国立映画アーカイブの五所平之助監督特集で「100万人の娘たち」(1963)を見た。宮崎交通の全面的協力を得て、新婚旅行ブームに沸く宮崎県を舞台にしている。前半はロケ中心にバスガイドの世界を描くが、次第にセットで撮影された松竹ホームドラマになっていって、何だこれ的な終わり方になる。映画的には特に高く評価されたわけではなく、ウィキペディアを見ても五所監督の作品に載っていないぐらいだ。僕も映像社会史というか、考現学的な関心から見てみたいと思った映画。

映画アーカイブのチラシに「宮崎における観光業の発展に感銘を受けた松竹の大谷竹次郎会長の発案により始まった企画」と書かれている。五所監督と脚本家の久板栄二郎が各地を回ってシナリオを書いたという。冒頭でバスガイドの岩下志麻が堀切峠を案内している。一ノ瀬悠子という名だと後に判るが、彼女は時計を見て時間を気にしている。そこから宮崎空港に画面が移ると、何か大歓迎の準備が進んでいる。それは何と「全国バスガイドコンクール」で宮崎交通の代表が優勝したというのである。それが悠子の姉の一ノ瀬幸子(小畠絹子)だったのである。ホントにそんなコンクールがあったのだろうか。検索してみたら画像が出て来たから、確かにあったようだが詳細な情報は得られなかった。
(映画のバスガイドたち)
ところが飛行機から降りてくる時に、有村日奈子(牧紀子)が先に下りてきて、迎えのガイドたちが怒っている。後の歓迎会の場面で事情が判るが、本当は有村が代表で幸子が補欠だった。しかし、本番前にのどを痛めた有村が欠場し、代わりに出た幸子が優勝したのだった。彼女たちを指導したのが、ホテルから出向していた小宮信吉(吉田輝雄)だった。東京の大学を出た小宮のことを幸子と有村はともに慕っている。有村は歓迎会の夜に小宮に東京土産を渡そうとして拒まれる。牧紀子は五所監督「白い牙」で主演しているし、小津監督の遺作「秋刀魚の味」にも出ている。しかし、当時の松竹映画では二番手、三番手みたいな役が多い。
(左=岩下志麻、右=牧紀子)
小宮が勤務しているのは、明らかに宮崎観光ホテルがモデルだろう。1965年の連独テレビ小説「たまゆら」の原作を川端康成が書いたホテルである。もう全国的には忘れられているだろうが、宮崎観光ホテルなどが掘り当てた温泉は「たまゆら温泉」と称している。ホテルから出向してバスガイドを指導するというのは、実際にあるのかどうか判らないけれど、小宮はガイドたちの憧れの的である。ホテルに勤める津川雅彦が「不良」ホテルマンを演じている。岩下志麻は翌日午前に、青島の「鬼の洗濯板」で写真を撮っていた小宮を捜し当てて、姉と有村のどちらが好きなのかと問い詰める。
(青島の岩下志麻と吉田輝雄)
小宮は結局幸子と結ばれ、有村は会社を辞めてしまう。ところが妹の悠子も小宮に好意を持っていて、姉の結婚後は何か荒れてしまう。ダンスホール(ディスコ)に行って、津川雅彦に酒を飲まされ、ちょっと付き合うような関係になる。それを心配した小宮が出て来て、争いになる。そんな時に幸子が病に倒れ…。義兄をめぐる姉妹の心理戦のようになってしまう後半は、どうもドロドロした感じで、内容も宮崎をはなれてしまう。そんな時、悠子は会社から選ばれて国際観光ゼミナールに派遣される。東京各地を見学して、思わぬところで工場で働く有村にも再会する。宮崎では感じなかったが、東京では多くの働く女性の仲間がいると実感する。このゼミナールは東京五輪を直前にして、国際的に日本を紹介する観光ガイドを育成するというものらしい。
「フェニックス・ハネムーン」という曲がある。永六輔作詞、いずみたく作曲でデューク・エイセスが歌った「にほんのうた」シリーズの一曲である。今でも歌われるのは、京都を舞台にした「女ひとり」や草津温泉の「いい湯だな」ぐらいだと思うが、当時それらに並んでヒットしたのが宮崎を舞台にした「フェニックス・ハネムーン」だった。「君は 今日から 妻という名の 僕の恋人 夢を語ろう ハネムーン フェニックスの 木陰 宮崎の二人」という甘い歌詞で始まる。フェニックスが自然に生えているわけがない。これは宮崎交通の創業者、岩切章太郎(1893~1985)が営々として進めてきた観光促進策の一つである。宮崎から南へ、青島や堀切峠を望む道にズラッと植えて南国ムードを醸し出したのである。
(60年代の新婚旅行ブームの写真)
そのような宮崎側の準備あってのことではあるが、当時宮崎が新婚旅行のメッカと言われたのにはきっかけがあった。1960年に結婚した昭和天皇の5女、島津貴子夫妻が新婚旅行で訪れたのである。夫の島津久永は島津一族ではあるが、宮崎の砂土原藩主系統の次男だった。だから里帰り的な意味合いもあった。また1962年には当時の皇太子夫妻(現上皇、上皇后)が宮崎を訪れたことも大きかった。これら皇族の宮崎旅行が大きく報道され、宮崎ブームのきっかけを作ったのである。当時はまだ海外旅行が自由に出来ない時代で、また沖縄県の本土復帰(1972年)も実現していなかった。だからこそ宮崎が「南国リゾート」感を出せたのである。
日本人が海外へ観光で自由に行けるようになったのは1964年からである。それ以前は許可が必要で、事実上自由な観光は難しかった。さらに1966年からは「年に一回まで」という制限も撤廃された。それでも一回の旅行に持ち出し金額500ドル以内という制限は残っていた。だから、海外旅行は普通の人が自由に行けるというものではなかった。しかし、50年代前半は東京からなら新婚旅行に熱海や箱根、遠出しても京都や奈良という時代だったのだから、飛行機を使って宮崎まで行くというのは、日本人が豊かになったということを意味しているのである。
60年代の観光ブームは多くの映画に出ている。獅子文六原作「箱根山」の映画化(川島雄三監督、1962年)では、箱根開発をめぐる東急と西武の争いが描かれている。また瀬川昌治の列車シリーズや旅行シリーズでは60年代後半から70年代の日本各地の様子が映像に記録されている。「100万人の娘たち」も映画としての完成度以上に、観光社会学的な面白さを伝えている。僕も日本のあちこちに行ってるので、宮崎観光ホテルや青島など日南海岸は思い出の土地である。60年代の様子が出て来るかと期待したのだが、思ったよりも出て来なかったのは残念。瀬川監督のような観光エンタメ映画を作る意思が五所監督になかったのだろう。

