大韓民国の第11代、12代大統領、全斗煥(チョン・ドゥファン)が11月23日に死去、90歳。韓国大統領は選出方法に関わらず、一期ずつ数える。全斗煥は5人目の大統領だが、李承晩が3期、朴正熙が5期務めたのを数に入れ、全斗煥が11代になる。陸軍士官学校同期で、政治行動を共にした盧泰愚が先月死去したのに続き、韓国現代史の中心人物が亡くなったことになる。韓国大統領の死亡順を見れば、要するに「悪人ほど長生きをする」という鉄則が正しいように思われてくる。
全斗煥は韓国大統領として初めて正式に日本を訪問した人物だが、日本側のカウンターパートだったのは中曽根康弘である。1979年10月26日に衝撃的な朴正熙大統領暗殺事件が起きた。その後、12月12日に国軍保安司令官だった全斗煥が、戒厳司令官の鄭昇和を逮捕して軍内の実権を握る「粛軍クーデター」が起きた。それまで僕は全斗煥という人物を知らなかったが、この日から突如韓国の実権を握る人物となった。そして1980年5月17日に「非常戒厳令」を全国に拡大し、「ソウルの春」と呼ばれた民主化運動の弾圧に踏み切った。金大中らを逮捕し全羅道の光州で民衆の反発が強まると陸軍の特殊部隊を送り込んで弾圧した。僕は全斗煥と言えば、やはり光州事件を思い出すし、そういう人物を中曽根が国賓として呼んだのかと思ってしまう。
(全斗煥と中曽根)
もちろん、だからと言って全斗煥を狙ってビルマで爆弾テロを起こした北朝鮮の行為は批判しなければならない。87年には大韓航空機爆破事件も起きたが、これらは88年ソウル五輪の招致に成功した韓国に対し、北側の焦りがあったのだろう。87年の民主化運動で大統領直選になって盧泰愚が当選した。しかし、大統領退任後に親族の蓄財疑惑が発覚、隠遁生活を余儀なくされる。金泳三政権になると、「過去の清算」が進んで、過去の粛軍クーデターにさかのぼって「内乱罪」で裁かれることになった。96年に死刑判決が出るが、金大中大統領の特赦によって無期に減刑された。最後まで光州事件への「謝罪」はなかったと報道されている。
(囚人服姿の全斗煥(右)と盧泰愚)
僕が初めて韓国を訪れたのは、全斗煥がまさに大統領になろうとする1980年夏だった。ハンセン病回復者定着村のワークキャンプに参加したわけだが、その後に光州を訪れた思い出がある。なかなか外国人が行きにくかった時期だが、僕はソウルから夜行寝台列車で出掛けた。そんなのがあったのである。ハングルは読めるが、会話が上手に出来るわけではない。その上、事件の数ヶ月後だから、安易に聞いて回るわけにもいかない。早朝について中心部をウロウロしただけで、再び列車に乗って海岸部の麗水に移った。韓国で読んだ新聞には、数多くの経済団体などが「全斗煥将軍を大統領に推戴します」という広告を載せていた。その時は「統一主体国民会議」なるものが作られて、全斗煥を大統領に決めたのである。
南アフリカの「白人最後の大統領」だったフレデリック・ウィレム・デクラークが11月11日に死去、85歳。どうしても過去を抜きに語れない全斗煥と違って、デクラークはネルソン・マンデラとともに1993年ノーベル平和賞受賞した人物として記憶されている。前任のボタから後継に指名され、1989年に大統領に就任。その時点ではデクラークが「アパルトヘイトを廃止する大統領」になるとは思われていなかった。しかし、獄中のマンデラを呼び寄せて会談し、マンデラを信頼してアパルトヘイト廃止を表明する。全住民参加のマンデラ政権が出来ると、当初は副大統領として参加したが、96年には連立政権を離脱して辞任。97年には政界を引退した。その後も貧困など多くの問題を抱えつつ、南アはマンデラ、ムベキ、ズマ、ラマポーザと一応民主政権が続いている。
(デクラーク)
カンボジア王族で、カンボジア和平後に王党派政党を率いてフン・センと政権を争ったノロドム・ラナリットが11月28日に死去、77歳。1944年にシアヌーク国王の第二王子として誕生。長く続いたカンボジア内戦の後に、1991年のパリ和平会議後に最高国民評議会議長に就任した。1993年の実施された選挙では、王党派政党フンシンペック党を率いて、事前予想を覆す第一党になった。人民党のフン・センと二人首相となり、王政復古後は第一首相となった。しかし、1997年に両派の武力衝突が起き、フンシンペックが敗退して首相を解任された。その後は抵抗を続けたり、欠席裁判で有罪になったり、恩赦で帰国して政界復帰を目指したりするうち、次第に王党派は弱小化していった。フランスで死去。
