古い映画のことは書かないつもりだったが、ちょっと題材を紹介したくなって「蟻の街のマリア」について書いておこうと思う。五所平之助監督の1958年松竹映画で、国立映画アーカイブの五所監督特集で見た。この映画のことは長いこと見たいと思っていたが、ほとんど上映機会がなかった。当時有名だった実話の映画化で、東京のスラム街「蟻の街」に住み着いて子どもたちとともに暮らしたクリスチャン女性北原怜子(さとこ)の物語である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/08/45/5cbe6cf90a1ce9faa2a95b36062bf2c4_s.jpg)
若くして亡くなった北原怜子は、昔の子ども雑誌の定番エピソードだった。「小学○年生」といった雑誌を多くの家庭で購読していた時代、「蟻の街のマリア」の美談はよく取り上げられていた。そしてそういう記事には決まって「映画にもなった」と書いてあったけれど、名画座などでこの映画の上映はまずなかった。近年になって地元で語り継ぐ機運が出て来て、新聞記事で紹介されたりした。そういう時に映画の上映会が企画されたようだが、映画としてはほとんど忘れられてきたと思う。
明治の東京で「三大貧民窟」と言われたのは、下谷万年町、芝新網町、四谷鮫ケ橋だった。横山源之助「日本の下層社会」(岩波文庫)に詳しいが、今では地名も変わって面影はどこにもない。戦後には「蟻の街」というスラムがあったわけだが、それがどこだか今では判らない。高度成長時代を過ぎた日本では町ごと貧民が集住することはなくなった。どこの町にも古びたアパートが残っているけれど、駅前に行けばそれなりに栄えているのが今の日本である。だからかつて東京にもあったスラム街の記憶は全く残されていない。
この映画の舞台となった「蟻の街」は隅田川に掛かる言問橋の台東区側にあった。冒頭は隅田川のロケだが、遠くに浅草松屋ビルが見える。その間に大きな建物がないので、間近に見えるのが新鮮。そこから「蟻の街」の住民紹介になる。ここは「バタヤ」と呼ばれていた。廃品回収業者、まあ俗に言う「屑屋」である。自分たちは貧しいが、働いて自活しているという意識を持っている。ある雨の日、そこへ見知らぬ若い女性が訪ねてきて、子どもたちのお世話をしたいと言う。もちろん「蟻の街」はセットで作られたものである。
ここには「会長」がいて、会長じゃないと判らないと言われる。初めはお嬢さんが来るところではない、偽善だ、宗教の押し売りではないかなどという受け取り方が多い。しかし、一生懸命に子どもたちの相手をしているうちに、学校でもいじめられて勉強も出来ない子どもたちが懐いていく。実際に北原怜子が蟻の街を訪れたのは1950年だったという。それにはゼノ修道士の存在が大きかった。ゼノは有名なコルベ神父(アウシュヴィッツで身代わりになったことで知られるポーランドの神父。聖人となっている)などとともに日本に布教に来たポーランド人で、長崎で被爆していた。この頃は蟻の街にカトリック教会を建てようとしていたのである。
(実際の北原怜子と子どもたち)
一緒に勉強し、一緒に歌を歌いながら、やがて北原怜子は気付いた。作文や歌に出て来る海や山を言葉では知っているが、子どもたちは実際には見たことがないのである。じゃあバス旅行に行こうと言いだして、そのお金を自分たちで稼ごうとする。自ら町に出て廃品回収に汗を流し、父の紹介でお金になる空き缶を大量に貰えた。そして念願の箱根旅行で、子どもたちは芦ノ湖や大涌谷、小田原の海を見て感激する。見る前から判る展開ではあるけれど、やはり心が洗われるような感動的なシーンだ。
