尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

韓国の映画監督キム・ギドクの死ー2020年12月の訃報③

2021年01月10日 22時49分11秒 |  〃 (世界の映画監督)
 韓国の映画監督キム・ギドク(金 基德、김기덕)が12月11日にラトビアの首都リガで亡くなった。59歳。1960年12月20日生まれだから、60歳目前だった。死因は新型コロナウイルス感染症とされる。何で遠いリガで死んだかと言えば、ここ数年来性暴力など様々な批判が起きて、韓国では映画が撮れる状態になく、ラトビアに定住する予定だったらしい。
(キム・ギドク監督)
 キム・ギドクの訃報は非常に難しい問題を提起した。映画製作に際して、女優に対する暴力があったことは韓国での報道によれば否定できない。しかし、問題はキム・ギドク個人に止まらないと思う。彼の作品は世界各地の映画祭で様々な賞を受けてきた。特に「嘆きのピエタ」は2012年のヴェネツィア映画祭金獅子賞を獲得した。これは「韓国映画史上初の世界三大映画祭最高賞」である。(その後、2019年に「パラサイト 半地下の家族」がカンヌ映画祭最高賞を得た。)

 「個人的な問題はあるが、素晴らしい映画を作った監督」として評価すべきなのか。そもそもアートにおいて、作品と作者の関係を別個に評価出来るのか。そういう問題もあるけれど、その「嘆きのピエタ」という映画そのものが、僕には納得できなかった。主人公は天涯孤独に生きてきて、消費者金融の無慈悲な取り立て屋をしている。そこに「母」を名乗る老女が現れ、過去に捨てたことを謝罪するが、主人公は母と認めない。面白くなりそうな設定だとは思うが、暴力的描写が多くて付いていけない部分が多い。最終的に何が言いたいのかが僕にはよく判らない。
(「嘆きのピエタ」)
 2014年11月にシネマヴェーラ渋谷で「韓国映画の怪物ーキム・ギヨンとキム・ギドク」という特集上映が行われた。個別の新作公開はあったけれど、多分それ以後はまとまった特集はないと思う。今後もしばらくは行われないだろう。キム・ギドク映画とは何だったのか。それを客観的に検証出来るようになるには、かなりの時間が必要だと思う。キム・ギドクの映画はかなり見てきた。韓国映画(あるいは世界の映画祭で受賞したような映画)には関心があるが、最大の理由は多くの作品を上映した新宿武蔵野館の株主優待券を持っていたからだ。

 だから日本での初公開「悪い男」(2001、日本公開2004)も優待で見た。これは出来としてはそれなりだと思ったけれど、いくら何でも映画の設定はトンデモである。ヤクザが女子大生に一目惚れして、街中で強引にキスをする。軽蔑されながらも追い続け、「もの」にした後は彼女を売春宿に売り飛ばす。「悪い男」と言うんだからヤクザは「悪」なんだろうが、映画内では感情が判らない。「観客が見たくないものを描く」という映画もあるだろうが、この映画はそれを目指していたのだろうか。どうもそうでもなさそうだ。居心地の悪さを感じてしまう映画だった。

 2004年には秋に「春夏秋冬、そして春」(大鐘賞作品賞)が公開され、キネマ旬報で第9位に入った。(この年は「殺人の追憶」(2位)、「オアシス」(4位)、「オールド・ボーイ」(6位)と韓国映画がベストテンに4作品入選した。)2005年には「サマリア」(ベルリン映画祭監督賞)、2006年には「うつせみ」(ヴェネツィア映画祭監督賞)が日本公開された。この時期がキム・ギドクの映画に一番注目が集まった時期だと思う。しかし、女子高生の援助交際を描く「サマリア」、空き巣と主婦を描く「うつせみ」のどっちも、納得できる出来映えではなかった。「面白い題材」を扱いながらも、何か最終的に人の心を打つことがない。
(「サマリア」)
 キム・ギドクは高等教育を受けず、17歳から工場で働いた後に20歳になって海兵隊に志願した。5年間を軍隊で過ごし、軍生活に適応したと言われている。その後フランスに渡って、「羊たちの沈黙」「ポンヌフの恋人」などに刺激されて映画作家を目指して、低予算で「」(1996)を撮影した。このように映画界どころか、韓国社会の中でも独自の出自を持った監督である。彼の映画、あるいは実生活における「暴力」志向性は、生い立ちからも来ているだろう。また、軍体験や韓国社会に内在する文化そのものとも関連がある。だから、今すぐ客観的な考察は難しい。今後作品だけでなく、伝記的な事実も究明されてゆくのを待つしかない。

