尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

中村吉右衛門、ワダエミ、古葉竹識等ー2021年11月の訃報②

2021年12月09日 22時52分35秒 | 追悼
 日本人の訃報だけでも書くことが多いので、外国人は3回目に。歌舞伎俳優の中村吉右衛門(2代目)が11月28日に死去、77歳。僕は歌舞伎をほとんど見ていない。だから円丈の落語について演目を語るようには、吉右衛門の弁慶は、俊寛は、などと書くことが出来ない。それが残念なんだけど、初代を追悼する「秀山祭」を2006年からやっているのは知っていて、一度は見ておきたいと思っていた。兄の白鸚より先に逝くとは思っていなかったのである。1944年に5代目市川染五郎(後の8代目松本幸四郎、初代白鸚)の次男に生まれた。母は初代中村吉右衛門の娘で、結婚するときに男児を二人以上産んで、一人は吉右衛門を継がせると約束したのである。そのため兄と違って中村吉右衛門(播磨屋)を継ぐ運命のもとに育つことになったのである。
(中村吉右衛門)
 しかし、父や兄とともに、松竹を離れて東宝に移った時期もあった。1961年から74年である。当時は中村萬之助を名乗っていて、兄の染五郎と「さぶ」(山本周五郎原作)を演じて大人気だったという。その時代は知らないが、その後は主に歌舞伎を中心に活躍した。他ではテレビの「鬼平犯科帳」で鬼平を演じたことが有名。多くの人はそれで記憶しているだろう。映画では「鬼平」劇場版を除けば脇役が多いが、篠田正浩監督「心中天網島」で紙屋治兵衛を演じて見事な演技を見せている。また香川県の「こんぴら歌舞伎」の復興に力を注いだことも重要で、その成功が各地に波及していった。テレビの文化番組のナレーター、美術展などの音声ガイドなどもかなりやっていたので、多くの人がどこかで接していたと思う。3月28日に倒れて、舞台を降板。一時復帰が伝えられたが、結局叶わなかったので、病状はかなり深刻なのかと想像はしていた。全く残念なことだ。
 (弁慶)(鬼平)
 衣装デザイナーのワダエミが11月13日に死去、84歳。本名は和田恵美子だが、「ワダエミ」と表記していた。夫はNHKの演出家だった和田勉で、夫の外部公演の舞台衣装を担当するうちに舞台や映画の衣装を数多く手掛けるようになった。1985年に黒澤明監督の「」を担当し、アカデミー賞衣装デザイン賞を受賞した。これはシェークスピア「リア王」を日本の戦国時代に移したものだが、確かに衣装は重要な役割を果たしていた。それをきっかけに、イギリスのピーター・グリーナウェイや中国のチャン・イーモウなどの作品を手掛けた。日本映画では勅使河原宏監督「利休」や大島渚監督「御法度」などがある。
(ワダエミ)(黒澤明「乱」)
 広島東洋カープ監督として1975年の初優勝に導いた古葉竹識(こば・たけし)が11月12日死去、85歳。現役時代は俊足の内野手(主に遊撃)として1958年から広島で活躍、二度の盗塁王に輝いた。1963年には打率3割3分9厘で、わずか2厘差で長嶋に及ばず首位打者を逃した。しかし、他の年は打率もそれほど高くなく生涯打率は2割5分ほどだが、生涯出塁率が3割を超えている。1970年に野村監督に請われて南海に移籍、翌71年に引退した。その後南海のコーチをしていたが、74年に広島のコーチに就任。75年に外国人監督ジョー・ルーツが突然辞任した後を継いで、5月に監督に就任した。
(古葉竹識)
 広島は各球団の中で唯一優勝経験がなく、「お荷物」扱いされていたが、この年に初めて優勝した。優勝決定は後楽園球場の巨人戦で、僕は大学の友人と授業後に見に行ったけど、もちろん入れず外から熱狂的な応援を聞いていた。ドームじゃない時代である。山本浩二衣笠祥雄のカープ黄金時代だった。79、80、84年にも優勝し、日本シリーズも制覇した。85年まで務めて退任、86年から3年間大洋の監督をした。2003年の広島市長選、2004年の参院選比例区に自民党から出馬したが、いずれも落選した。それはともかく、野球史に残る名監督で、野球殿堂入りしている。
(75年の初優勝、胴上げされる古葉監督)
 「神田川」の作詞家、喜多條忠(きたじょう・まこと)が11月22日死去、74歳。かぐや姫の「マキシーのために」が初の作詞で、その後かぐや姫のために「神田川」「赤ちょうちん」「」とヒット曲を書いた。「神田川」は自身の体験が基だと言うが、「四畳半フォーク」などと言われながら大ヒットした。この時代の曲は大体口ずさめるわけだが、僕は「マキシーのために」が一番好きだった。他にはキャンディーズの「暑中お見舞い申し上げます」もあるが、意外なことに石川さゆりや五木ひろしの演歌が多い。2017年に伍代夏子の「肱川あらし」で日本作詞家大賞受賞。
(喜多條忠)
 朝日新聞論説主幹だった松山幸雄が10月30日に死去、91歳。ワシントン特派員、ニューヨーク支局長、アメリカ総局長を歴任し、83年から91年にかけて論説主幹を務めた。国際派ジャーナリストとして当時は非常に有名で影響力もあった。「『勉縮』のすすめ」など多くの本が評判になったが、長生きして忘れられてしまった感がある。吉野作造賞、石橋湛山賞などを受賞している。
(松山幸雄)
 元ラグビー日本代表監督、早稲田大学名誉教授の日比野弘が11月14日死去、86歳。早稲田大学ラグビー部で活躍した。1970年に早大監督に就任して大学選手権、日本選手権で優勝した。76年、82~84年、87~88年に日本代表監督を務め、83年の海外遠征でウェールズ戦で接戦を演じた。今でも語り草と言われる試合だという。世界との差が大きかった時代の噺である。 
(日比野弘)
 占術家(新聞にそう出ている)の細木数子が11月8日に死去、83歳。「六星占術」が80年代にブームとなり、テレビにも多数出演して「視聴率の女王」と呼ばれた。
(細木数子)
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