2回目の緊急事態宣言は効果が上がるのか。その問題に対して、「利他心」がカギになると指摘している人がいる。東京大学の渡辺努教授(マクロ経済学)という人である。東京新聞1月6日付紙面の記事から引用すると、以下のようになる。「昨春、外出を抑制した感染への『恐怖心』は弱まっている。今回は、周囲にうつさないという『利他心』が鍵を握る」というのである。
昨年の緊急事態宣言では外出が6割減って新規感染者の減少につながった。渡辺教授によると、「多くの国民は『自分もかかるかも』という恐怖心から外出を控えていた」とみる。しかし、その恐怖心は弱まっている。特に感染しても重症化しにくいと知った若者に顕著だというのである。「感染を怖がらないと若者が考えるのは合理的だ。今後は恐怖心でなく、周囲に感染させないように心がける『利他心』に訴える必要がある。」
(利他心が大切)
もともと「公衆衛生」という社会政策は、自分ひとりではなく「地域社会を守る」ところから始まっている。ただ日本では「上からの近代化」を進める中で、ともすれば警察権力を行使して中央集権的に衛生対策を進めてきた歴史がある。しかし、本来は「社会連帯」が前提になっていないと、成熟した産業社会ではどんな政策も成功しないだろう。新型コロナウイルスで「重症者リスク」が高い高齢者層は、現代社会の中では「弱い立場」にある。そのような相対的に弱い層をどのように守っていくのかが重要なのである。
日本で例年だと1千万人近くがインフルエンザに罹患する。冬場に大流行が始まると、学級閉鎖や学校閉鎖もよく報道される。(ニュースになるから凄く多いと思うかも知れないが、ほとんどの教員は定年までに一回も経験しないだろう。)これは「子どもを守る」という意味もあるが、それが主目的ではない。インフルエンザは学校における飛沫感染、接触感染によって、あっという間に家族内感染してしまう。若年者でも治るまで一週間程度はかかるが、高齢者がインフルエンザにかかると毎年千名を大きく超える死者が出ていると言われる。そういう事態を少しでも減らすために「学級閉鎖」を行うのである。
(利他心論争の構図)
一般に「利己心」が世の中を動かしていると見る人が多い。一見「利他心」に見えることでも、「情けは人のためならず」で実は自分に戻って利益になることが多い。また「利己的遺伝子」などを想定して、動物は自己の遺伝子をより残すために行動するのだと説く人もある。初期の経済学では「神の見えざる手」(アダム・スミス)を想定して、それぞれの個人が自己の利益を追求することで結果的に社会全体の利益も実現すると考えた。
まあ、そんなことは置いといて、20世紀後半の政治家は「競争」が成功の鍵だとして、国民の利己心をあおる政策ばかりを推進してきた。ノーベル賞受賞者が出るたびに「基礎学問が大切」というけれど、日本政府は聞く耳を持たず大学でも「競争」を強いるようになっている。先の渡辺教授は最後に「互いに守りあおうと訴えるメッセージを、政府は出すべきだ」と述べているが、多くの国民は今さらそんなことを言われてもと思うのではないか。自分たちでは「会食」してる人たちが、そんなことを言っても心に届かないよと。
(「Goto イート」キャンペーン時の「くら寿司」)
以前の記事で書いたように、菅内閣の政策はすべて国民の利己心をあおって「得するからやった方がいいよ」で作られている。「ふるさと納税」や「マイナポイント」が典型だ。そして「Go Toキャンペーン」も同様だった。(『「Go To」キャンペーンのおかしな仕組み』2020.12.12参照)旅行業も飲食業も大変なダメージを受けていたのは間違いない。それを国策として救済するのはいいけれど、大変な業界を社会全体で支えようというのではなく、上の画像にあるように「こんなに得だよ」という進め方ばかり聞かれた。「利己心」に基づく政策だったのである。
コロナ対策には「利他心」が重要なのは間違いないと思うが、恐らく菅内閣のメッセージとしては伝わらないだろう。そういう考え方で生きて来なかったのだから、今さら発想を変えられない。年末年始の前にそれなのに政府も対策を出していた。しかし、現在の感染者数を見れば年末年始の国民の行動は感染を抑えるものではなかった。緊急事態宣言が首都圏に出されて10日以上経つが顕著な減少傾向は見られない。このままでは「医療崩壊」と「大量失業」が同時並行で起こってしまう可能性が高いのではないだろうか。