 ただし、彼も内心の苦悩を抱えていたのだとは思う。最初は「春夏秋冬、そして春」という田舎の寺に籠もる僧を描いた作品に、その事はうかがえると思った。僕はこの映画を初めて見たときは、美しい韓国の自然描写、厳しい修行などにかなり感動したものだ。その年の「オアシス」「殺人の追憶」には及ばないと思ったが、それでも苦悩する男の描写が心に残ったのである。しかし、シネマヴェーラ渋谷の特集で再見して、どうもこの映画も変な感じがした。最初に見た時は「悟り」を感じ取ったのだが、再見すると「偽善」に近いものを感じた。その後の作品を知っていることもあって、どうも今ひとつ心に響いてこなかった。
(「春夏秋冬、そして春」)
 その後の「」「絶対の愛」「悲夢」などは見たが、どれも感心しなかった。「悲夢」で自殺未遂シーンで実際に事故が起きかけて、3年間の隠遁生活を送る。その様子を記録映画「アリラン」(2011)を作って、カンヌ映画祭「ある視点」部門作品賞を受けたが、僕は見なかった。翌年に「嘆きのピエタ」を見たが、それ以後は無理に見なくていいと思っていた。作品完成度に問題があるか、一定の完成度があっても「不快感」が残る作品が多い。このブログでも書いてないと思う。「キム・ギドクのどこに問題があったのか」は非常に重大な論点を持っていると思う。具体的な事実関係はよく知らないので、ここでは触れなかった。しかし、彼の映画を見るだけでも、何か問題を抱えていることは判った。
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カルダン、ル・カレ、ヴォーゲル、有馬朗人ー2020年12月の訃報②

2021年01月09日 22時42分32秒 | 追悼
 2020年12月の訃報。免田栄さんを別に書いたが、芸能人以外の日本人の訃報と外国人をまとめて。(ただし、韓国の映画監督キム・ギドクだけ別に書きたい。)

