2021年11月の訃報では瀬戸内寂聴を別に書いた。他にも重要な訃報が相次いだが、最初にまず落語家の三遊亭円丈と川柳川柳の二人を書いておきたい。落語にちょっとでも関心がある人だったら、この二人の訃報が同じ月に続いたことに深い因縁を感じたと思う。二人はともにかつて「昭和の名人」と称えられる6代目三遊亭圓生の弟子だった。そして1978年の圓生の落語協会脱退問題に巻き込まれることになった。僕はこの二人の高座を何度となく聴いていて、特に円丈師は年齢からもまだまだ聴けるものと思っていただけにとても残念な思いがする。2021年になって寄席に出てないなと思って心配していたが…。
(三遊亭円丈)
三遊亭円丈から先に書くが、11月30日に死去、76歳。1964年に圓生に入門し、1978年に真打に昇進して圓丈を襲名した。(ここでは本人がよく使っていた「円丈」と書く。)現在の新作落語の元祖というべき落語家で、現代落語に非常に大きな影響を与えている。もともと柳家金語楼の「兵隊落語」など新作落語はずっと存在してきたが、それらは大体「人情もの」だった。それに対し、円丈は不条理演劇のような奇想天外でSFのような設定を落語に持ち込んだのである。それは弟子の三遊亭白鳥、三遊亭天どん等だけでなく柳家喬太郎や協会を越えて春風亭昇太、桂文枝等に大きな影響を与えた。
まさに新作落語の「ラスボス」というか「ビッグボス」のような存在であって、「円丈ゲノム」という落語会が開かれるぐらいである。「渋谷ジァン・ジァン」で開かれていた円丈主催の「実験落語の会」というのが、そもそもの源流だという。小劇場ジァン・ジァンは渋谷の公園通り、山手教会の地下にあって何度も行ってる。中村伸郎の「授業」(イヨネスコ作)とか、エリック・サティの「ヴェクサシオン」全曲演奏など今も鮮烈だ。上の山手教会は先に書いた瀬戸内寂聴の追悼で書いた富士茂子さん支援集会が開かれた場所である。だけど実験落語の会には行こうと思わなかったのである。当時は関心がなかったんだなあ。
(著書「御乱心」を持つ円丈)
円丈は東京都足立区の東部にある六町(ろくちょう)、一ツ家(ひとつや)に長く住んでいた。僕も同じ足立区だが、東京の特別区は広いから一度も行ったことはない。むしろ東武線沿線に住む者からすれば、「陸の孤島」みたいな地域なのである。ところが2005年になって、「つくばエクスプレス」が開業するに伴って「六町駅」というのが出来た。そこから青井、北千住、南千住と乗れば、次は浅草駅になる。この浅草駅は東武や地下鉄銀座線の乗換駅ではなく浅草六区にあって、浅草演芸ホールの真下にある。これが円丈には嬉しいことで、浅草演芸ホールのマクラによく使われて、いつも大受けしていた。
東京東部は東京人の中で「差別」されていて、中でも足立区は一番下になる。同じ足立区でも、千住に住んでる人は、荒川北方に住んでる人を「川向こう」と「差別」する。そんな「川向こう」であっても、そこは「東京の一部」には間違いないから、「埼玉より上」ではないか。というような隠微な差別心理を背景にして「悲しみは埼玉に向けて」という新作の傑作が生まれた。もっとも地方では受けないし、東京でも新宿末廣亭向きではないが、上野鈴本や浅草演芸ホールならば必ず爆笑になる。確かに面白いんだけど、聞いたときの気持ちはかなり複雑だ。地方出身の妻は非常に驚いたという。しかし、僕は長く教員をしていたから、確かに東京各地に「学力差」があることを現実問題として知っているのである。