昨年の緊急事態宣言では外出が6割減って新規感染者の減少につながった。渡辺教授によると、「多くの国民は『自分もかかるかも』という恐怖心から外出を控えていた」とみる。しかし、その恐怖心は弱まっている。特に感染しても重症化しにくいと知った若者に顕著だというのである。「感染を怖がらないと若者が考えるのは合理的だ。今後は恐怖心でなく、周囲に感染させないように心がける『利他心』に訴える必要がある。」
(利他心が大切)
もともと「公衆衛生」という社会政策は、自分ひとりではなく「地域社会を守る」ところから始まっている。ただ日本では「上からの近代化」を進める中で、ともすれば警察権力を行使して中央集権的に衛生対策を進めてきた歴史がある。しかし、本来は「社会連帯」が前提になっていないと、成熟した産業社会ではどんな政策も成功しないだろう。新型コロナウイルスで「重症者リスク」が高い高齢者層は、現代社会の中では「弱い立場」にある。そのような相対的に弱い層をどのように守っていくのかが重要なのである。
日本で例年だと1千万人近くがインフルエンザに罹患する。冬場に大流行が始まると、学級閉鎖や学校閉鎖もよく報道される。(ニュースになるから凄く多いと思うかも知れないが、ほとんどの教員は定年までに一回も経験しないだろう。)これは「子どもを守る」という意味もあるが、それが主目的ではない。インフルエンザは学校における飛沫感染、接触感染によって、あっという間に家族内感染してしまう。若年者でも治るまで一週間程度はかかるが、高齢者がインフルエンザにかかると毎年千名を大きく超える死者が出ていると言われる。そういう事態を少しでも減らすために「学級閉鎖」を行うのである。
(利他心論争の構図)
一般に「利己心」が世の中を動かしていると見る人が多い。一見「利他心」に見えることでも、「情けは人のためならず」で実は自分に戻って利益になることが多い。また「利己的遺伝子」などを想定して、動物は自己の遺伝子をより残すために行動するのだと説く人もある。初期の経済学では「神の見えざる手」(アダム・スミス)を想定して、それぞれの個人が自己の利益を追求することで結果的に社会全体の利益も実現すると考えた。
まあ、そんなことは置いといて、20世紀後半の政治家は「競争」が成功の鍵だとして、国民の利己心をあおる政策ばかりを推進してきた。ノーベル賞受賞者が出るたびに「基礎学問が大切」というけれど、日本政府は聞く耳を持たず大学でも「競争」を強いるようになっている。先の渡辺教授は最後に「互いに守りあおうと訴えるメッセージを、政府は出すべきだ」と述べているが、多くの国民は今さらそんなことを言われてもと思うのではないか。自分たちでは「会食」してる人たちが、そんなことを言っても心に届かないよと。
(「Goto イート」キャンペーン時の「くら寿司」)
以前の記事で書いたように、菅内閣の政策はすべて国民の利己心をあおって「得するからやった方がいいよ」で作られている。「ふるさと納税」や「マイナポイント」が典型だ。そして「Go Toキャンペーン」も同様だった。(『「Go To」キャンペーンのおかしな仕組み』2020.12.12参照)旅行業も飲食業も大変なダメージを受けていたのは間違いない。それを国策として救済するのはいいけれど、大変な業界を社会全体で支えようというのではなく、上の画像にあるように「こんなに得だよ」という進め方ばかり聞かれた。「利己心」に基づく政策だったのである。
コロナ対策には「利他心」が重要なのは間違いないと思うが、恐らく菅内閣のメッセージとしては伝わらないだろう。そういう考え方で生きて来なかったのだから、今さら発想を変えられない。年末年始の前にそれなのに政府も対策を出していた。しかし、現在の感染者数を見れば年末年始の国民の行動は感染を抑えるものではなかった。緊急事態宣言が首都圏に出されて10日以上経つが顕著な減少傾向は見られない。このままでは「医療崩壊」と「大量失業」が同時並行で起こってしまう可能性が高いのではないだろうか。