 12月29日にフランスのデザイナー、ピエール・カルダン(Pierre Cardin)が98歳で亡くなった。2020年にドキュメンタリー映画が公開されたばかりだった。名前はファッションに関心が無い人でも知っていただろう。そういうデザイナーはもうほとんどいなくなった。1950年にディオールの店から独立し、「オートクチュール」(高級注文服)ではなく「プレタポルテ」(高級既製服)に進出してファッションを大衆化した。素材もビニールを使ったり、ユニセックスなスタイルを模索するなど時代を先駆けていた。服に止まらない多くの商品をブランド化したことでも知られる。たびたび来日し日本にも大きな影響を与えた。女優ジャンヌ・モローと同棲していたことがある。
(ピエール・カルダン)
 イギリスの作家、ジョン・ル・カレ(John le Carré)が12月12日に死去、89歳。死因はコロナじゃない肺炎だという。ル・カレという名前はペンネームで,本名はデイヴィッド・ジョン・ムア・ コーンウェルというイギリス人。外務省の情報機関で働いた後、スパイ小説を書き始めた。3作目の「寒い国から帰ってきたスパイ」(1963)が世界的に評判になった。代表作は「スマイリー三部作」だろう。それについては、以前「スマイリー三部作を読むージョン・ル・カレを読む①」(2012.6.7)を書いた。その次の10作目「リトル・ドラマー・ガール」まで読んでいるが、なかなか大変なので中断している。文庫はずっと持っているので、いずれ読んで続きを書きたい。
(ジョン・ル・カレ)
 アメリカの東アジア研究の第一人者、エズラ・ヴォーゲル(Ezra Feivel Vogel)が12月20日に死去、90歳。日本では1979年の著書「ジャパン・アズ・ナンバーワン」で知られた。だから日本を持ち上げた人のように思っている人もあるが、もともとは中国学者である。クリントン政権にも関わり、日中関係への発言も多い。ハーバード大学退職後にまとめた鄧小平伝(邦訳は「現代中国の父 鄧小平(上、下)」が代表作だろう。一冊も読んでないけど。高度成長期の日本を評価したのも、日本人の読書や新聞購読、「日本的経営」への高評価だったのも考えさせられる。
(エズラ・ヴォーゲル)
 フランスの第20代大統領(第五共和政では3人目)、ヴァレリー・ジスカールデスタン(Valéry Marie René Georges Giscard d'Estaing)が12月2日に死去、94歳。ポンビドゥー大統領の急死に伴う大統領選に当選し、1974年から1981年まで務めた。その時の対立候補は社会党のミッテランで、1981年には逆に敗北する。フランス政治の細かいことは省略するけれど、1975年にパリ近郊のランブイエ第1回サミット(先進国首脳会議)を開いたことで知られている。フランス以外は、アメリカ、イギリス、ドイツ、日本の5ヶ国だった。大統領経験者の最高齢を記録した。
(ジスカールデスタン)
チャック・イェーガー、7日没、97歳。世界で初めて音速の壁を破った米空軍パイロット。映画「ライトスタッフ」で描かれた。
イブリー・ギトリス、24日没、98歳。イスラエルで生まれた世界的バイオリニスト。親日家で知られ、東日本大震災後には避難所でもチャリティ・コンサートを開いた。
フー・ツォン、28日没、86歳。中国出身の世界的ピアニストで、ロンドンを拠点に活動した。上海生まれで、ポーランドに留学して1955年のショパン・コンクールで3位となった。両親が文化大革命で犠牲となって、中国に帰らなかった。アルゲリッチと親しく別府アルゲリッチ音楽祭に参加していた。新型コロナウイルス感染症で死去。
ロベール・オッセン、31日没、93歳。フランスの俳優、映画監督。

 日本では物理学者、俳人で、元文部大臣の有馬朗人が12月7日に死去、90歳。物理学者として原子核の時期的性質を説明する「有馬・堀江理論」として有名なんだそうだ。しかし、それより東大理学部長から東大総長を務め,その後中教審会長として「ゆとり教育」時代の答申をまとめた。その後、橋本龍太郎首相から参院選出馬を要請され、最後の拘束名簿式比例区の1位で当選した。参院選で与党は大敗し橋本首相は退陣し、後任の小渕内閣で文部相として入閣した。俳人としても著名で、俳人協会賞、蛇笏賞などを受賞している。東大の三四郎池に句碑があるという。
(有馬朗人)
 東京五輪女子バレーボール日本代表井戸川絹子が12月4日に死去、81歳。「東洋の魔女」のエースアタッカー。日紡貝塚に入社して大松博文監督の指導を受けた。旧姓「谷田」。
(井戸川絹子)
一峰大二(かずみね・だいじ)、11月27日死去、84歳。漫画家。特撮ヒーロー作品の漫画家を多く手掛けた。
池田龍雄、11月30日没、92歳。「ルポルタージュ絵画」で知られた。
花村えい子、3日死去、91歳。漫画家。貸本漫画からスタートし、少女漫画の草分けとなった。
石亀泰郎、11日没、80歳。写真家。子どもの写真で知られた。
渡文明、24日没、84歳。新日本石油元社長で、三菱石油と合併したENEOS発足を主導した。
羽田雄一郎、27日死去、53歳。立憲民主党所属の参議院議員。野田内閣で国土交通相を務めた。父は羽田孜元首相で、99年の参院補選で当選。保育士の資格を持っていることでも知られていた。急死して、死後に新型コロナウイルスに感染していたことが判明して、政界だけでなく広くショックを与えた。
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なかにし礼、小松政夫、一竜斎貞水ー2020年12月の訃報①

