尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

中公新書「板垣退助」を読む

2021年01月26日 22時41分48秒 |  〃 (歴史・地理)
 2020年11月新刊の中公新書、中元崇智(なかもと・たかとし、1978~、中京大学教授)氏の「板垣退助」を読んだ。読んだのは実は「イマジネーションの戦争」や「新宿鮫」の前のことで、記録のために簡単に。「明智光秀」を読んだばかりだが、中公新書には日本史上の有名人物の伝記が多い気がする。近現代史の分野でも話題になった本がずいぶんある。日本史では吉川弘文館に有名な「人物叢書」シリーズがあって、300点を超える本を出している。しかし、そっちを読むのは大変だから、新書で充実した伝記を出してくれるのはありがたい。

 板垣退助(1837~1919)は、明治の「自由民権運動」のところで必ず教科書に出てくる。かつては百円紙幣の肖像に使われていたから、誰でも名前を知っていた。ちなみに百円紙幣を調べてみると、1885年以来デザインを何度か変えながら発行されてきた。板垣退助の百円札は1953年から1974年まで使われていた。だから僕はこの紙幣を覚えている。でも百円硬貨が1957年に発行されていて、僕の子ども時代でも硬貨の方を主に使っていたと思う。
(百円紙幣)
 そういう有名人物だけど、思えば伝記を読んだことがなかった。この本も郷土史家が書いた本以来、約半世紀ぶりの伝記だという。板垣退助は幕末の志士から、維新政府の高官、政変で下野して反政府運動家になって、憲政下では藩閥政府に対抗する野党党首になった。その間の転変が激しく、歴史研究が細分化している現代では板垣の生涯を細かく検討するのも難しい。板垣の人生には多くの矛盾失敗逆境があり、伝記的にたどるのも大変だ。だから板垣退助の伝記は書かれなかったし、我々も特に読みたいとは思わずに来た。

 板垣退助は土佐藩(高知県)出身だが、「幕末の土佐藩」では脱藩して維新目前に横死した坂本龍馬中岡慎太郎が神話化してしまった。上の方にはこれも伝説的な名君(というか暴君)の前藩主山内容堂という怪物がいる。だから藩政に関与し続けた上層部の後藤象二郎や板垣の印象が薄くなる。そのような幕末の土佐藩理解そのものに問題があった。板垣は幕末段階では乾退助と名乗っていた。(いぬい)家は武田信玄に仕えて武田四天王と言われた板垣信方に由来する。戊辰戦争で土佐藩平を指揮して甲州を攻撃した時に、信玄を懐かしむ気風の強い甲州の人心掌握のため板垣姓を名乗ったのである。
(日光の板垣像)
 板垣には都合良く書かれた「自由党史」などの「公式」本が存在する。それらの中には「自己伝説化」みたいな記述が多い。だからこそ事実の確定も難しい。僕がよく行く日光には、神橋そば(日光金谷ホテル下)に板垣退助の銅像が経っている。戊辰戦争時に大鳥圭介指揮下の旧幕軍が日光に立て籠もった。「神君家康」の墓所なんだから、日光は壊滅の恐れもあったわけだが、それを救ったのが板垣だとされている。また後の自由民権の素になったのは会津戦争時の体験にあるとも語っている。これらは真実と言うより「神話」に近いらしい。

 自由民権運動が盛んになったとき、板垣は全国を演説して回ったが、1882年に岐阜で襲撃事件が起こった。その時に「板垣死すとも自由は死せず」という歴史的名言を発したとされる。これこそ板垣の生涯で最大の「伝説」だが、しかし、どうも確かにそんなことを言ったらしい。当時そばにいた関係者や新聞も大体そんな言葉を記録していた。その後の「外遊」問題、自由党解党などで、自由民権運動研究では板垣の評判はよろしくない。この何十年か、自由民権運動の民衆的広がりに研究の焦点があって、中央の指導者には僕もあまり関心がなかった。
(岐阜の遭難事件現場の銅像)
 だから教科書には「(板垣退助の)自由党はフランス流」「(大隈重信の)改進党はイギリス流」などと書いてあるのを僕も疑わずに教えて来た。だが自由党もイギリス立憲政治を目指していたとこの本は指摘している。今までは植木枝盛中江兆民の思想的影響を過大に評価してきたということだろう。板垣退助は徹底した「一君万民」論者で、だからこその「藩閥」へ敵対し続けたのである。イギリスの「君臨すれども統治せず」の政治を目指していたと考えていいだろう。

 その結果、「辞爵」問題が起きた。華族制度が作られた時に、板垣にも伯爵が授与されることになったのを、板垣は辞退しようとした。天皇の下に特権階級を置くことに反対だったのである。しかし、明治天皇に戊辰戦争の功績に報いたいという「叡慮」を示され、板垣は拒否出来なくなってしまう。華族は衆議院への立候補資格がなく、「国会の父」と呼ばれたりする板垣は一度も帝国議会の議員になっていない。もちろん貴族院議員ならなれたわけだが、華族制度を否定する板垣は議員にならなかった。その上、「一代華族論」を唱えて、自分の爵位を子孫に継がせなかった。

 岐阜遭難事件の犯人は、板垣が申請して憲法発布時の恩赦で出獄できた。このように、板垣は政治的才能では伊藤博文や大隈重信に遠く及ばなかったけれど、なかなか筋を通した人物だったと思う。憲政下では大隈重信と組んだ「隈板(わいはん)内閣」で、4ヶ月間だけ内務大臣を務めた。この「野党勢力の大同団結」がかくも短期に崩壊したのは何故か。戦後すぐの片山内閣やついこの間の民主党内閣を思い起こさせる。今も考えるべき重大問題だと思う。
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