初は戸惑うけど、慣れてくると次第にスピードが上がった。
(上巻)
講談社文庫上巻の帯には、菅総理大臣の「数日前から『琉球処分』という本を読んでいるが、沖縄の歴史を私なりに理解を深めていこうとも思っている」という言葉が載っている。菅総理の読み方は「スガ」ではなくて「カン」である。2009年に成立した民主党・鳩山由紀夫首相が辞任して、菅直人内閣が成立した時期だ。普天間基地の移転先について「最低でも県外」と言っていた鳩山首相だったが、結局「辺野古移転」に転換して、社会民主党が連立から離脱した。
その時点では絶版だったので、首相の言葉で古書が暴騰し講談社文庫で出されることになった。もともとは1959年に琉球新報に連載された著者最初の長編小説だが,長くなりすぎて完結する前に連載中止となった。芥川賞受賞後に、残りを書き足して講談社から1968年に刊行された。後にファラオ企画、ケイブンシャ文庫というところからも刊行されたが初版止まりだったという。そして2010年に講談社文庫に入った。一応今も生き残っているようで、ネットならすぐ買える。「カクテル・パーティー」の次に知られている大城作品だろう。
文庫に入ったことは名誉だが、この本が「いずれ歴史にすぎないと見られる時代になることを、願っているが、私の存命中には無理であろうと思っている」と著者はあとがきに書いている。実際に読んでみて,僕もこの本はまだ歴史になっていないと思った。何度も刊行されたことについて、「琉球=沖縄が、日本にとって国内軍事植民地としての重要な(?)の価値をもっていて、そのなかからさまざまな意向で訴える声を、国民読者が一定量だけ持ち続けた。そしてその一定量だけに止まったということだろう」と冷静な分析をしている。
(下巻)
一番最初に「物語の背景」という文があって、当時の琉球王国の歴史と政治制度が簡単に紹介されている。読み方として、「親方」が「うえーかた」はまだ判るが、「親雲上」が「ぺーちん」とか、里之子が「さとぬし」、筑登之が「ちくどん」とか。文中で出てくる時に,全部ルビがあるわけじゃないから、最初は戸惑うし時間もかかる。まあ本土の江戸時代でも、「家老」とか「勘定奉行」とか今とは違う政治制度の言葉があった。でもそういうのは時代劇や時代小説で何となくイメージが出来ているが、琉球王国になるとこんなにも知らないのかと思った。
琉球王国は、清に朝貢して「王」を認められつつ、江戸時代初期に薩摩藩の侵攻を受けて服属していた。薩摩の支配は苛酷を極め、そのことが琉球王国に大きな傷を残した。その薩摩藩というものが、「廃藩置県」によって無くなってしまった。日本全土が「天皇」のもとに統一され、薩摩藩主も土地を天皇に奉還した。そんなことを聞かされても、琉球では全然判らない。江戸時代には将軍代替わりの時に慶賀使を送っていたので、同じようなものと考えていたら、1873年に国王尚泰を「琉球藩主」に封じ、薩摩藩に負っていた多額の負債も今や無くなったとされた。
なんだか判らないうちに、突然「近代」に直面した琉球王国の苦難をこのあと延々と描くわけである。「台湾征討」がその当時の心配事だった。その後1875年に大久保利通のもとで内務大丞を務めた松田道之(1839~1882)が「琉球処分官」を命じられて沖縄に赴く。松田の残した「琉球処分」という記録がこの小説のネタ元になっている。以後、1879年の「琉球処分」で「旧藩王」が首里城を明け渡し上京を命じられて沖縄を去るところまで、長い長い政治闘争が描かれていく。
(琉球処分官、松田道之)
全部書いても仕方ないが、琉球側には抜きがたい中華への恩顧意識があった。だから、いずれ清国が軍艦を派遣するといった噂が流れる。だが、実際にはそのような動きはなく、英仏露などとの抗争を抱えた清国にはそんな力は無いのだった。ただ、外交交渉では清は領有権を完全に放棄したとは言わず、日清戦争まで決着しなかった。日本側から、宮古・八重山を清に割譲する案も出していた。松田らはそれとは関係なく、琉球側に日本の制度への服属を求めることで一貫していた。理解しない、出来ない琉球側には、ある程度までは待ちながらも、最終的には軍事力、警察力で強行するということが決められていた。
そのような「軍事的制圧」による強圧が、まさに現在を見ているかのようなのである。当時の政府が考えた「国防の最前線」としての「琉球王国」という判断である。しかし、武力というものを持たなかった琉球の人々は、日本の軍隊が置かれることでかえって軍事的危機が起こると心配した。その危惧は1945年に現実のものとなった。その後も「沖縄」は「国防の最前線」とされて、現代でも自衛隊が先島諸島に配備されている。大城氏が予言したように、大城氏の存命中にこの本は歴史にならなかったのである。
この小説は、琉球処分の政治過程を細かく描き出す。暑い国に派遣され、言語も文化的習慣も異なる中でひたすら消耗する松田道之にも、なんだか同情したくなるほどだ。琉球王国の「頑固党」、つまり幕末の「攘夷派」は水戸藩の徳川斉昭みたいな頑迷な指導者がいて、現実的対策を立てられないまま「清の救援」を信じている。しかし、この小説の読みどころは、仲が良かった若者たちが次第に政治的立場を異にしていく様だろう。あるものは日本政府に仕え、別のものは清国に密航する。世界の様々なところで同じような話を見聞きした。同じような青春の悲劇が沖縄でも起こった。今も読み応え十分な大河小説だった。