2021年01月08日 22時38分12秒 | 追悼
 2020年12月は前月と比べて著名人の訃報が内外ともに多かった。遅れて発表される訃報があるかもしれないが、そろそろ書いておきたい。12月は広義の「芸能界」の訃報が多かった。

 12月23日に、作詞家、作家のなかにし礼が死去。82歳。がん闘病を告白し多くの本も書いているが、死因は心筋梗塞だった。阿久悠などと並んで、戦後歌謡曲の代表的な作詞家だった。シャンソンの訳詞を書いていたが、たまたま石原裕次郎の知遇を得て、歌謡曲の作詞を始めた。60年代にもう多くの傑作がある。1965年の「知りたくないの」(菅原洋一)、1966年の「天使の誘惑」(黛ジュン、レコード大賞)、1969年の「恋の奴隷」(奥村チヨ)、「人形の家」(弘田美枝子)、「今日でお別れ」(菅原洋一、レコード大賞)、「港町ブルース」(森進一)などである。
(なかにし礼)
 その後も70年代に「手紙」(由紀さおり)、「グッドバイ・マイ・ラブ」(アン・ルイス)、「石狩挽歌」(北原ミレイ)、「時には娼婦のように」(黒沢年雄)など、80年代に「北酒場」(細川たかし、レコード大賞)、「まつり」(北島三郎)、「風の盆恋歌」(石川さゆり)などがある。60年代のシャンソン的、ポップス的な世界が次第に演歌が多くなっている。先に亡くなった筒美京平作曲のレコードは3枚持っていたが、なかにし礼作詞の曲は持っているのだろうか。調べたらキャンディーズの「哀愁のシンフォニー」と小柳ルミ子の「京のにわか雨」があった。そんな曲も買っていたのか。
(哀愁のシンフォニー)(京のにわか雨)
 これらの歌の世界には知らず知らずのうちに大きな影響を受けていたのかも知れない。上で挙げなかったが,一番好きなのはペドロ&カプリシャス別れの朝」だ。その後小説家になって、「長崎ぶらぶら節」(1999)で直木賞を受けた。他に特攻隊員だった兄との関係を書いた「兄弟」、満州からの引き上げ体験を書いた「赤い月」などが話題を呼んだ。近年はがんと闘病しながら、自身の体験をもとに反戦・平和の訴えを続けていた。明治大学に「阿久悠記念館」があるので、ぜひ出身の立教大学に「なかにし礼記念館」を作って欲しいと思う。