その後、奉仕活動の無理が積み重なった北原怜子は、肺結核に倒れ療養せざるを得なくなる。その頃東京都は蟻の街の住民に移住を強く迫っていた。もともと都有地の不法占拠だというのである。他のスラムも撤去しているという。警察が来て測量したりもする。街に住み着いて「先生」と呼ばれている医者が、住民代表で都と交渉するがなかなか打開策がない。療養から戻って蟻の街に住み込んでいた北原は、子どもたちの作文集を託し、これを都の人にも読んで欲しいという。そして都が譲歩したことを聞いて、北原怜子は亡くなる。
映画では23歳で亡くなったと言うが、実際には1929年に生まれ、1958年に亡くなった北原怜子は29歳だった。映画で演じたのは千之赫子(ちの・かくこ、1934~1985)で宝塚退団後の映画デビュー作である。今では知らない人が多いと思うが、60年前後の松竹映画に出ている。僕も知らなかったのが、東映の時代劇俳優として人気があった東千代之介と見合い結婚したとウィキペディアに出ていた。金八先生などにも出ていたが、ぜんそくが悪化して51歳で亡くなった。僕がすぐ思い出すのは、大島渚監督のデビュー作「愛と希望の街」である。鳩を売る少年の担任教師を演じ、強い印象を残している。
(「愛と希望の町」の千之赫子)
五所平之助監督は戦前から松竹を代表する監督の一人で、最初のトーキー(発声映画)「マダムと女房」や「伊豆の踊子」の一番最初の映画化(田中絹代主演)などで知られた。戦後に作られた「煙突の見える場所」が代表作。その他「大阪の宿」など佳作がたくさんある。「蟻の街のマリア」は映画としては特に傑出した映画とは言えない。どうしても「美談」の映像化という枠を越えられないのはやむを得ない。しかし戦後東京史の忘れられたエピソードとして、「戦後」という時代を知る大切な映画だと思う。
タイで活躍し「スラムの天使」と呼ばれたプラティーム・ウンソンタムさんが来日した時に講演を聞きに行ったことがある。マザー・テレサと一緒だったが、僕はプラティームさんの方をより聞きたかったのである。クリスチャンではないけれど、こういう自己奉仕と子どもたちの映画は何だか心の琴線に触れるところがあるなあと思った。11月13日(土)18時からもう一回上映がある。(国立映画アーカイブ。当日券はなく、すべてチケットぴあでの前売指定席のみ。)
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若くして亡くなった北原怜子は、昔の子ども雑誌の定番エピソードだった。「小学○年生」といった雑誌を多くの家庭で購読していた時代、「蟻の街のマリア」の美談はよく取り上げられていた。そしてそういう記事には決まって「映画にもなった」と書いてあったけれど、名画座などでこの映画の上映はまずなかった。近年になって地元で語り継ぐ機運が出て来て、新聞記事で紹介されたりした。そういう時に映画の上映会が企画されたようだが、映画としてはほとんど忘れられてきたと思う。
明治の東京で「三大貧民窟」と言われたのは、下谷万年町、芝新網町、四谷鮫ケ橋だった。横山源之助「日本の下層社会」(岩波文庫)に詳しいが、今では地名も変わって面影はどこにもない。戦後には「蟻の街」というスラムがあったわけだが、それがどこだか今では判らない。高度成長時代を過ぎた日本では町ごと貧民が集住することはなくなった。どこの町にも古びたアパートが残っているけれど、駅前に行けばそれなりに栄えているのが今の日本である。だからかつて東京にもあったスラム街の記憶は全く残されていない。
この映画の舞台となった「蟻の街」は隅田川に掛かる言問橋の台東区側にあった。冒頭は隅田川のロケだが、遠くに浅草松屋ビルが見える。その間に大きな建物がないので、間近に見えるのが新鮮。そこから「蟻の街」の住民紹介になる。ここは「バタヤ」と呼ばれていた。廃品回収業者、まあ俗に言う「屑屋」である。自分たちは貧しいが、働いて自活しているという意識を持っている。ある雨の日、そこへ見知らぬ若い女性が訪ねてきて、子どもたちのお世話をしたいと言う。もちろん「蟻の街」はセットで作られたものである。
