尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「トレイシー」やアーレント-4月の読書日記①

2014年04月10日 21時41分32秒 | 〃 (さまざまな本)
 4月の本の話は書きたいことがたまったので、2回以上に分けて書きたい。それぞれ独立記事にしたい気もあったけど、知識的、エネルギー的にそこまで書けない気がするので、「読書日記」にまとめることにする。

 ミステリーがまだ残っているけど、3月下旬から新書に移り、それは少し先月分に書いた。また「物語 ウクライナの歴史」(中公新書)に関しては、ウクライナ史を書いた時のネタ本で使った。全く知らない人ばかり出てくる本なので、けっこう読むのは大変。
 その後、中田整一「トレイシー 日本兵捕虜秘密尋問所」(講談社文庫)を読んだ。2010年に単行本が刊行され話題になり、2012年7月に文庫化された。講談社ノンフィクション賞受賞作だけど、すぐ読まないでいるうちに時間がたってしまった。内容は副題そのもので、カリフォルニアにあった捕虜の秘密尋問所を発掘したものである。問題は「盗聴」していたことで、ずっと秘密にされてきた。日本兵は「生きて虜囚の辱めを受けず」ということで、「捕虜になる訓練」を受けてなかった。だから、いったん捕虜になれば(爆撃、砲撃で意識不明になっていれば、捕虜にならずに自決するのは不可能である)、かえって尋問に素直に応じるということになりやすい。一番最初に「宮城」(皇居)の地図が載っているけど、これほど詳しく米軍は判っていたのである。硫黄島や日独潜水艦秘話など貴重なエピソードも豊富な書。全体に、大戦中ここまで米軍はやっていたのかという驚きの書で、今もなおアメリカ認識のため、読んでおくべき本だろう。

 3月の中公新書で、矢野久美子「ハンナ・アーレント」が出た。ちょっと驚くことだが(だと思うんだけど)、これが新書で初のアーレントをまとめて紹介した本である。アーレントに関しては、去年マルガレーテ・フォン・トロッタの映画「ハンナ・アーレント」が岩波ホールで公開されて大評判になった。初めて知ったなどという人も多かったようで、なんだか「勇気あるリベラル」のように受け取られている気がして、不思議な気がした。アーレントは短い代表作がなく長大な本ばかりなので、僕も読んだことがない。でも、アーレントは生前は、むしろ保守的な学者だと思われていたので、哲学や政治学専門でなければ、まあいいかという感じだったのではないか。(ちなみに代表作の一つ、「人間の条件」は保守派の志水速雄が訳していた。)アーレントは、ナチスとスターリン体制を二つの代表的「全体主義」として考察したが、そもそもそれが「同じ扱いでいいのか」と思われていた。もちろん当時だってスターリン主義を認めていたわけではないが、「極右のファシズム」と「左の独裁」を同じ分析でいいのか、というわけである。また革命批判やリトルロック事件(白人しか受け入れてなかった高校に、連邦最高裁が黒人生徒を受け入れることを認め、白人生徒の親が抗議運動を繰り広げた事件)を批判したことなども、「保守派」というイメージを作っていた。

 当時はハイデガーとの大量の往復書簡集も公刊されておらず、映画にも出てきたハイデガーとの「運命的」な「愛」(「存在と時間」をまとめつつある35歳の妻子ある哲学教師と、まだ何者でもない18歳のユダヤ人女子学生の「不倫関係」)というドラマもほとんど知られていなかった。アーレントはその後、ハイデルベルグに移ってカール・ヤスパースに師事する。ヤスパースへの敬愛と深い師弟関係は1969年のヤスパースの死まで続いた。ナチス時代の対応で対照的だった、この20世紀の代表的なドイツ人哲学者に、アーレントはともに深くかかわったのである。他にもナチスから逃れフランスで出国を待つ時には、ベンヤミンと行をともにし、ベンヤミンの悲劇的な自殺の時期を知っていたなど、不思議なほど20世紀思想史の重大局面を身を持って生き抜いた人だったのである。そういった全体像がだんだん明らかになり、ソ連も崩壊し、21世紀になって、ようやくアーレントが言っていたことが理解されてきたというべきではないか。アイヒマン論争で、ユダヤ人の友人をほとんど失うが、その強靭な生き方が、これからの日本で、あるいは他のどの国でも必要になるのかもしれない。とりあえず、まずは紹介の意味でこの新書を読むべき。
 ゾルゲ事件に関して書くと長くなるので、いったんここで終わって、次に。今読んでるのは、王丹「中華人民共和国史十五講」(ちくま学芸文庫)で、かの王丹が台湾で学生に講義した人民共和国のすさまじい歴史で、600頁以上あって、2000円もする、とても文庫とは言えない大部の本。それはまた。
 
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三越と三井本館-日本橋散歩①

2014年04月07日 23時27分43秒 | 東京関東散歩
 暖かくなってきて、ようやく街を散歩する気持ちが戻ってきたので、まず最近話題が多い日本橋近辺を。今年は第一次世界大戦から100年という年だけど、宝塚歌劇100年というのもあった。東京では三越デパートの「ライオン像」設置100年なんだそうだ。第一次大戦を機に、日本の大衆文化が成熟していったことがよく判る。このライオン像は本店本館1階の入り口に、狛犬のごとく左右に2頭が置いてある。しかし、日時限定で、今は他の入り口などにもある。この間、三越は店舗閉鎖を進めてきて、東京でも新宿、池袋店などがなくなった。全国の支店にも置いてあったライオン像がいっぱい要らなくなって、それを保管してあるんだそうである。黄金のライオン像(レプリカに金箔を塗ったもの)や、チョコレートのライオン像まで作った。入り口の2頭も花でお飾りしている。
   
 去年撮影した時は下の写真のような感じだった。このライオン像は、100年前の支配人、日比翁助という人が欧米を視察したときにイギリスで注文したもので、「ロンドンのトラファルガー広場にあるネルソン記念塔の下の4頭の獅子像」がモデルだという。ライオン像が出てくる物語として、北村薫の直木賞受賞作「鷺と雪」があるが、戦前から東京名物みたいな扱いだったのだろう。最後の写真は、裏の方から見た全景。
   