円丈最後の高座は2020年12月23日の国立演芸場の「悲しみは埼玉に向けて」だという。この日は「平成」時代には祝日だったわけで、毎年国立演芸場で円丈を中心に新作落語の会が開かれてきた。今年も白鳥、喬太郎、林家彦いち、柳家小ゑんで「年の瀬に新作を聴く会」として開かれる。もう発売初日にあっという間にネットで即売してしまう人気公演だが、僕は数年前に何とかチケットを確保して行ってみた。ところがそこでの円丈は非常に驚くべき混乱ぶりだった。はっきり言って落語になってなかった。そんなのを聴いたことがなかったが、本人もショックだったのだと思う。早くからホームページを持っていた落語家だが、謝罪の言葉が書かれていた。しかし、僕は何となく「加齢に伴う度忘れ」以上のものを感じて不吉な気がした。
それ以後も寄席には出ていたが、以前は円丈が出ているから見に行こうという気が起こったが、そこまでは思わなくなった。その後も何回か見ているが、タブレットやネタ帳を見ながらやっていた。それもアリだとは思うけど、寂しい気もした。新作の話ばかり書いたが、晩年の高座では古典を演じることも多かった。圓生に古典をしっかり仕込まれていて、二つ目時代に130以上覚えたという。昔のことは忘れないと言うけれど、自分で作った新作より古典が自然に出て来る年齢になったのか。古典落語の大ネタもやっていたと言うが、むしろ「強情灸」なんかに感心した。チャッカマンで灸を据えるところなんか爆笑である。趣味も多く、特に「狛犬研究家」として有名だった。また「純喫茶」探訪やパソコンゲームなどもホームページでずいぶん書いていた。
さて、そんな円丈の兄弟子だったのが、川柳川柳である。11月17日没、90歳。55年8月に圓生に入門したが、古典絶対主義の師匠に対して、新作や音楽で売れてしまってなかなか昇進出来なかった。同じく55年1月に入門した5代目圓楽は62年に真打に昇格したが、川柳(当時の名はさん生)は74年まで真打になれなかった。しかも、圓楽、圓丈らは師匠の「圓」の付く名を貰ったのに対し、さん生は師匠の後ろの方の「生」のまま真打になったのである。それは圓生の性格もあるようだが、さん生の方にも度重なる飲酒による失敗があった。特に有名なものに師匠宅前での「脱糞事件」というのまである。
(川柳川柳)
戦前の古今亭志ん生にも「トンデモエピソード」がいっぱいだが、戦後で一番トンデモだったのはこの人ではないか。そこで1978年に様々な理由あってのことだが、三遊亭圓生を中心に落語協会を脱退する事件が起きた。これはもともと古今亭志ん朝や立川談志なども参画予定の大反乱だったのだが、東京の寄席4つの「席亭会」が認めず、結局落語協会を脱退したのは圓生一門に止まった。圓丈は疑問を持ちながらも師匠に従って脱退し、1980年に圓生が急死した後に落語協会に復帰した。そのあたりのことを書いた「御乱心」という内幕ものは最近小学館文庫で復刊されて、ブログで紹介した。(「伝説の書、三遊亭円丈「御乱心」復刊!」)
さん生も師匠について行くつもりではあったが、実は脱退話を聞かされていなかった。そのことを酔った勢いで志ん朝に暴露してしまい、もめる原因となった。その結果師弟関係が破綻して、さん生は落語協会に残留することを決めた。破門され三遊亭を名乗ることも認められず、仮に柳家小さんの一門となって川柳川柳(かわやなぎ・せんりゅう)を名乗ることにしたのである。そういう過去を持ちながら、高座ではいつも大受けだった。ある意味、他の誰よりも受けていたと思う。何度も聞いているが、数年前までよく寄席に出ていた。同じ噺だから別にいいかと思っているうちに、気付いていれば寄席で見なくなっていた。
(著書「ガーコン落語一代」を持って」