 今挙げたなかにし礼作詞の細川たかし「北酒場」の作曲家だった中村泰士(たいじ)が12月20日死去、81歳。「スター誕生!」の審査員だったから、僕も昔から名前を知っている。最高傑作は紛れもなく「喝采」(ちあきなおみ)だろう。1972年の紅白歌合戦で聞いたときの感動は忘れがたい。他にも桜田淳子わたしの青い鳥」、細川たかし心のこり」、松崎しげる黄色い麦わら帽子」などがある。多くの曲を書いているが,今ひとつ大ヒットが少ない印象だ。
(中村泰士)
 コメディアンの小松政夫が12月7日に死去、78歳。クレージーキャッツの付き人をしながら、次第に人気を得ていった経過は2018年に東京新聞夕刊に掲載された「この道」(聞き書きの自伝)に詳しい。その前年にNHKで植木等と小松との関わりを描くドラマが放送された。それらで僕は小松政夫という人を初めて知った気がした。小松政夫が伊東四朗と組んで「しらけ鳥音頭」「電線音頭」で大ブレークした頃は、ほとんどテレビを見なくなっていたのでよく知らなかったのである。本名は「松崎雅臣」だが、「しゃぼん玉ホリデー」に大男の松崎真が出ていて、「小さい方の松崎」で「小松」となった。忘れていたけど、ウィキペディアを見たら「麻雀放浪記2020」で「出目徳」を演じ、予告編で淀川長治のマネをしていた。それがおかしかったのを思い出した。
(小松政夫)
 人間国宝の講談師、一竜斎貞水が12月3日に死去、81歳。「立体講談」と呼ぶ照明や音響を使った怪談噺で知られた。僕も「牡丹灯籠」を聞いている。2002年に講談界初の人間国宝に認定された。僕は実はこの訃報に一番驚いた。それは正月の国立演芸場の公演に出場予定だったからである。行ったかどうかは判らないけど、まだ元気なんだなと思っていた。最近は神田伯山の人気がブレークしたが、神田派は「日本講談協会」、「一竜斎」の講談師は「講談協会」である。
(一竜斎貞水)
 落語家の林家こん平が死去、12月17日死去、77歳。「笑点」メンバーの人気者だったが、2004年以来多発性硬化症や糖尿病などの闘病のため降板し高座にも復帰できなかった。しかし、死因は誤嚥性肺炎だった。いつも「笑点」でネタにしていたように、新潟県千谷沢村(現・長岡市)に生まれ、1958年に初代林家三平に入門した。師匠が1980年に急死した後は、事実上の一番弟子(一番弟子の林家珍平は俳優に転業、昔の映画で時々見られる)として、一門をまとめる役目を果たした。「笑点」を引き継いだ林家たい平二代目林家三平は弟子に当たる。最初の呼びかけ「チャラーン」は有名だった。闘病後も都電荒川線を借り切って都電落語会などをやっていた。あれほど有名だった人も、テレビから消えて10数年たつと知名度がグッと落ちるもんだ。
(林家こん平) 
 「女剣劇」で活躍した浅香光代が12月13日に死去、92歳。1950年代に大人気だったというから、時代的には全然知るわけがない。浅草の最後の輝きを代表したスターだったのだろう。その後、映画やテレビドラマに出るようになり,晩年はテレビのバラエティ番組の出演で知られた。晩年まで浅草で大衆芸能発展に尽力していた。
(浅香光代)
横山アキラ、9日没、88歳、横山ホットブラザーズのリーダー。
西川右近、12日没、81歳。日本舞踊西川流総帥
小谷承靖(つぐのぶ)、13日没、84歳。映画監督。「ゴキブリ刑事」「はつ恋」「ホワイト・ラブ」「潮騒」など。草刈正雄が主演した「頑張れ!若大将」も小谷監督だった。
出口典雄、16日没、80歳。演出家。文学座、劇団四季を経て、「シェイクスピア・シアター」を旗揚げした。シェイクスピア前作上演が高く評価された。小田島雄志の翻訳を現代風に演出したことで大きな影響力を持った。佐野史郎や吉田剛太郎が所属していたが、僕は見ていない。
堅田喜三久(かただ・きさく)、17日没、85歳。歌舞伎長唄囃子の家元。人間国宝。
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映画「シカゴ7裁判」とベトナム反戦の時代

2021年01月07日 23時01分14秒 |  〃  (新作外国映画)
 「ザ・プロム」に続き、Netflixに権利を売られた映画「シカゴ7裁判」。これはアメリカ現代史で非常に有名な裁判を描いている。アメリカでの評判は高く、アカデミー賞作品賞ノミネートは確実だと言われている。「ソーシャル・ネットワーク」でアカデミー賞脚本賞を受賞したアーロン・ソーキンの脚本、監督。非常によく出来た考えさせられる映画だが,アメリカでは「史実と違う点が多い」という批判もあるという。(ウィキペディアによる。しかし、「史実離れ度」は日本映画「天外者」ほどじゃないだろう。)限定上映だが、どこかで見ておきたい映画。

 まず時代の解説を先に書くと、1968年のアメリカはベトナム戦争の激化で、本当に激動の年だった。この年は大統領選の年だが、現職のジョンソン大統領(民主党)は戦争激化の責任を取って再選出馬を断念した。4月にはキング牧師が暗殺され、6月には民主党の大統領選レースでトップを走っていたロバート・ケネディも暗殺された。その結果、民主党は現職のハンフリー副大統領の候補指名が確実になった。正式に決まる民主党大会は8月にシカゴで行われたが、当時のシカゴは民主党のデイリー市長(1955年から1976年まで在職)の独裁下にあった。