 さて、「三越百貨店」の本店を「日本橋本店」と呼んでいるが、地下鉄の最寄駅は「三越前」である。1927年(昭和2年)に東京初(というか「東洋初」)の地下鉄が浅草-上野間で開通し、以後少しづつ延伸して1932年に「三越前」という駅が作られた。資金難の地下鉄に対し三越が全額負担して作った駅である。以後、この駅名が定着すると、僕なんかは大きくなるまで「三越前にあるから三越デパートと言うんだ」などと転倒した認識をしていたものである。そもそもは江戸時代に三井高利が開いた「越後屋」、三井の越後屋だから「三越」とは、歴史を勉強してから納得したわけである。江戸時代に描かれた「熙代勝覧」というボストン美術館収蔵の大絵巻の複製が地下鉄通路に展示してある。これを見ると、越後屋の繁盛ぶりが印象的である。「現銀掛け値なし」と旗に書いてあるそうだけど、拡大してもよく判らない。日本橋の絵の写真とともに。(写真をクリックすると拡大されます。) 
  
 三越本店は東京都選定の歴史的建造物の指定第一号になっている。近くにある高島屋本店は重要文化財指定でもっと上だけど、これらのデパートは近代日本の発展を今目で見られるような立派な建造物だと思う。戦後に出来た駅直結のデパートにはない趣がある。屋上も何もない広場みたいな感じだけど、漱石の記念碑とか三圍神社(みめぐりじんじゃ)などがある。近くのビルの上だけ見えるから、ちょっと違った感じの風景がある。中央ホールや階段も面白い。階段はよく見ると大理石の中にアンモナイトなどの化石が見つかるという。
   
 さて、日本橋と言っても広いけど、この三越周辺は三井財閥の本拠地だったところである。三菱は東京駅前の丸の内が拠点だが、「三井本館」はここにあった。戦前の三井合名本社があったところで、団琢磨暗殺事件も起きた。三越の隣の風格あるビルがそれで、今は三井住友信託銀行が入っている。三井本館の真裏が日銀本店だが、どちらも重要文化財指定で、歴史的なムードの漂う東京有数の写真スポットになっている。
   
 さらにその隣に「日本橋タワービル」が出来ている。三井は本館建築を残して、そこに三井記念美術館を作った。三井家の持つ美術品を展示することが多い。建物が面白いので、中に入らなくてもエレベーターで登れる8階まで行ってみる価値がある。大体まずエレベーターに圧倒される。トイレも豪華な大理石作りで、ちょっとビックリ。もちろん館内の展示は写真が撮れないけど、そういったところを写真に撮ってみた。エレベーター、カフェ、トイレ。
   
 この日本橋タワーも面白い。入ると超高級果物屋として有名な「千疋屋総本店」が入っている。2階には千疋屋パーラーもある。高いけど、フルーツポンチやケーキに飲み物付けて1500円ぐらいだから、行って行けないことはない。でも一階のフルーツ店の方は、絶対買えないようなすごいフルーツを並べてる。ジュエリーだと思った方がいいかもしれない。天井を見ると、なかなか見事なデザイン。
  
 さて、最近三井タワーの真向いにコレド室町という大型商業施設が出来た。地下鉄三越前駅から直結、そこにTOHOシネマズ日本橋というシネコンも入って、日本橋唯一の映画館である。(昔、三越名画座というのがあった時代もあるが。)3つもある巨大な施設で、日本橋という場所が改めて注目されているわけである。日本橋そのものや日銀は次回に。
  
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2014年3月の訃報

2014年04月07日 01時26分07秒 | 追悼
 2014年3月の訃報のまとめ。フランスの映画監督アラン・レネだけ追悼の記事を書いたけど、他にも映画や演劇関係の訃報が多く聞かれた。まずはそのあたりから。
 蟹江敬三(3.30没、69歳)が亡くなり、大体「あまちゃん」に触れられている。好感をもたれるテレビの脇役になっていたのか。また、60年代には蜷川幸雄の演出した清水邦夫の劇で活躍したという話も大体出ている。それらの劇はさすがに中高生の時代なので見ていない。では何でこの人の名前を知ったのかと言えば、それは「日活ロマンポルノ」なのである。新聞の訃報では書いてないけど、そういう人は多いのではないか。悪役というか野獣のような役ばかりだったと思うけど、一度見たらもう名前を忘れられなくなる演技だった。今探してみると何を見たのかどうもはっきりしないのだけど、蟹江敬三という名前は以後忘れることはなく、だんだん一般的にも知られるようになって行ったわけである。

 さて蟹江敬三が出ていた現代人劇場、櫻社は劇作家清水邦夫の上演を行っていたわけだが、その清水邦夫の夫人で女優の松本典子(3.26日没、78歳)も亡くなった。俳優座養成所を出て劇団民藝に入団とあるから、そういうこともあったのである。その後、清水邦夫と木冬社を結成した。その時期は勤め始めて一番多忙な時期だから、全然見ていない。僕が知ってるのは、「狂熱の季節」とか「地の群れ」などの映画での存在感ある脇役。前者は蔵原惟繕監督の作品で昨年見直して記事を書いた。後者は最近見直したのだが、井上光晴原作、熊井啓監督の重苦しいATG作品で、民藝が協力てて大挙して出演しているが、松本典子も医者の妻役で印象的。あまり見た人ではないけど、ちょっときつい感じの存在感が印象的である。

 さて清水邦夫作品を演出していた蜷川幸雄は、その後大劇場の商業演劇に転じて大評判になった。それらの「近松心中物語」とか「往生メディア」などの舞台美術を担当していたのが、朝倉摂(3.27没、91歳)である。昨年秋に修復公開された朝倉彫塑館の主である彫刻家・朝倉文夫の長女で、谷中の彫塑館の屋敷で育ったということだ。初めは伊東深水門下の日本画家だったと訃報に出てるけど、60年代以後は舞台美術で知られて、文化功労者にも選ばれた。北千住に丸井が出来て、その上の方に「シアター1010」が出来た時に、劇場監督だったのが僕には一番の思い出。特に寺島しのぶが出たオニールの「楡の木陰の欲望」を見に行って、上の方の席だったこともあり、舞台セットの素晴らしさというか、もうそれでひとつの世界を形成してるを、演技は遠くてよく見えなかったけど、美術ばかり感心して戻ってきたことがある。彫塑館も行ってたし、名前は前から知ってたけど、一体この人は何歳なんだろうと不思議に思い、もしかして朝倉文夫の孫だったっけと確認したら、やはり娘に間違いなく、もう80歳を過ぎているのを確認して、なんてすごい人なんだろうとビックリしたものである。