ここには「会長」がいて、会長じゃないと判らないと言われる。初めはお嬢さんが来るところではない、偽善だ、宗教の押し売りではないかなどという受け取り方が多い。しかし、一生懸命に子どもたちの相手をしているうちに、学校でもいじめられて勉強も出来ない子どもたちが懐いていく。実際に北原怜子が蟻の街を訪れたのは1950年だったという。それにはゼノ修道士の存在が大きかった。ゼノは有名なコルベ神父(アウシュヴィッツで身代わりになったことで知られるポーランドの神父。聖人となっている)などとともに日本に布教に来たポーランド人で、長崎で被爆していた。この頃は蟻の街にカトリック教会を建てようとしていたのである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/1f/bb/2b7f9f7718159176a13d7be357e1468b_s.jpg)
一緒に勉強し、一緒に歌を歌いながら、やがて北原怜子は気付いた。作文や歌に出て来る海や山を言葉では知っているが、子どもたちは実際には見たことがないのである。じゃあバス旅行に行こうと言いだして、そのお金を自分たちで稼ごうとする。自ら町に出て廃品回収に汗を流し、父の紹介でお金になる空き缶を大量に貰えた。そして念願の箱根旅行で、子どもたちは芦ノ湖や大涌谷、小田原の海を見て感激する。見る前から判る展開ではあるけれど、やはり心が洗われるような感動的なシーンだ。
その後、奉仕活動の無理が積み重なった北原怜子は、肺結核に倒れ療養せざるを得なくなる。その頃東京都は蟻の街の住民に移住を強く迫っていた。もともと都有地の不法占拠だというのである。他のスラムも撤去しているという。警察が来て測量したりもする。街に住み着いて「先生」と呼ばれている医者が、住民代表で都と交渉するがなかなか打開策がない。療養から戻って蟻の街に住み込んでいた北原は、子どもたちの作文集を託し、これを都の人にも読んで欲しいという。そして都が譲歩したことを聞いて、北原怜子は亡くなる。
映画では23歳で亡くなったと言うが、実際には1929年に生まれ、1958年に亡くなった北原怜子は29歳だった。映画で演じたのは千之赫子(ちの・かくこ、1934~1985)で宝塚退団後の映画デビュー作である。今では知らない人が多いと思うが、60年前後の松竹映画に出ている。僕も知らなかったのが、東映の時代劇俳優として人気があった東千代之介と見合い結婚したとウィキペディアに出ていた。金八先生などにも出ていたが、ぜんそくが悪化して51歳で亡くなった。僕がすぐ思い出すのは、大島渚監督のデビュー作「愛と希望の街」である。鳩を売る少年の担任教師を演じ、強い印象を残している。
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五所平之助監督は戦前から松竹を代表する監督の一人で、最初のトーキー(発声映画)「マダムと女房」や「伊豆の踊子」の一番最初の映画化(田中絹代主演)などで知られた。戦後に作られた「煙突の見える場所」が代表作。その他「大阪の宿」など佳作がたくさんある。「蟻の街のマリア」は映画としては特に傑出した映画とは言えない。どうしても「美談」の映像化という枠を越えられないのはやむを得ない。しかし戦後東京史の忘れられたエピソードとして、「戦後」という時代を知る大切な映画だと思う。
タイで活躍し「スラムの天使」と呼ばれたプラティーム・ウンソンタムさんが来日した時に講演を聞きに行ったことがある。マザー・テレサと一緒だったが、僕はプラティームさんの方をより聞きたかったのである。クリスチャンではないけれど、こういう自己奉仕と子どもたちの映画は何だか心の琴線に触れるところがあるなあと思った。11月13日(土)18時からもう一回上映がある。(国立映画アーカイブ。当日券はなく、すべてチケットぴあでの前売指定席のみ。)