講談社文庫上巻の帯には、菅総理大臣の「数日前から『琉球処分』という本を読んでいるが、沖縄の歴史を私なりに理解を深めていこうとも思っている」という言葉が載っている。菅総理の読み方は「スガ」ではなくて「カン」である。2009年に成立した民主党・鳩山由紀夫首相が辞任して、菅直人内閣が成立した時期だ。普天間基地の移転先について「最低でも県外」と言っていた鳩山首相だったが、結局「辺野古移転」に転換して、社会民主党が連立から離脱した。
その時点では絶版だったので、首相の言葉で古書が暴騰し講談社文庫で出されることになった。もともとは1959年に琉球新報に連載された著者最初の長編小説だが,長くなりすぎて完結する前に連載中止となった。芥川賞受賞後に、残りを書き足して講談社から1968年に刊行された。後にファラオ企画、ケイブンシャ文庫というところからも刊行されたが初版止まりだったという。そして2010年に講談社文庫に入った。一応今も生き残っているようで、ネットならすぐ買える。「カクテル・パーティー」の次に知られている大城作品だろう。
文庫に入ったことは名誉だが、この本が「いずれ歴史にすぎないと見られる時代になることを、願っているが、私の存命中には無理であろうと思っている」と著者はあとがきに書いている。実際に読んでみて,僕もこの本はまだ歴史になっていないと思った。何度も刊行されたことについて、「琉球=沖縄が、日本にとって国内軍事植民地としての重要な(?)の価値をもっていて、そのなかからさまざまな意向で訴える声を、国民読者が一定量だけ持ち続けた。そしてその一定量だけに止まったということだろう」と冷静な分析をしている。

一番最初に「物語の背景」という文があって、当時の琉球王国の歴史と政治制度が簡単に紹介されている。読み方として、「親方」が「うえーかた」はまだ判るが、「親雲上」が「ぺーちん」とか、里之子が「さとぬし」、筑登之が「ちくどん」とか。文中で出てくる時に,全部ルビがあるわけじゃないから、最初は戸惑うし時間もかかる。まあ本土の江戸時代でも、「家老」とか「勘定奉行」とか今とは違う政治制度の言葉があった。でもそういうのは時代劇や時代小説で何となくイメージが出来ているが、琉球王国になるとこんなにも知らないのかと思った。
琉球王国は、清に朝貢して「王」を認められつつ、江戸時代初期に薩摩藩の侵攻を受けて服属していた。薩摩の支配は苛酷を極め、そのことが琉球王国に大きな傷を残した。その薩摩藩というものが、「廃藩置県」によって無くなってしまった。日本全土が「天皇」のもとに統一され、薩摩藩主も土地を天皇に奉還した。そんなことを聞かされても、琉球では全然判らない。江戸時代には将軍代替わりの時に慶賀使を送っていたので、同じようなものと考えていたら、1873年に国王尚泰を「琉球藩主」に封じ、薩摩藩に負っていた多額の負債も今や無くなったとされた。
なんだか判らないうちに、突然「近代」に直面した琉球王国の苦難をこのあと延々と描くわけである。「台湾征討」がその当時の心配事だった。その後1875年に大久保利通のもとで内務大丞を務めた松田道之(1839~1882)が「琉球処分官」を命じられて沖縄に赴く。松田の残した「琉球処分」という記録がこの小説のネタ元になっている。以後、1879年の「琉球処分」で「旧藩王」が首里城を明け渡し上京を命じられて沖縄を去るところまで、長い長い政治闘争が描かれていく。

全部書いても仕方ないが、琉球側には抜きがたい中華への恩顧意識があった。だから、いずれ清国が軍艦を派遣するといった噂が流れる。だが、実際にはそのような動きはなく、英仏露などとの抗争を抱えた清国にはそんな力は無いのだった。ただ、外交交渉では清は領有権を完全に放棄したとは言わず、日清戦争まで決着しなかった。日本側から、宮古・八重山を清に割譲する案も出していた。松田らはそれとは関係なく、琉球側に日本の制度への服属を求めることで一貫していた。理解しない、出来ない琉球側には、ある程度までは待ちながらも、最終的には軍事力、警察力で強行するということが決められていた。
そのような「軍事的制圧」による強圧が、まさに現在を見ているかのようなのである。当時の政府が考えた「国防の最前線」としての「琉球王国」という判断である。しかし、武力というものを持たなかった琉球の人々は、日本の軍隊が置かれることでかえって軍事的危機が起こると心配した。その危惧は1945年に現実のものとなった。その後も「沖縄」は「国防の最前線」とされて、現代でも自衛隊が先島諸島に配備されている。大城氏が予言したように、大城氏の存命中にこの本は歴史にならなかったのである。
この小説は、琉球処分の政治過程を細かく描き出す。暑い国に派遣され、言語も文化的習慣も異なる中でひたすら消耗する松田道之にも、なんだか同情したくなるほどだ。琉球王国の「頑固党」、つまり幕末の「攘夷派」は水戸藩の徳川斉昭みたいな頑迷な指導者がいて、現実的対策を立てられないまま「清の救援」を信じている。しかし、この小説の読みどころは、仲が良かった若者たちが次第に政治的立場を異にしていく様だろう。あるものは日本政府に仕え、別のものは清国に密航する。世界の様々なところで同じような話を見聞きした。同じような青春の悲劇が沖縄でも起こった。今も読み応え十分な大河小説だった。