 俳優では宇津井健(3.14没、82歳)が亡くなった。俳優座養成所で仲代達矢と同期だったというが、新東宝に入社して二枚目役をやっていた。新東宝は変な映画が多くて、いろいろやっていて、今見ると面白かったりする。当時大ヒットした「明治天皇と日露大戦争」では広瀬中佐役と出てる。その後大映を経て、テレビ中心になり、いまやテレビ俳優として知ってる人ばかりだろう。「ザ・ガードマン」とか「赤い疑惑」とかであるが、まあ影のある役柄ではないので、僕はあまり見てない。
 最後は新派の俳優だった安井昌二(3.3没、85歳)も亡くなった。最後まで1955年の「ビルマの竪琴」の水島上等兵ばかり言われてしまう。まあ、それだけ印象的だったのも間違いないが。その後は水谷八重子(初代)の相手役で新派に招かれ、ずっと新派で活躍した。そのことは知ってたけど、この人も全然見ていない。夫人が小田切みき(黒澤の「生きる」で志村喬の相手役だったあの人)で、子どもが一時子役で有名だった四方晴美である。

 歌手では安西マリア(3.15没、60歳)が亡くなり「涙の太陽」を久しぶりにテレビで聞いた。「ハイ・ファイ・セット」の、ということはそれ以前は「赤い鳥」のということだが、山本俊彦(3.28没、67歳)の訃報が伝えられた。「フィーリング」など忘れられない。また、劇作家の藤田傳(3.16没、81歳)の訃報もあった。能の人間国宝、金春惣右衛門(こんぱる・そうえもん、3.11没、89歳)という人の訃報もあった。
 外国では中国の映画監督、呉天明(3.4没、75歳)の訃報が小さく載っていた。「古井戸」という映画で第一回東京国際映画祭グランプリを取った。西安撮影所長として、いわゆる第五世代に映画を撮らせた功績が大きいが、「變臉 この櫂に手をそえて」という映画など忘れがたい映画を監督した人でもある。

 紙面上の扱いで一番大きかった訃報は大西巨人(3.12没、97歳)だったけど、あの巨大な「神聖喜劇」もだいぶ前に買ってあるけど読んでないし、どうもこの人も全然読んでないので書くことが判らない。ミステリー作品なんかも書いてるけど、それも読んでない。作家では芥川賞を「モッキングバードのいる町」で取った森禮子(もり。れいこ、3.28没、85歳)の訃報が小さく出ていた。
 ハンセン病療養所で句作を続けた俳人、村越化石(3.8没、91歳)の訃報があった。ハンセン病資料館に行くと、北条民雄、明石海人と並んで大きく展示してあるから、前から名前は知っている。俳人協会賞、蛇笏賞、紫綬褒章を受けた。全盲で俳句を作った「魂の俳人」で、草津温泉の栗生楽泉園にいた。代表句として新聞には「除夜の湯に 肌ふれあへり 生くるべし」が挙げられている。

 イラストレーター、作家の安西水丸(3.17没、71歳)は確か「ガロ」に書いていたマンガを読んだ気もするが、印象としては村上春樹と組んだ「村上朝日堂」なんかのイラストかなあと思う。帽子デザイナーの平田暁夫(3.16没、89歳)の訃報が大きく出ていて、名前を知らないだけでなく、そんな職業もあるのかという感じだったので驚いた。三宅一生や川久保玲なんかのショーで使う帽子もデザインしてたという。今の皇后の帽子もこの人だとか。女優の有馬稲子のブログに追悼文が載っていて、「観賞用男性」という映画で使った帽子はこの人のデザインだと出てた。14歳で銀座の帽子店に奉公に出て、30代後半でフランスに渡って高級婦人帽子の技を磨いたと出てる。そういう第一人者いたわけである。
 彫刻家の多田美波(ただ・みなみ、3.20没、89歳)は、屋外の立体作品をガラスやステンレスなどで作った作品で知られる。照明デザインなんかもやった、一種の空間デザイン作家というべき人で、舐めを知らない人が多いと思うけど、前に白洲正子の現代の名工みたいな本に出ていて、感心した記憶がある。

 参議院議員だった藤巻幸夫(3.15没、54歳)があっという間に突然死んでしまった。医先端のカリスマバイヤーで知られ、福助の社長に転じ、セブン&アイ生活デザイン研究所なんてのにいた。朝日新聞の土曜版にでてた「フジマキに聞け」という連載が結構面白かったけど、まさか「みんなの党」から選挙に出るとは思わなかった。落選したけど、その後衆院選に維新で出る人が辞任して繰り上げ当選、去年の暮れには「結いの党」に移った。兄の藤巻健史に至っては、維新から参院選に出たので、兄弟議員だったわけだが、そんな人だったのかと驚いた。こんなに早く死ぬとはだれも思ってなかっただろうけど。
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ウクライナとクリミアのゆくえ-ウクライナ問題⑤

2014年04月06日 00時46分43秒 |  〃  (国際問題)
 ウクライナ問題も思った以上に長くなってしまったので、最後にこれからのゆくえを考えて終わりにしたい。今回はクリミア半島に謎の武装勢力(これはロシア軍以外に考えられない)が出現し、その威圧下で「住民投票」が行われた。だから「外国勢力の武力を背景にした領土の変更は認められない」ということになる。これは国連総会の決議である。ロシアの行為を認めてしまえば、論理のレベルで考えれば、「中国軍が尖閣諸島を制圧してもよい」となる可能性もあるから、日本としては認めがたい。中国でも「アメリカの武力を背景にして、台湾が住民投票で独立を決議してもよい」となるのは絶対に認められないので、やはりロシアを表立って擁護するわけには行かない。

 そうであるけれど、ではロシアがいったん矛を収める可能性はない。「と考えられる」などとあいまいに書いておく必要もないぐらい、それははっきりしている。例えば、ロシアがクリミア統合を解消して、国連監視下で住民投票を行うことで合意するといった譲歩はない。仮にそういうことをしても、住民投票の結果は「ロシアへの統合に賛成」が大多数を占めることははっきりしている。クリミアにはロシア系住民が過半数以上いるし、少数民族政策を誤りさえしなければ、ロシアに帰属する方が様々な面で有利なのは事実だろう。ロシアからすれば「もう終わった話」であり、グルジアのアブハジア、南オセチアへの武力展開、事実上のロシア領化に対しても、いつの間にか世界は忘れてるように、「そのうち世界は忘れる」と思っているのだと思う。