 当時の反戦運動家、学生運動家はベトナム反戦の声を民主党の現職副大統領に伝えなければとシカゴに集結した。デイリー市長が強硬な警備体制を敷くことが予想され、デモ隊側も挑発は避けようとしていた。しかし、結局警官隊とデモ隊の大規模な衝突が発生し、流血の惨劇が起こったのである。僕は当時中学生だったが、新聞やテレビのニュースを関心を持って見ていたから、衝突のニュースも覚えている。しかし、全く同時期にソ連軍(ワルシャワ条約軍)のチェコスロヴァキア侵攻事件が起こっていて、僕の主要な関心もそっちに向かっていた。

 流血の衝突の責任が誰にあったのか。大統領選の結果は共和党のニクソンが勝利した。映画の冒頭でニクソン政権の新司法長官ミッチェルが出てきて、「シカゴ暴動」の責任者を起訴しろと命じる。前任のクラーク司法長官はFBIの調査で、衝突の原因は警察の過剰警備にあったと報告を受けていた。その正式の報告を無視して、まさに「政治裁判」として「シカゴ7裁判」が行われたのである。ところで今回の映画を見て、当初は「シカゴ8」だったことに驚いた。
(被告と弁護士)
 裁判は当初、3つのグループの被告人たちが「共謀」して暴動を起こしたとして起訴された。学生運動家の「SDS」のトム・ヘイデンエディ・レッドメイン)ら、「青年国際党」(イッピー)のアビー・ホフマン(サッシャ・バロン・コーエン)、ジェリー・ルービン(ジェレミー・ストロング)、黒人の武装闘争を呼びかける「ブラック・パンサー党」のボビー・シール (ヤーヤ・アブドゥル=マティーン2世)である。思想的に全然違う3グループが「共謀」するとは、いくら何でも無理だろう。

 そして裁判長が偏見丸出しのムチャクチャな訴訟指揮をするのも驚きだ。まあ、日本の場合も同じような強権的訴訟指揮はよくあったけれど、ここまでではないと思う。特に徹底的に逆らうボビー・シールは目の仇にされる。しかし、ボビー・シールの弁護士は入院中で開廷延期を申し入れたのに裁判長は無視したのである。裁判長が最終的に強権を発動し、ボビー・シールは猿ぐつわと手錠をはめられる。映画はそのボビー・シールに多くの時間を使っている。結局検察側が分離を申し出る。もともと「衝突」にブラック・パンサーは関与してなくて、ボビーもシカゴには4時間しか滞在していなかったという。起訴自体が無理だった。
(裁判長)
 それ以後は7人の裁判になったので、「シカゴ・セブン」と言われて、アメリカ現代史の伝説となった。映画でもジョン・セイルズ監督「セコーカス・セブン」という映画などに使われている。クラーク前司法長官の証人喚問、トム・ヘイデンの演説テープ暴露、アビー・ホフマンの証言と裁判は進み、判決の日を迎える。最終陳述を行うヘイデンはどういう行動を取ったのか。裁判映画だから、それらの詳しいことは書かないけれど、見応えたっぷりだった。「60年代」の文化革命の時代相をここまで描き出した作品は久しぶりに見た感じがする。

 SDSは白人青年中心の社会主義的学生運動グループだったが、イッピーは「反体制」というより「カウンター・カルチャー」グループだった。法廷に裁判官しか着られない法服を着てきたり、裁判長にLSDを勧めたりした。裁判自体をパロディ化するようなやり方で、両派には対立もあった。ホフマンとルービンは裁判で有名になって作家となった。マジメなヘイデンは政治を通してしか世界を変えられないと主張し、実際後にカリフォルニア州で議員となっている。
(後年のトム・ヘイデン)
 映画の最後に主要な被告人の「その後」が出てくるが、そこに出て来ない司法長官のその後。起訴を命じたミッチェルは後にウォーターゲート事件に連座して有罪となった。司法長官経験者で拘束された初めての人物だった。前任のラムゼイ・クラークは93歳となった今も存命で活躍している。司法長官辞任後にどんどん「過激化」していって、ベトナム反戦運動に参加してハノイを訪問したりした。その後も誰も弁護しないような物議をかもす人物を弁護することで知られた。サダム・フセインとかミロシェビッチとか。
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ミュージカル映画「ザ・プロム」、アメリカの「分断」に橋は架かるか