(ノロドム・ラナリット)
アメリカのミュージカル界で活躍した作曲家、作詞家スティーヴン・ソンドハイムが11月26日に死去、91歳。「ウェストサイド物語」の作詞、「フォリーズ」「太平洋序曲」「スウィーニー・トッド」などの作詞・作曲をしている。トニー賞とグラミー賞を8回ずつ、アカデミー賞を1回受賞するなど、アメリカでは非常に有名で重要な人物とされている。ミュージカルに関して、ウィキペディアに長大な記述が載っているが、僕にはよく判らない。
(ソンドハイム)
・ネルソン・フレイレ、1日死去、77歳。ブラジルのピアニスト、モーツァルトやシューマンで知られた。アルゲリッチとの親交でも知られる。
・太田淑子、10月29日死去、89歳。「ジャングル大帝」「リボンの騎士」などの声優。テアトル・エコーでも活躍した。
・中原伸之、1日死去、86歳。元日銀審議委員。大胆な金融緩和を主張し、安倍元首相のブレーンと言われた。
・小川洋、2日死去、72歳。前福岡県知事。福田康夫内閣から菅直人内閣までの内閣広報官を務めた。
・川嶋辰彦、4日死去、81歳。学習院大学名誉教授。秋篠宮紀子妃の父。
・徳山諄一、8日死去、78歳。コンビでミステリーを書いた作家、岡嶋二人の一人。もう一人は井上夢人。
・長谷川和夫、13日死去、92歳。精神科医で認知症への理解を広げる活動を続けた。非常に多くの著書がある。本人も晩年に認知症を公表した。
・江上泰山、19日死去、85歳。元臨済宗相国寺派宗務総長。金閣寺炎上を僧侶として目撃した。
・元幕内豊ノ海、20日死去、56歳。巨漢で知られ、最高位は前頭筆頭。99年引退後は二子山部屋の親方として3年間勤めた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/03/b6/ace6a30da760dc508808336436574373_s.jpg)
全斗煥は韓国大統領として初めて正式に日本を訪問した人物だが、日本側のカウンターパートだったのは中曽根康弘である。1979年10月26日に衝撃的な朴正熙大統領暗殺事件が起きた。その後、12月12日に国軍保安司令官だった全斗煥が、戒厳司令官の鄭昇和を逮捕して軍内の実権を握る「粛軍クーデター」が起きた。それまで僕は全斗煥という人物を知らなかったが、この日から突如韓国の実権を握る人物となった。そして1980年5月17日に「非常戒厳令」を全国に拡大し、「ソウルの春」と呼ばれた民主化運動の弾圧に踏み切った。金大中らを逮捕し全羅道の光州で民衆の反発が強まると陸軍の特殊部隊を送り込んで弾圧した。僕は全斗煥と言えば、やはり光州事件を思い出すし、そういう人物を中曽根が国賓として呼んだのかと思ってしまう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/24/a8/e3de7910871b19ed55a62025cd73f844_s.jpg)
もちろん、だからと言って全斗煥を狙ってビルマで爆弾テロを起こした北朝鮮の行為は批判しなければならない。87年には大韓航空機爆破事件も起きたが、これらは88年ソウル五輪の招致に成功した韓国に対し、北側の焦りがあったのだろう。87年の民主化運動で大統領直選になって盧泰愚が当選した。しかし、大統領退任後に親族の蓄財疑惑が発覚、隠遁生活を余儀なくされる。金泳三政権になると、「過去の清算」が進んで、過去の粛軍クーデターにさかのぼって「内乱罪」で裁かれることになった。96年に死刑判決が出るが、金大中大統領の特赦によって無期に減刑された。最後まで光州事件への「謝罪」はなかったと報道されている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/7a/c6/dcc638a70053321316595a072f95eda4_s.jpg)