 ロシアは資源大国で、本格的に経済制裁をすることができない。ウクライナのエネルギーは、ロシアの天然ガスに依存している。ロシアはウクライナに対し、ガスの値上げを通告している。ウクライナ経済は現時点ではロシアと密接に結びついている。EUが全面的にバックアップすることはできないだろう。EU外のウクライナに多額の援助をするぐらいなら、加盟国のギリシャなどは我々こそもっと支援してくれということになる。EU内でもドイツを始め、ロシアの天然ガスへの依存は大きいので、「象徴的な制裁」以上はできないと考えられる。

 中国の天安門事件後に、欧米諸国を中心に「制裁」が発動されたが、いつの間にかウヤムヤになって行った。アメリカのイラク戦争の時だって、フランス、ドイツなどはアメリカを痛烈に批判したわけだが、結局米英はイラクに侵攻し、フセイン政権は倒壊した。そうなってしまえば、世界は戦争による「イラク民主化」を前提にして、その先を議論していくことしかできない。ロシアによる今回の行動は、まあ「米中よりはマシ」なので、世界はいつの間にかクリミア併合をウヤムヤのうちに消極的に承認せざるを得ないだろう

 今後重要なのはウクライナの新政権がどう成立するかである。親ロシア政権ができる可能性はないだろうが、新政権の基盤が確立されるかどうか。政権基盤が強ければ、新政権がクリミアに関して、「住民の意思を尊重する」=「ロシア併合を承認する」という理由で妥協して、その代わりに「残りのウクライナ」の領土保障、ガスの提供の保障、EUとの交渉などをロシアが認めるということになるのではないか。

 ロシア軍がウクライナに本格的に介入する事態は、常識的には起こらないと考えてよい。それはロシアにとっても、国際的な非難を浴びるという問題を置いておいても、「ウクライナの緩衝国家としての価値」をなくしてしまうことになるので、望ましくない。ウクライナを東西に分割して、東部をロシアに併合したりすれば、西部ウクライナがEUどころかNATO(北大西洋条約機構)に加盟することも止められないだろう。そうすると、ロシアがNATOと国境を接してしまうことになる。それは困るはずである。しかし、逆に考えれば、ロシアはウクライナのEU加盟も認めがたいと考えておいた方がいい。こういう観測を裏切る事態があるとすれば、ウクライナの新政権が混乱して、親西欧派、親ロシア派の間を縫って、極右勢力が政権を握ったりした場合で、その時はロシア軍のウクライナ侵攻が絶対にないとは言えない。

 結局、「歴史的に形成されたウクライナの東西対立」がすべてのカギを握っているのである。だから、ちょっと長くなったけどウクライナの歴史を振り返っておいたわけである。ところで、ではクリミア半島の帰属は、そもそもどのように考えればよいのだろうか。前回見たように、クリミア半島は1954年にウクライナに編入されたわけで、歴史的にウクライナに帰属してきた地域だったとは言えない。移管当時はソ連時代だから、どこに帰属していようが関係なかったのである。ソ連海軍の黒海艦隊はクリミアのセバストポリにあったし、ウクライナにもソ連の核兵器が配備されていた。ソ連崩壊、ウクライナ独立のあとで、ソ連はクリミアのロシア復帰を求めたが、ウクライナは拒否し、結局クリミアを自治共和国とし、ロシア艦隊の基地はウクライナが存続を認めることで妥協した。今回クリミア問題が突然起こったのではなく、そういう経緯があったのである。まあロシアからすれば、「仲よく付き合っていた時のプレゼント」であって、「破談になったんだから返して欲しい」と内心ではずっと思っていたんだと思う。

 クリミア半島には「クリミア・タタール人」と呼ばれる少数民族がいる。ロシアに征服される以前のクリミア汗国時代のムスリム系の民族である。「クリミア半島は誰のものか」という問いを立てれば、「クリミア・タタール人のもの」という答えが一番正しいのかもしれないが、独ソ戦の時期にドイツ側に付くのではないかと恐れたスターリンにより「全民族の中央アジアへの強制移住」が行われた。これはボルガ川下流域に居住していた「ボルガ・ドイツ人」などにも行われた。20世紀半ばに起こったとはとても考えれない恐るべき事態である。1960年代になって帰還が認められたが、この過酷な体験で人口も減ってしまい、クリミア半島では1割程度の人口しかいない。だから、クリミア・タタールによる自治国にすべきだといった考えは現実性がない。そのクリミア汗国を滅ぼしてロシアに併合したのは18世紀末のことで、以後もウクライナに帰属したことはないし、ウクライナ人はタタール人よりは多いというが、ロシア系住民が過半数であるのは間違いない。

 ところで、今回の事態で「G8体制」は完全に崩壊した。というか、もっとはっきり言えば、もともと「そんなものはなかった」のだろう。「先進国首脳会議」は1975年にフランスの呼びかけで始まった。その時は米英独日が招かれたのだが、イタリアが強硬に参加を求め、その後カナダも加えて「G7」として続いて行った。(Gはグループの略。)90年代に入って、冷戦崩壊後にロシアを政治討議に招いて、後に正式メンバーにして「G8」となったが、ロシア経済は「先進国」とは言えないので、「主要国首脳会議」と名乗りを変えたのである。(一方、財務相・中央銀行総裁会議は「G7」で行われている。)当時としては、ロシア以外は「ロシアを入れてあげる」ことで冷戦終結をアピールでき、ロシアの方も「入れてもらう」ことで新体制をアピールできたわけである。でもロシア経済が復活していき、また中国が世界経済に不可欠の重要国になっていくと、ロシアは「G20」や「BRICS」(ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ)の方を大事にするようになった。去年のアメリカでのサミットにプーチンは参加せず、メドヴェージェフ首相を送っている。

 昨年来、ロシアはアメリカの個人情報取集を暴露したスノーデンの亡命を認めたり、同性愛者宣伝禁止法制定など、欧米との摩擦を恐れない政策を取ってきた。だから、欧米首脳はソチ五輪開会式にもほとんど参加しなかった。中国や日本、トルコなどは首脳が参加したが、欧米の主要首脳は参加しなかったわけで、そういう「失礼な国」に配慮する必要はもはや感じてないのではないか。「中国が参加しない会議で世界経済を論じても意味があるのか」とそこまであからさまに開き直っているわけではないが、まあそういうことだと思うし、それは僕もその通りではないかと思う。でも、プーチンのやり方は、後々「そこから世界はふたたび実力行使の時代に戻った」と言われかねないのではないか。どうも、プーチンの中に感じられる「冷笑」のようなリーダー性が気になってしまうのである。
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ウクライナとは何か③-ウクライナ問題④