2021年01月06日 22時37分22秒 |  〃  (新作外国映画)
 本の話が続いたので、今度は映画の話を。例年ならアメリカでアカデミー賞の前哨戦とされるゴールデングローブ賞のノミネートが発表される頃である。しかし、コロナ禍で今年は2ヶ月程度延期されるという話。アメリカでは映画館の再開が遅れて、映画館での上映を諦めて、Netflixに権利を売る映画が多くなっている。日本では配信に先駆けて,それらの作品が劇場上映されることがある。しかし、大手シネコンじゃないし、チラシもなかったりするから、上映自体に気付きにくい。前に書いた「マンク」に続き、今回の「ザ・プロム」もそんなNetflix作品だ。

 この作品は今どき珍しい「本格的ミュージカル映画」である。元々トニー賞候補のミュージカルだというが、画面いっぱいにメリル・ストリープニコール・キッドマンが歌って踊っている。セリフそのものが歌になったり、街頭(セットだが)に飛び出すミュージカルはなんだか懐かしい。しかし、この映画の本質はそこではない。「セクシャル・マイノリティ」をめぐって、アメリカの「分断」を風刺して、橋を架けるようなテーマこそ大切なのである。アメリカ理解のためには必見。

 ところで題名にある「プロム」って何だろう。何となく知ってる気がするんだけど、アレですよね。アメリカの青春映画、ドラマによく出てくる「卒業式の夜のパーティ」。学校の体育館かなんかを飾り付けて、ドレスアップして出掛ける。フットボール部のキャプテンが学園女王のチアリーダーかなんかとカップルになってる。その裏でモテない男子、女子諸君は誰も誘えず悶々としている。

 調べたら「プロム」でウィキペディアに載っていて、promenade(プロムナード、舞踏会)の略と出ている。PTAが関わることが多いとも出ている。何で学校でダンス・パーティをやるんだと思っていたが、むしろ勝手に放っといて「逸脱行動」が多くなるのを防ぐ目的もあるらしい。プロムが出てくる主な映画やドラマはウィキペディアのサイトに出ている。僕は10代終わりに見た「アメリカン・グラフィティ」(ジョージ・ルーカス監督)が忘れられない。

 さて映画の物語には「インディアナ州の高校」と「ブロードウェイの大スター」が絡んでいる。ブロードウェイでは「エレノア」(フランクリン・ルーズベルト大統領夫人)というミュージカルが開幕を迎えていた。テレビを前に大女優ディーディー・アレンメリル・ストリープ)や共演のバリージェームズ・コーデン)がこのミュージカルで世界を変えると豪語している。しかし、ニューヨーク・タイムズの劇評で「ナルシシスト」(自己愛、字幕ではナルシスト)と酷評され、ロングランの夢は潰えた。そこで売れずにバイトしているアンジーニコール・キッドマン)やトレントアンドリュー・ラネルズ)とともに知名度挽回のための「売名企画」を探すことになる。

 スマホを探して見つけたのが、インディアナ州の高校でPTAがプロムを中止したというニュース。理由はある女子生徒が同性どうしでプロムに参加したいと宣言したためだ。しかしプロムは男女ペアしか認めないという規則に則り、その願いは却下。一人だけ認めないのは差別になるから、全員中止という結論だという。このニュースを見つけて、4人はこの「遅れたインディアナ州」に乗り込んで「リベラルなアメリカの価値」を教えてやらなければと意気込む。「ニューヨークのリベラル」の押しつけがましさを、これでもかというぐらい誇張した演出が面白い。

