紀伊國屋サザンシアターで始まった文学座の公演「ジャンガリアン」を見た。横山拓也作、松本祐子演出で、20日まで。ナイトチケットの方がずいぶん安いから12日夜の初演を見たが、とても面白かった。作者の横山拓也は大阪出身で、iakuという劇団の代表。僕は知らなかったが、2918年「逢いにいくの、雨だけど」、2019年「ヒトハミナ、ヒトナミノ」、「あつい胸さわぎ」など、最近コンスタントに注目作を連発しているらしい。今回の「ジャンガリアン」もトンカツ屋の内部だけを舞台にしながら、世界につながる現代を描き出して秀逸。客席には笑いも絶えず、演劇を見る楽しみを味わえる。
舞台は大阪のどこかの商店街の一角にあるトンカツ屋「たきかつ」。今日はリニューアル休店前の最後の日である。創業60年という老舗として常連も付いているが、何しろもう古い。店を開いた祖父が亡くなったのを機に、家業に目もくれなかった長男、琢己が継ぐことになった。店で長いこと勤めてきたアキラさんは、新しくなる店に不安も覚えながら「若旦那」を立てている。そこに様々な人がやって来る。琢己の両親は離婚していて、父親高安は今は近くに別の店を出して商店会の会長をしている。両親は犬猿の仲で、「たきかつ」は商店会にも入ってないぐらい。琢己の妻、アイは保育士をしていてバツイチらしい。
そんなところに、外国人の支援をしている女性がモンゴル人留学生を連れてくる。「フンビシ」という名のモンゴル人は、最初はジャンガリアンを持ってくるために店に来たのだった。題名にもなっているジャンガリアンとは何か。演出の松本祐子も最初は知らなかったというが、何とハムスターの一種だった。「たきかつ」は古くなりすぎてネズミが出るという。いくら何でも食べ物屋でまずいだろうと思った琢己に、ジャンガリアンを飼えばと勧める人がいた。同じネズミの一種で、なわばり意識があってジャンガリアンを飼ってるとネズミが出ないというのだが…。
(ジャンガリアン)
そんなこんなでゴタゴタしている時に、琢己が倒れてしまう。救急車を呼ぶ事態になってしまい、すべてリニューアルの工程表を作ってある工務店の担当は困惑する。そこからこの小さな店をめぐる人間関係が細かな会話を通して見えてくる。それは思わず「日本人とは何か」を考えさせるものになっていく。商店会の会長(つまり「たきかつ」の琢己の父)は外国人との交流も大切と考えていて、祭にベトナム人やモンゴル人が豚の丸焼きをするコーナーを認める。それが子どもたちから「残酷」だと非難されたらしい。日本人はトンカツを平気で食べているのに、丸焼きにすると残酷だと言い出す。
(舞台風景)
琢己が入院中でリニューアル工事も頓挫している間に、フンビシを二階に住まわせて店を手伝って貰えばという話になる。しかし、外国人を雇うことに反対もあるし、リハビリが必要になってしまった琢己には鬱屈が絶えない。そこにアキラの人生、先代の教えが語られるときに、許すこと信じることの大切さというテーマが見えてくるのである。小さな店の小さな人間模様をユーモアたっぷりに語りながら、案外大きなテーマがあぶり出されてきた。もっとも最後は出来すぎ的なウェルメイドプレイになってしまったかも。しっかりした演技に支えられた社会性とユーモアは、「新劇」の意味を再確認させてくれるような感じがした。
出演は父がたかお鷹、琢己が林田一高、アキラが高橋克明、フンビシが奥田一平、工務店の担当が川合耀祐、母親に吉野由志子、フンビシを連れてくる団体の女性が金沢映美、妻アイが吉野実紗。僕もほとんど知らないけれど、みな達者な演技。サザンシアターはまあ椅子がいい方だから、時々行きたいなあと思う。舞台でも新作ではなく、最近は再演が多い。若い作家の新作を追いかけて見るのは大変だが、なかなか注目の才能だなと感じた。
舞台は大阪のどこかの商店街の一角にあるトンカツ屋「たきかつ」。今日はリニューアル休店前の最後の日である。創業60年という老舗として常連も付いているが、何しろもう古い。店を開いた祖父が亡くなったのを機に、家業に目もくれなかった長男、琢己が継ぐことになった。店で長いこと勤めてきたアキラさんは、新しくなる店に不安も覚えながら「若旦那」を立てている。そこに様々な人がやって来る。琢己の両親は離婚していて、父親高安は今は近くに別の店を出して商店会の会長をしている。両親は犬猿の仲で、「たきかつ」は商店会にも入ってないぐらい。琢己の妻、アイは保育士をしていてバツイチらしい。
そんなところに、外国人の支援をしている女性がモンゴル人留学生を連れてくる。「フンビシ」という名のモンゴル人は、最初はジャンガリアンを持ってくるために店に来たのだった。題名にもなっているジャンガリアンとは何か。演出の松本祐子も最初は知らなかったというが、何とハムスターの一種だった。「たきかつ」は古くなりすぎてネズミが出るという。いくら何でも食べ物屋でまずいだろうと思った琢己に、ジャンガリアンを飼えばと勧める人がいた。同じネズミの一種で、なわばり意識があってジャンガリアンを飼ってるとネズミが出ないというのだが…。
(ジャンガリアン)
そんなこんなでゴタゴタしている時に、琢己が倒れてしまう。救急車を呼ぶ事態になってしまい、すべてリニューアルの工程表を作ってある工務店の担当は困惑する。そこからこの小さな店をめぐる人間関係が細かな会話を通して見えてくる。それは思わず「日本人とは何か」を考えさせるものになっていく。商店会の会長(つまり「たきかつ」の琢己の父)は外国人との交流も大切と考えていて、祭にベトナム人やモンゴル人が豚の丸焼きをするコーナーを認める。それが子どもたちから「残酷」だと非難されたらしい。日本人はトンカツを平気で食べているのに、丸焼きにすると残酷だと言い出す。
(舞台風景)
琢己が入院中でリニューアル工事も頓挫している間に、フンビシを二階に住まわせて店を手伝って貰えばという話になる。しかし、外国人を雇うことに反対もあるし、リハビリが必要になってしまった琢己には鬱屈が絶えない。そこにアキラの人生、先代の教えが語られるときに、許すこと信じることの大切さというテーマが見えてくるのである。小さな店の小さな人間模様をユーモアたっぷりに語りながら、案外大きなテーマがあぶり出されてきた。もっとも最後は出来すぎ的なウェルメイドプレイになってしまったかも。しっかりした演技に支えられた社会性とユーモアは、「新劇」の意味を再確認させてくれるような感じがした。
出演は父がたかお鷹、琢己が林田一高、アキラが高橋克明、フンビシが奥田一平、工務店の担当が川合耀祐、母親に吉野由志子、フンビシを連れてくる団体の女性が金沢映美、妻アイが吉野実紗。僕もほとんど知らないけれど、みな達者な演技。サザンシアターはまあ椅子がいい方だから、時々行きたいなあと思う。舞台でも新作ではなく、最近は再演が多い。若い作家の新作を追いかけて見るのは大変だが、なかなか注目の才能だなと感じた。