2014年04月03日 23時29分59秒 |  〃  (国際問題)
 ウクライナの歴史を簡単にまとめようと思ったけど、けっこう細かくなって2回目。「ウクライナとは何か②」から引き続き。
 15世紀から16世紀の頃、「コサック」という武装農業共同体(とその成員)ができた。日本でもちょうど戦国時代に当たる戦乱の時代である。もともとはポーランド内の下級地主や町人などが多いらしいが、スラヴ系以外からコサックになるものもいたという。冒険とロマンを求めたのである。彼らはただ暴力をふるうわけではなく(というか実際は私利私欲も多かっただろうが)、タテマエとしては「正教とウクライナとコサックの自治を守る」ということになっていた。イスラムとの戦いに役立つということで、やがてコサックは公認されていき、16世紀後半にはポーランド王国の下で自治権を認められた。(ポーランドはリトアニアと連合王国を結成していたが、事実上はポーランドによる併合みたいなものだったので、ただポーランドを書く。)

 コサックはウクライナだけではなく、もっと東のドン川下流域にも「ドン・コサック」と呼ばれた集団があった。こちらはロシアに所属し、有名なステンカ・ラージンの反乱などを起こしたが、鎮圧されてロシアの武力となった。北カフカスを征服する戦争では、コサックが活躍しトルストイの小説に描かれている。ノーベル賞作家ショーロホフの超大作「静かなるドン」が描いたのは、ロシア革命とコサック社会の変貌である。

 さてウクライナでは、コサックは平等の原則を持っていて、「ラーダ」(会議)と呼ばれる集まりで方針を決めた。コサックの首領を「ヘトマン」といい、ラーダで選ばれた。17世紀半ばに、ヘトマンのフメリニツキーを中心にした反乱がおきる。彼はもともとは穏健な指導者だったというが、ポーランド貴族と土地紛争が起きて、領地が襲われ子どもが殺されたりしたが、ポーランドの制度は全く役に立たなかった。あげくに本人も逮捕され、辛くも脱走に成功した彼は1648年にポーランドに対する反乱を決意したのである。その戦いの結果、経緯は多少あったが、ポーランド王は「ヘトマン国家」(コサック国家)を認めることになる。現在のウクライナ領土のほぼ東半分程度の領地に、コサックの自治が認められた。これは事実上「ウクライナ独立戦争」であり、カトリックのポーランドからの正教の独立とも言える。だからフメリニツキーは「第二のモーゼ」などと呼ばれたという。

 しかし、当時のコサックは自分たちだけで国家を維持できる実力はなかった。そのため、当初は敵のはずのクリミア・タタール汗国と同盟したが、結局はスラヴ系で正教のロシア帝国の保護を受けることになった。1654年に結ばれたペレヤスラフ協定である。ところが、1656年にロシアは突然ポーランドと和平してしまうのである。(北方のスウェーデンに対する共闘の意味があった。)以後、コサックはロシアと戦うが力及ばず、ウクライナ中央を流れるドニエプル川を境に、東はロシア、西はポーランドの保護下に置かれる。1689年に最終的にウクライナは分割され、「コサック」という制度は残るが、だんだん権利を奪われていく。コサックの反乱も起きるが、ピョートル大帝、エカチェリーナ2世などの強力な権力に追いつめられ、ウクライナ東部はロシアに併合され、1781年にはコサックの自治制度も廃止されるのである。

 このようにウクライナは数世紀にわたってポーランドの支配下にあったわけだが、そのポーランドが18世紀になると衰退の一途をたどるのである。そこでロシア、オーストリア(ハプスブルク帝国)、プロイセンによる「ポーランド分割」が行われる。1772年から1795年のことで、当時のヨーロッパではフランス革命という超重要事件が起きていた。ポーランドという国はここでなくなってしまう。その時、ウクライナの大部分はロシア領とされたが、西端部のリヴィウなどの地方はオーストリア領となったのである。ポーランド分割は「ウクライナ分割」でもあったのである。これが重要なのは、前回触れた東方カトリック教会(ユニエイト教会)がある地域が、再びカトリックのオーストリア支配下に置かれたことである。この地域は第二次世界大戦終了後の1945年から1991年までの間を除き、ロシア(ソ連)の支配を受けたことがない。現在のウクライナにおける東西対立というものは、こうした歴史的経緯から生まれてきたのである。

 1783年にはロシア帝国はクリミア汗国を併合して、黒海周辺に勢力を伸ばす。19世紀半ばには、オスマン帝国とのクリミア戦争が起き、ロシアの勢力増大を嫌う仏英がオスマン側に付きロシアは敗れた。この結果に衝撃を受けたロシアは急激に近代化を進めるが、その中心地がウクライナだった。ウクライナ南東部では急激に工業化が進み、ロシア帝国内の最大の工業地帯となる。そのためロシア人労働者が多数流入して、今もロシア人が多くなっている理由である。一方、19世紀末になると新大陸への移住も盛んになる。現在アメリカ合衆国とカナダには250万のウクライナ系住民がいるという。こうした中でウクライナにも民族主義(ナショナリズム)の流れは及び、ロシアとは異なるウクライナ文化も生まれ始めるのである。

 第一次世界大戦後に、ロシアとオーストリアの2大帝国が滅亡し、ポーランド、チェコスロヴァキア、フィンランド、バルト三国などが皆独立したわけだから、ロシアとオーストリアに分割支配されていたウクライナはどうして独立できなかったのだろうか。いや、実は独立国家は成立したのである。二月革命で帝政が崩壊して臨時政府ができると、キエフでも「中央ラーダ(会議)」が成立する。(この「ラーダ」というのは、ロシア語の「ソヴィエト」だが、ウクライナではコサック以来の「ラーダ」に特別な歴史的意味がある。ソ連崩壊後のウクライナ国家も、この「中央ラーダ」の継承とされているそうだ。)十月革命のソヴィエト政権成立を、中央ラーダは認めず、ウクライナ人民共和国の独立を宣言する。ウクライナの農業、工業の重要性から、赤軍はウクライナ独立を認めず、キエフは赤軍に占領される。以後、ウクライナは様々な勢力が入り乱れ複雑な戦争が続くのである。ウクライナ人民共和国軍、ソヴィエト赤軍だけでなく、反革命の白軍、アナーキズムの農民反乱軍、フランスなど外国干渉軍である。今考えると、反ソヴィエトの立場で、白軍とウクライナ軍が共闘してもいい気がするが、ウクライナの独立を絶対に認めない超保守派の白軍と社会主義的なウクライナ軍は相いれなかった。一方、諸外国もウクライナ軍を社会主義的と見なして見殺しにした。オーストリア支配下の西ウクライナは、今度はポーランド支配にすることで列強は協調した。(一部はルーマニア、チェコスロヴァキア領にもなり、三分割された。)結局、ウクライナの独立はならなかった。赤軍が勝利し、ウクライナはソヴィエト連邦内の共和国、実体はモスクワのソ連共産党支配下に置かれたわけである。