その噺というのが「ガーコン」である。これは軍歌とジャズで綴る昭和音楽史のようなものだが、ガーコンというのは足踏み式脱穀機の音のこと。とにかく抱腹絶倒のネタで近年は他の人がやっても受けるという。これに甲子園出場校と入場曲を挙げていく「パフィーで甲子園」を演じることもあった。そしてトリを取る時などは、ソンブレロ姿に変わってギターを抱えて漫談を語る。それも見ているが、「爆笑王」というに相応しい大受けだった。二人とも寄席では大受けするので、席亭には有り難かっただろう。本当にちょっと前まで、毎月のようにどこかの寄席に出てたんだけど、亡くなってしまったんだなあと思うと悲しい。

三遊亭円丈から先に書くが、11月30日に死去、76歳。1964年に圓生に入門し、1978年に真打に昇進して圓丈を襲名した。(ここでは本人がよく使っていた「円丈」と書く。)現在の新作落語の元祖というべき落語家で、現代落語に非常に大きな影響を与えている。もともと柳家金語楼の「兵隊落語」など新作落語はずっと存在してきたが、それらは大体「人情もの」だった。それに対し、円丈は不条理演劇のような奇想天外でSFのような設定を落語に持ち込んだのである。それは弟子の三遊亭白鳥、三遊亭天どん等だけでなく柳家喬太郎や協会を越えて春風亭昇太、桂文枝等に大きな影響を与えた。
まさに新作落語の「ラスボス」というか「ビッグボス」のような存在であって、「円丈ゲノム」という落語会が開かれるぐらいである。「渋谷ジァン・ジァン」で開かれていた円丈主催の「実験落語の会」というのが、そもそもの源流だという。小劇場ジァン・ジァンは渋谷の公園通り、山手教会の地下にあって何度も行ってる。中村伸郎の「授業」(イヨネスコ作)とか、エリック・サティの「ヴェクサシオン」全曲演奏など今も鮮烈だ。上の山手教会は先に書いた瀬戸内寂聴の追悼で書いた富士茂子さん支援集会が開かれた場所である。だけど実験落語の会には行こうと思わなかったのである。当時は関心がなかったんだなあ。

円丈は東京都足立区の東部にある六町(ろくちょう)、一ツ家(ひとつや)に長く住んでいた。僕も同じ足立区だが、東京の特別区は広いから一度も行ったことはない。むしろ東武線沿線に住む者からすれば、「陸の孤島」みたいな地域なのである。ところが2005年になって、「つくばエクスプレス」が開業するに伴って「六町駅」というのが出来た。そこから青井、北千住、南千住と乗れば、次は浅草駅になる。この浅草駅は東武や地下鉄銀座線の乗換駅ではなく浅草六区にあって、浅草演芸ホールの真下にある。これが円丈には嬉しいことで、浅草演芸ホールのマクラによく使われて、いつも大受けしていた。
東京東部は東京人の中で「差別」されていて、中でも足立区は一番下になる。同じ足立区でも、千住に住んでる人は、荒川北方に住んでる人を「川向こう」と「差別」する。そんな「川向こう」であっても、そこは「東京の一部」には間違いないから、「埼玉より上」ではないか。というような隠微な差別心理を背景にして「悲しみは埼玉に向けて」という新作の傑作が生まれた。もっとも地方では受けないし、東京でも新宿末廣亭向きではないが、上野鈴本や浅草演芸ホールならば必ず爆笑になる。確かに面白いんだけど、聞いたときの気持ちはかなり複雑だ。地方出身の妻は非常に驚いたという。しかし、僕は長く教員をしていたから、確かに東京各地に「学力差」があることを現実問題として知っているのである。
円丈最後の高座は2020年12月23日の国立演芸場の「悲しみは埼玉に向けて」だという。この日は「平成」時代には祝日だったわけで、毎年国立演芸場で円丈を中心に新作落語の会が開かれてきた。今年も白鳥、喬太郎、林家彦いち、柳家小ゑんで「年の瀬に新作を聴く会」として開かれる。もう発売初日にあっという間にネットで即売してしまう人気公演だが、僕は数年前に何とかチケットを確保して行ってみた。ところがそこでの円丈は非常に驚くべき混乱ぶりだった。はっきり言って落語になってなかった。そんなのを聴いたことがなかったが、本人もショックだったのだと思う。早くからホームページを持っていた落語家だが、謝罪の言葉が書かれていた。しかし、僕は何となく「加齢に伴う度忘れ」以上のものを感じて不吉な気がした。