映画アーカイブのチラシに「宮崎における観光業の発展に感銘を受けた松竹の大谷竹次郎会長の発案により始まった企画」と書かれている。五所監督と脚本家の久板栄二郎が各地を回ってシナリオを書いたという。冒頭でバスガイドの岩下志麻が堀切峠を案内している。一ノ瀬悠子という名だと後に判るが、彼女は時計を見て時間を気にしている。そこから宮崎空港に画面が移ると、何か大歓迎の準備が進んでいる。それは何と「全国バスガイドコンクール」で宮崎交通の代表が優勝したというのである。それが悠子の姉の一ノ瀬幸子(小畠絹子)だったのである。ホントにそんなコンクールがあったのだろうか。検索してみたら画像が出て来たから、確かにあったようだが詳細な情報は得られなかった。

ところが飛行機から降りてくる時に、有村日奈子(牧紀子)が先に下りてきて、迎えのガイドたちが怒っている。後の歓迎会の場面で事情が判るが、本当は有村が代表で幸子が補欠だった。しかし、本番前にのどを痛めた有村が欠場し、代わりに出た幸子が優勝したのだった。彼女たちを指導したのが、ホテルから出向していた小宮信吉(吉田輝雄)だった。東京の大学を出た小宮のことを幸子と有村はともに慕っている。有村は歓迎会の夜に小宮に東京土産を渡そうとして拒まれる。牧紀子は五所監督「白い牙」で主演しているし、小津監督の遺作「秋刀魚の味」にも出ている。しかし、当時の松竹映画では二番手、三番手みたいな役が多い。