 第二次世界大戦以前のソ連時代のウクライナは人類史的な悲劇の地である。カンボジアやルワンダと並ぶような。一時は高揚したウクライナ民族主義に融和的で、ウクライナ民族文化を奨励した時期もあったが、スターリン時代にはウクライナ民族主義の根絶が目指された。もともと穀倉地帯で、かつ工業地帯だから、ソ連としては分離を認めるわけはない。内戦時代には強烈な農産物徴発で、ウクライナでは飢餓が発生している。それ以上に1932~1933年の強制的農業集団化にともなう飢餓と混乱で、数百万から1千万が死亡したと言われる。共産党が敵視する「富農」階層が多かったウクライナでは、農業集団化がウクライナを敵視する「ジェノサイド政策」として意図的に進められたと現在のウクライナ政府は認定している。大粛清もウクライナから始まり、ウクライナのソ連体制(ロシア化)が進められたのである。

 第二次世界大戦以後を簡単に。1939年9月17日にソ連がポーランドに侵攻した。独ソ不可侵条約でドイツと密約したラインまで占領するためである。この結果、ポーランドから獲得した西ウクライナは、ウクライナ・ソヴィエト共和国に併合されたから、ここにウクライナの統一自体は達成されたことになる。ルーマニアから獲得した領土もウクライナ領とされた。しかし、独ソ戦が始まると、ウクライナは主戦場となり、一時はほぼドイツに占領された。ドイツによる「解放」に期待をかけた人々もいたが、ドイツも独立を認めなかった。ソ連軍が反撃を開始し、結局ウクライナを奪還したが、その過程でウクライナ人の5人に1人、数百万から1千万が亡くなったとされる。この恐るべき戦災にソ連も配慮せざるを得ず、ウクライナの民族文化は少しずつ認められるようになった。なお、戦後になっても領土は変更されず、ウクライナとベラルーシがポーランドから領土を獲得し、その分ポーランドはドイツから領土を獲得した。ポーランドが西へ移動させられたわけである。

 スターリン死亡の直後の1954年、フルシチョフにより、クリミア半島のウクライナ移管が実施された。最初の方を見て欲しいのだが、1654年に結ばれたペレヤスラフ協定というのものがある。ウクライナがロシアに保護を求めた協定である。その300年記念という名目だった。しかし、ソ連時代にウクライナかロシアかということは意味を持たず、これは象徴的な意味しかない。しかし、象徴的な措置を取って、コサック国家時代の(ウクライナからすれば苦い思い出でもある協定を)「ロシアとウクライナの友好の証」として記念するということの中に、ウクライナとロシアの微妙な関係を読み取ることができるのである。一応、クリミア移管まで長くなったけど、ウクライナの苦難の歴史を振り返ってみた。ほとんど知らないことばかりだったけど、強国にはさまれた厳しい歴史に驚くほかないというのが、書いてみての感想である。
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ウクライナとは何か②-ウクライナ問題③

2014年04月02日 23時31分59秒 |  〃  (国際問題)
 ウクライナの複雑な歴史を簡単にまとめておきたい。キーワードは「正教」と「コサック」だと僕は思う。ウクライナあるいはロシアというのは、ヨーロッパ世界の辺境にある。ローマ帝国の版図は地中海からガリア(フランス)、ブリタニア(イギリス)の方まで伸びていくが、東方のドナウ川以東にはなかなか勢力を伸ばせなかった。ウクライナのステップ平原には遊牧民が様々に行き来するが、やがてスラヴ系農民が定住して農村社会が成立する。そこに北欧ヴァイキング系の王朝が成立した(この王朝はだんだん現地化する)。それが「キエフ・ルーシ公国」で、9世紀末から13世紀まで続いた。「ルーシ」というのは、ロシアとかベラルーシの語源となるけど、本来はウクライナあたりが「ルーシ」だったのである。

 このキエフ・ルーシ公国がキリスト教を受け入れたのである。それが988年のことで、ヴォロディーミル聖公と呼ばれるようになる大公の時代である。ユダヤ教やイスラム教という選択肢もあったけど、結局コンスタンティノープルの東方正教を受け入れた。使節を送って検討したが、儀式が一番壮麗なのを見て感動したらしい。位置的にローマ教会を受け入れず、正教会を受けいれたということが歴史を決定した。後に長年にわたって争いが続く西隣のポーランドはカトリック国となるからである。カトリックと正教の境目が、西欧世界とロシア世界の分かれ目になるのである。ところで中国世界の辺境にあった日本(倭国)が正式に仏教を受け入れたのは、538年(または552年)とされる。450年も違うのである。そして今のロシア一帯はまだ大きな国家がない。

 この公国は一時はヨーロッパ世界で最大の領土を持つが、1240年に滅びる。モンゴル遠征である。こんなところまで来ているのである。中央アジアからロシア一帯はキプチャク汗国(チンギス=ハンの長男ジョチの系列)が支配した。ロシア史ではこの時代をよく「タタールのくびき」などと言うが、この時の混乱でキエフにあった正教の主教座が移動して、やがてモスクワに移る。キエフ公国の一地方に過ぎなかったモスクワ公国が力を伸ばしていき、やがてルーシの本拠がモスクワ公国に移ってしまった。モスクワ公国は16世紀にイヴァン雷帝が登場してシベリアに勢力を広げ、自らツァーリを名乗って専制国家として発展していく。