僕が初めて韓国を訪れたのは、全斗煥がまさに大統領になろうとする1980年夏だった。ハンセン病回復者定着村のワークキャンプに参加したわけだが、その後に光州を訪れた思い出がある。なかなか外国人が行きにくかった時期だが、僕はソウルから夜行寝台列車で出掛けた。そんなのがあったのである。ハングルは読めるが、会話が上手に出来るわけではない。その上、事件の数ヶ月後だから、安易に聞いて回るわけにもいかない。早朝について中心部をウロウロしただけで、再び列車に乗って海岸部の麗水に移った。韓国で読んだ新聞には、数多くの経済団体などが「全斗煥将軍を大統領に推戴します」という広告を載せていた。その時は「統一主体国民会議」なるものが作られて、全斗煥を大統領に決めたのである。
南アフリカの「白人最後の大統領」だったフレデリック・ウィレム・デクラークが11月11日に死去、85歳。どうしても過去を抜きに語れない全斗煥と違って、デクラークはネルソン・マンデラとともに1993年ノーベル平和賞受賞した人物として記憶されている。前任のボタから後継に指名され、1989年に大統領に就任。その時点ではデクラークが「アパルトヘイトを廃止する大統領」になるとは思われていなかった。しかし、獄中のマンデラを呼び寄せて会談し、マンデラを信頼してアパルトヘイト廃止を表明する。全住民参加のマンデラ政権が出来ると、当初は副大統領として参加したが、96年には連立政権を離脱して辞任。97年には政界を引退した。その後も貧困など多くの問題を抱えつつ、南アはマンデラ、ムベキ、ズマ、ラマポーザと一応民主政権が続いている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/04/1a/0b82d4665bdb8c0a4bafb281c23687ba_s.jpg)
カンボジア王族で、カンボジア和平後に王党派政党を率いてフン・センと政権を争ったノロドム・ラナリットが11月28日に死去、77歳。1944年にシアヌーク国王の第二王子として誕生。長く続いたカンボジア内戦の後に、1991年のパリ和平会議後に最高国民評議会議長に就任した。1993年の実施された選挙では、王党派政党フンシンペック党を率いて、事前予想を覆す第一党になった。人民党のフン・センと二人首相となり、王政復古後は第一首相となった。しかし、1997年に両派の武力衝突が起き、フンシンペックが敗退して首相を解任された。その後は抵抗を続けたり、欠席裁判で有罪になったり、恩赦で帰国して政界復帰を目指したりするうち、次第に王党派は弱小化していった。フランスで死去。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/6e/5b/15e165c981d2b19f71fcc2d12aeb81c4_s.jpg)
アメリカのミュージカル界で活躍した作曲家、作詞家スティーヴン・ソンドハイムが11月26日に死去、91歳。「ウェストサイド物語」の作詞、「フォリーズ」「太平洋序曲」「スウィーニー・トッド」などの作詞・作曲をしている。トニー賞とグラミー賞を8回ずつ、アカデミー賞を1回受賞するなど、アメリカでは非常に有名で重要な人物とされている。ミュージカルに関して、ウィキペディアに長大な記述が載っているが、僕にはよく判らない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/40/fa/81acc655c504e2f4e48b0d1f69cf82fd_s.jpg)
・ネルソン・フレイレ、1日死去、77歳。ブラジルのピアニスト、モーツァルトやシューマンで知られた。アルゲリッチとの親交でも知られる。
・太田淑子、10月29日死去、89歳。「ジャングル大帝」「リボンの騎士」などの声優。テアトル・エコーでも活躍した。
・中原伸之、1日死去、86歳。元日銀審議委員。大胆な金融緩和を主張し、安倍元首相のブレーンと言われた。
・小川洋、2日死去、72歳。前福岡県知事。福田康夫内閣から菅直人内閣までの内閣広報官を務めた。
・川嶋辰彦、4日死去、81歳。学習院大学名誉教授。秋篠宮紀子妃の父。
・徳山諄一、8日死去、78歳。コンビでミステリーを書いた作家、岡嶋二人の一人。もう一人は井上夢人。
・長谷川和夫、13日死去、92歳。精神科医で認知症への理解を広げる活動を続けた。非常に多くの著書がある。本人も晩年に認知症を公表した。
・江上泰山、19日死去、85歳。元臨済宗相国寺派宗務総長。金閣寺炎上を僧侶として目撃した。
・元幕内豊ノ海、20日死去、56歳。巨漢で知られ、最高位は前頭筆頭。99年引退後は二子山部屋の親方として3年間勤めた。