それ以後も寄席には出ていたが、以前は円丈が出ているから見に行こうという気が起こったが、そこまでは思わなくなった。その後も何回か見ているが、タブレットやネタ帳を見ながらやっていた。それもアリだとは思うけど、寂しい気もした。新作の話ばかり書いたが、晩年の高座では古典を演じることも多かった。圓生に古典をしっかり仕込まれていて、二つ目時代に130以上覚えたという。昔のことは忘れないと言うけれど、自分で作った新作より古典が自然に出て来る年齢になったのか。古典落語の大ネタもやっていたと言うが、むしろ「強情灸」なんかに感心した。チャッカマンで灸を据えるところなんか爆笑である。趣味も多く、特に「狛犬研究家」として有名だった。また「純喫茶」探訪やパソコンゲームなどもホームページでずいぶん書いていた。
さて、そんな円丈の兄弟子だったのが、川柳川柳である。11月17日没、90歳。55年8月に圓生に入門したが、古典絶対主義の師匠に対して、新作や音楽で売れてしまってなかなか昇進出来なかった。同じく55年1月に入門した5代目圓楽は62年に真打に昇格したが、川柳(当時の名はさん生)は74年まで真打になれなかった。しかも、圓楽、圓丈らは師匠の「圓」の付く名を貰ったのに対し、さん生は師匠の後ろの方の「生」のまま真打になったのである。それは圓生の性格もあるようだが、さん生の方にも度重なる飲酒による失敗があった。特に有名なものに師匠宅前での「脱糞事件」というのまである。

戦前の古今亭志ん生にも「トンデモエピソード」がいっぱいだが、戦後で一番トンデモだったのはこの人ではないか。そこで1978年に様々な理由あってのことだが、三遊亭圓生を中心に落語協会を脱退する事件が起きた。これはもともと古今亭志ん朝や立川談志なども参画予定の大反乱だったのだが、東京の寄席4つの「席亭会」が認めず、結局落語協会を脱退したのは圓生一門に止まった。圓丈は疑問を持ちながらも師匠に従って脱退し、1980年に圓生が急死した後に落語協会に復帰した。そのあたりのことを書いた「御乱心」という内幕ものは最近小学館文庫で復刊されて、ブログで紹介した。(「伝説の書、三遊亭円丈「御乱心」復刊!」)
さん生も師匠について行くつもりではあったが、実は脱退話を聞かされていなかった。そのことを酔った勢いで志ん朝に暴露してしまい、もめる原因となった。その結果師弟関係が破綻して、さん生は落語協会に残留することを決めた。破門され三遊亭を名乗ることも認められず、仮に柳家小さんの一門となって川柳川柳(かわやなぎ・せんりゅう)を名乗ることにしたのである。そういう過去を持ちながら、高座ではいつも大受けだった。ある意味、他の誰よりも受けていたと思う。何度も聞いているが、数年前までよく寄席に出ていた。同じ噺だから別にいいかと思っているうちに、気付いていれば寄席で見なくなっていた。

その噺というのが「ガーコン」である。これは軍歌とジャズで綴る昭和音楽史のようなものだが、ガーコンというのは足踏み式脱穀機の音のこと。とにかく抱腹絶倒のネタで近年は他の人がやっても受けるという。これに甲子園出場校と入場曲を挙げていく「パフィーで甲子園」を演じることもあった。そしてトリを取る時などは、ソンブレロ姿に変わってギターを抱えて漫談を語る。それも見ているが、「爆笑王」というに相応しい大受けだった。二人とも寄席では大受けするので、席亭には有り難かっただろう。本当にちょっと前まで、毎月のようにどこかの寄席に出てたんだけど、亡くなってしまったんだなあと思うと悲しい。