 キプチャク汗国の支配は納税さえすれば従来の支配は容認したので、この時代に正教の信仰が定着する。一方、キエフが衰退し西部に成立したハーリチ・ヴォルイニ公国が勢力を伸ばした。この公国が建設した首都が、今西部の中心地となっているリヴィウである。この公国がルーシの支配者と認められたが、1340年に後継がなくて滅亡し、以後3世紀ほど東ヨーロッパ各国の戦国時代が続くのである。僕たちはこの時代のことに詳しくないから、ポーランドやリトアニアなどと言ったら歴史の中で「弱国」だと思いやすい。でも、歴史上強かった時代もあるのである。14世紀には北方からリトアニア公国が勢力を伸ばし、今のベラルーシからウクライナ北西部まで支配する。一方、それ以外のウクライナはポーランド王国が支配する。この時代にリトアニア、ポーランド、モスクワ大公国に分かれたことが、民族、言語の上でベラルーシ、ウクライナ、ロシアに分かれた原因だという。(なお、1569年から1795年までポーランドとリトアニアは複合君主制を取り、ポーランド・リトアニア連合王国となっている。当時ヨーロッパで、オスマン帝国に次ぐ領土を持つ大国だった。)

 この時代はポーランド支配のもとで、様々な変化が起こっている。ポーランド王がユダヤ人を保護したので、ウクライナにユダヤ人が多数居住するようになった。またカトリックのポーランド支配の下で、正教とカトリックを合同させる試みもなされた。結局、正教の儀式を残しながらローマ教皇に服属する東方カトリック教会(ユニエイト)という教会が出来た。この教会はソ連時代に弾圧されたが、今も15%程度の信者がいて、ウクライナ西部の独自文化の象徴ともなっている。

 一方、東部ではモスクワ大公国が勢力を伸ばし、南部の黒海沿岸はオスマン帝国が支配するようになり、ウクライナは戦乱の巷となった。ウクライナの大地は、今も穀倉地帯で知られる肥沃な土地が多く、そのため「武装開墾集団」が南部一帯に入植し共同体を建設する。その人々が「コサック」で、砦を築き独自の風習を持ち、ソ連時代に反革命としてほぼ根絶されたけど、文化としては今もなお大きな影響を持っている。アメリカの西部入植とか、明治時代の北海道の墾田兵とか、そんな感じもするけど、鎌倉時代に権力を握った「東国武士」が一番近いかもしれない。15世紀以後に勢力を伸ばし、オスマン帝国との最前線で「キリスト教守護」を任じ、武力を誇示する。コサック・ダンスやコサック合唱団が今もなお人気があるように、歴史の中で独特の存在感を持っている。日本の時代劇で「サムライ」が今もなお独自の精神文化を持つ集団とされるようなもんだろう。やがて日本で武士政権が出来たように、ウクライナ史でも「コサック国家」が出来てくるのである。(長くなったのでいったんここまで。)
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ウクライナとは何か①-ウクライナ問題②

2014年04月02日 00時18分51秒 |  〃  (国際問題)
 「『プーチン大帝』の危険な賭け」を書いてから間が空いてしまったけど、ウクライナ問題を続ける。
 この間、27日に国連総会でロシアのクリミア併合を認めない決議が承認された。(国連総会決議には拘束力はない。)この決議には賛成100か国に対し、反対は11か国に留まるが、棄権58か国、欠席24か国と、棄権、欠席が異常に多い。カリブ海にセントビンセント・グレナディーンという小さな島国があるが、東京新聞(3.29日付朝刊)に以下のような棄権の理由が書かれている。「2008年にセルビアから独立を宣言したコソボを引き合いに、事態ごとに主張を代える欧米とロシアを暗に批判して棄権に回ったと説明。『当時、コソボを支持した国(欧米)がクリミアの独立は認めないといい、コソボの独立を認めなかった国(ロシア)が、コソボ独立を合法と認めた国際司法裁判所の判断を今回にも適用すべきだと主張する。悲しい逆説だ』と述べた。」これは、僕が前回書いたことと同じで、そういうことが言える小国もあるのである。

 さて3回にわたり、「ウクライナとは何か」を歴史的に考えてみたい。僕がウクライナという地名を知ったのは、多分小学生だか中学生だかの時に「国際連合の原加盟国」の中にウクライナ白ロシアという「国」を発見した時ではないかと思う。国際連合、つまり国連という組織は、第二次世界大戦終了後の1945年10月に正式に発足した。その時の加盟国は51か国だが、その中にウクライナ・ソビエト社会主義共和国と白ロシア・ソビエト社会主義共和国が入っていた。(なお、白ロシアはソ連解体後に独立してからはベラルーシと名乗っている。)もちろん、ソビエト社会主義共和国連邦という本体というか、連邦そのものも加盟しているのである。ソ連は安全保障理事会の常任理事国であるから、拒否権があった。国連総会での票が2票増えようと減ろうと影響はない。第一、連邦国家の中の一部が別個に加盟しているとは、何なんだろうか。アメリカ合衆国と別にカリフォルニア州が国連に加盟するとか、イギリス(連合王国)と別にスコットランドが加盟するなど、普通ありえないではないか。(もっとも世界サッカー連盟には、イギリスは4つの地域別に加盟しているけれど。)

 これは黒川祐次「物語 ウクライナの歴史」(中公新書)に経緯が書かれている。1945年2月のヤルタ会談(まさにクリミア半島で開かれた会談だが)で、スターリンがルーズヴェルト、チャーチルとの間で合意したことだとある。ウクライナとベラルーシは地図で見れば誰でも判るように、独ソ戦でもっとも甚大な被害を受けた国々である。ソ連としても、ウクライナの民族感情に対する配慮が必要だったのである。もっとも「国連の原加盟国」には象徴的な意味合いしかない。イギリスも英連邦加盟国に波及しても困るから賛成に回ったらしいが、アメリカとしても重大でない問題なので譲りやすかったのである。それにしても、ソ連国内の他の共和国、バルト三国や中央アジア諸国、グルジア、アルメニアなどは「配慮」の対象になっていない。それだけウクライナはソ連全体の中でも、絶対に配慮が必要な地域だったということだろう。

 ところで、僕は今まで次のようなことを知っていた。例えば、エイゼンシュテインの「戦艦ポチョムキン」という映画である。ソ連映画を代表する作品であり、モンタージュ理論を完成させた映画史上の傑作が革命ソ連で作られたという、いわば「伝説の映画」である。そこに有名な「オデッサ階段」というシーンがある。このオデッサは紛れもなくウクライナの港湾都市であり、第一次ロシア革命の戦艦ポチョムキンの反乱もウクライナ人水兵によるものだったという。でも、僕はソ連の社会主義革命の映画だと思い込んで、ウクライナの運命を背後に読むことはなかった。