小宮が勤務しているのは、明らかに宮崎観光ホテルがモデルだろう。1965年の連独テレビ小説「たまゆら」の原作を川端康成が書いたホテルである。もう全国的には忘れられているだろうが、宮崎観光ホテルなどが掘り当てた温泉は「たまゆら温泉」と称している。ホテルから出向してバスガイドを指導するというのは、実際にあるのかどうか判らないけれど、小宮はガイドたちの憧れの的である。ホテルに勤める津川雅彦が「不良」ホテルマンを演じている。岩下志麻は翌日午前に、青島の「鬼の洗濯板」で写真を撮っていた小宮を捜し当てて、姉と有村のどちらが好きなのかと問い詰める。

小宮は結局幸子と結ばれ、有村は会社を辞めてしまう。ところが妹の悠子も小宮に好意を持っていて、姉の結婚後は何か荒れてしまう。ダンスホール(ディスコ)に行って、津川雅彦に酒を飲まされ、ちょっと付き合うような関係になる。それを心配した小宮が出て来て、争いになる。そんな時に幸子が病に倒れ…。義兄をめぐる姉妹の心理戦のようになってしまう後半は、どうもドロドロした感じで、内容も宮崎をはなれてしまう。そんな時、悠子は会社から選ばれて国際観光ゼミナールに派遣される。東京各地を見学して、思わぬところで工場で働く有村にも再会する。宮崎では感じなかったが、東京では多くの働く女性の仲間がいると実感する。このゼミナールは東京五輪を直前にして、国際的に日本を紹介する観光ガイドを育成するというものらしい。
「フェニックス・ハネムーン」という曲がある。永六輔作詞、いずみたく作曲でデューク・エイセスが歌った「にほんのうた」シリーズの一曲である。今でも歌われるのは、京都を舞台にした「女ひとり」や草津温泉の「いい湯だな」ぐらいだと思うが、当時それらに並んでヒットしたのが宮崎を舞台にした「フェニックス・ハネムーン」だった。「君は 今日から 妻という名の 僕の恋人 夢を語ろう ハネムーン フェニックスの 木陰 宮崎の二人」という甘い歌詞で始まる。フェニックスが自然に生えているわけがない。これは宮崎交通の創業者、岩切章太郎(1893~1985)が営々として進めてきた観光促進策の一つである。宮崎から南へ、青島や堀切峠を望む道にズラッと植えて南国ムードを醸し出したのである。

そのような宮崎側の準備あってのことではあるが、当時宮崎が新婚旅行のメッカと言われたのにはきっかけがあった。1960年に結婚した昭和天皇の5女、島津貴子夫妻が新婚旅行で訪れたのである。夫の島津久永は島津一族ではあるが、宮崎の砂土原藩主系統の次男だった。だから里帰り的な意味合いもあった。また1962年には当時の皇太子夫妻(現上皇、上皇后)が宮崎を訪れたことも大きかった。これら皇族の宮崎旅行が大きく報道され、宮崎ブームのきっかけを作ったのである。当時はまだ海外旅行が自由に出来ない時代で、また沖縄県の本土復帰(1972年)も実現していなかった。だからこそ宮崎が「南国リゾート」感を出せたのである。
日本人が海外へ観光で自由に行けるようになったのは1964年からである。それ以前は許可が必要で、事実上自由な観光は難しかった。さらに1966年からは「年に一回まで」という制限も撤廃された。それでも一回の旅行に持ち出し金額500ドル以内という制限は残っていた。だから、海外旅行は普通の人が自由に行けるというものではなかった。しかし、50年代前半は東京からなら新婚旅行に熱海や箱根、遠出しても京都や奈良という時代だったのだから、飛行機を使って宮崎まで行くというのは、日本人が豊かになったということを意味しているのである。
60年代の観光ブームは多くの映画に出ている。獅子文六原作「箱根山」の映画化(川島雄三監督、1962年)では、箱根開発をめぐる東急と西武の争いが描かれている。また瀬川昌治の列車シリーズや旅行シリーズでは60年代後半から70年代の日本各地の様子が映像に記録されている。「100万人の娘たち」も映画としての完成度以上に、観光社会学的な面白さを伝えている。僕も日本のあちこちに行ってるので、宮崎観光ホテルや青島など日南海岸は思い出の土地である。60年代の様子が出て来るかと期待したのだが、思ったよりも出て来なかったのは残念。瀬川監督のような観光エンタメ映画を作る意思が五所監督になかったのだろう。