 また「屋根の上のバイオリン弾き」である。アメリカで有名なミュージカルとなり映画化もされたこの作品は、帝政ロシア時代のユダヤ人迫害をのがれアメリカをめざす。この帝政ロシアのユダヤ人迫害は「ポグロム」と呼ばれ悪名高い事件である。これも実はウクライナの話であり、ウクライナはユダヤ人迫害が帝政ロシア内でも最も激しかった地域であるらしい。この物語の原作はショレム・アレイヘムの「牛乳屋テヴィエ」というイディッシュ語(東欧のユダヤ人の言語)の作家の代表作ということで、今は岩波文庫に収録されている。ここでも僕は、帝政ロシア=ソ連=ロシア連邦と思い込んで、今のロシアの物語だと思い込んでいた。(なお、ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺の最大の事件であるバービーヤールの虐殺は、ウクライナの首都キエフで1941年9月29日に起こっている。)

 あるいは、大正時代に日本に来て新宿中村屋にボルシチを教えたという「盲目の詩人エロシェンコ」という人がいる。中村屋サロンの一員だった画家中村彝(つね)の「エロシェンコ氏の像」は重要文化財に指定されている。この人はエスペランティストであり、童話を書き、メーデーに参加して国外追放となったが、もともとは視覚障害者が日本ではマッサージ師として自立していると聞き来日したのである。この人は、今まで社会運動や文学やエスペラントや障害者の歴史などで触れられてきたが、そもそもはウクライナ人だったのである。(モスクワの盲学校に学んだが。)

 このような例を挙げていくと、もっともっと「知られざるウクライナ」を挙げていくことができる。僕たちが「偉大なロシア文化」だとか「革命ソ連の文化」だとか思い込み、ソ連崩壊後はソ連を法的に継承したのはロシア連邦だったので(例えば国連安保理の常任理事国はロシアが継承した)、なんとなく自動的にロシアの文化だとか歴史だとか思い込んでいたものの中に、実は「ウクライナ」がいっぱい潜んでいたのではないか。いわば、「歴史の中のみえない国」、それがウクライナだったのである。中東におけるクルド民族のような存在、それがウクライナという民族だったのではないかと思う。

 最後に、ウクライナ文化に関わる芸術家を挙げておきたい。まず文学者だが、実はウクライナ人だったのが、ゴーゴリ(「鼻」「検察官」「死せる魂」など)、キエフ生まれのロシア人がブルガーコフ(「巨匠とマルガリータ」)、ウクライナのユダヤ人が先のショレム・アレイヘム、バーベリ(「騎兵隊」)、エレンブルグ(「雪どけ」)などソ連時代の巨匠がズラッと並ぶ。音楽家では、ロシア人だがウクライナ生まれのプロコフィエフ、ドイツ系のリヒテルなどの他、ウクライナのユダヤ人出身が、オイストラフ、ホロヴィッツ、ギレリス、アイザック・スターンなどなど。舞踊家のニジンスキーもポーランド系のウクライナ人だという。なお、ウィキペディアを見ると、ウクライナのスポーツ選手の一番上に「大鵬幸喜」とある。科学者を挙げても知らない人ばかりなのでやめるが、今の文学、音楽は知る人が見れば、驚くべき人名ばかりである。ロシアだと思っていた中に、実はウクライナが多いということなのである。
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4月の映画日記

2014年04月01日 21時08分43秒 | 映画 (新作日本映画)
4月1日(火)
 今年も4月を迎えた。去年、一昨年と「退職」の1年目、2年目というのを書いてきた。今年も書きたいこともあるけど、まあいつでもいい感じになってきた。3月の初めは結構寒かった。だけど、1か月後には桜も咲くだろうし、消費税も上がるしプロ野球も開幕することは判っていた。でもロシアがクリミアを併合するとか、鶴竜が横綱に昇進するとか、袴田巌さんが釈放されて4月を迎えるとかは予想していなかった。

 映画の話は書いたばかりなんだけど、紹介しておきたいと思って。映画サービスデーだから何を見ようかと思って、ロードショーもいいけど早稲田松竹でやってる「ゼロ・ダーク・サーティ」と「キャプテン・フィリップス」を見ようかと思っていたのである。でも長い映画だし、実を言えばあまり見たいわけでもなく、ビンラディンの暗殺作戦とかの情報を、アメリカ映画を通してみておいた方がいいかなという義務感みたいなものが大きかった。だから、どうも息が乗らなくなって、飯田橋のギンレイホールに行くことにした。ここは2本立て2週間上映で、いい映画をやってるけど、最近は行ってない。11日まで、「もうひとりの息子」「少女は自転車にのって」。

 「もうひとりの息子」は東京国際映画祭グランプリで、フランスの女性監督ロレーヌ・ラヴィという人が作った「子どもの取り違え」ものである。と言えば、昨年カンヌで受賞した是枝裕和作品「そして父になる」も同じなんだけど、この両作を比較して考えてちゃんと書きたいと思う。何しろ、イスラエルの国防省に務める男の長男と、パレスティナの封鎖された町ラマラの自動車修理工場の次男が取り違えられたという話である。一人はユダヤ人として、もう一人はパレスティナ人として育てられて、もう18歳である。というこの設定がすべての物語だけど、これは緊迫した佳作で見る価値がある。12~18に早稲田松竹でも上映がある。

 一方、これは拾い物だと思ったのが「少女は自転車にのって」で、サウジアラビアの女性監督の映画という貴重な作品。でも岩波ホールでやった時、岩波は世界を紹介する意味で、「良心作」だけど映画としては薄味ということがあるので、これは見なくていいやと思ってしまったのである。でも、ハイファ・アル=マンスールという1974年生まれの女性監督の手腕は確かなものがあった。思えば、サウジアラビアの女性の部屋とか女学校は、真に世界の秘境である。アマゾンやチベットはお金と健康があれば見に行けるが、サウジの女性の部屋は僕には絶対見ることができない。同国人の女性映画監督の作品以外では。自転車に乗るかどうかが問題という、日本では昭和の初めみたいな状況で、母親は夫を待ちわびるという「蜻蛉日記」みたいな世界。自転車に乗りたいと思う女の子は、学校の宗教コンクールに出場する。コーランの知識と朗唱を競うものである。少女は学校の「宗教クラブ」に入れてもらい、頑張りはじめる。賞金欲しさに。で、どうなるか。女性の目で見たサウジアラビアの現代は驚きの連続である。
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