 そこで彼らは高校の会合に乗り込んで行ったんだけど…。黒人校長はもっと寛大な心で受け入れられないかと模索しているが、やはり黒人女性の会長は聖書を盾に絶対に認められないと強硬。レズビアンをカミングアウトしたエマはプロムをつぶしたと孤立している。エマの相手は実は会長の娘で、家ではカミングアウトできないでいる。「忍ぶ恋」の苦しさ。一方、校長は実はミュージカルファンで、ディーディーの大ファンだった。二人でレストランに行ったりする間に、政治問題化して結局プロムは開かれる。しかし、PTAは別会場を設けて皆がそっちに行ってしまい、誰も来ない体育館にはエマと校長とブロードウェイ・グループだけ。
(エマとアンジー) 
 傷ついたエマを大人は支えられるか。ディーディーは元夫のテレビ司会者に電話して、エマがテレビに出られるように段取りする。でもエマはテレビには出ないと言って、歌の動画で切々と訴える。彼女は「誰もが参加できるプロム」を開きたいという。学校主催じゃないから、PTAは関知しない。校長が許可すれば体育館は貸せるけれど、装飾や照明に多額の金が必要。それを「大スター」たちが負担する。一方、ショッピングモールで中心的な生徒と会ったトレントが彼らを説得しようと試みる。この時の絶唱「隣人を愛せ」(ラブ・ザ・ネイバー)が胸を打つ。

 そして奇跡の夜が訪れて大団円となるのは、アメリカ大衆文化の定番だ。歌とダンスで「リベラル」と「宗教保守」も、「隣人を愛する」という「聖書の教え」でわかりあえる。安易といえばその通りだが、それが長く続くアメリカ映画の「奇跡」もしくは「偽善」なのである。フィクションだから実際はどうかは不明だが,この映画では「人種」は問題化しない。白人男性以外が校長や会長になっている。「セクシャル・マイノリティ」の方が大問題になっている。

 それがどの程度現実を反映しているかは判らない。「政治的公正さ」の観点から、出演者にも性別、人種別の配慮をしているのかもしれない。だが「キリスト教保守派」からすれば、同性婚の方が大問題なのかもしれない。映画ではコメディとして、両派とも誇張されている。劇中でエマが訴えるように、サンフランシスコなら普通に受け入れられるのに、なんで保守的な風土の中では自分の気持ちを明かせないのか。そこにアメリカの深刻な「分断」の一側面がうかがえる。映画のように簡単に橋が架かるのかどうかと思うけれど,娯楽作なりにいろいろと考えさせられた。
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馳星周感動の犬小説、「ソウルメイト」2部作

2021年01月05日 21時07分54秒 | 本 (日本文学)
 2021年年明け読書は馳星周(はせ・せいしゅう)の直木賞受賞作「少年と犬」にしようと思った。馳星周は新宿を舞台にチャイニーズ・マフィアなどの激しい抗争を描いた「不夜城」で衝撃的にデビューした。最初は面白いと思って何冊か読んだが、次第に飽きてしまった。ずっと読んでなかった間に、あれほどドンパチ小説を書いてたのに、いつの間にかをテーマにした作品を書いていた。「少年と犬」の前に「ソウルメイト」(2013)や「陽だまりの天使たち ソウルメイトⅡ」(2015)という小説があるので、まずそっちから。(どちらも集英社文庫。)
(「ソウルメイト」)
 どちらも短編集で、これがえらく感動的だった。まあ「ソウルメイト」、つまり「魂の伴侶」たる犬の話なんだから、感動的なのも当たり前。僕は「動物小説」というのが大好きで、シートン動物記とか、日本だったら戸川幸夫など愛読してきた。「動物」も好きだし「小説」も好きだから、合わされば最強だ。しかし、日本では最近は余りないなあと思ったら、馳星周が書いてたのか。
(「陽だまりの天使たち」)
 どの話も「犬種」が題名になっていて、その種の絵が表紙になっている。人間たちも犬たちも、普通に生きているというよりも、余命間近だったり被災したりしている。あまりに普通な日常を生きていると小説に向かないんだろう。でもシチュエーションが劇的であるだけ、犬をめぐる物語は心に沁みる。例えば、福島の原発事故避難地域に残された犬。母は津波で亡くなり,犬だけが残された。その犬が生きているらしいとネットの写真で見て、男は仕事を辞めてレスキューに参加した。人に見捨てられ野生のように生き抜いてきた犬は果たして見つけられるのだろうか。
(柴)
 人間社会にはいじめもあるし、夫婦や親子の争いもある。そんな時でも,犬は自分が属する「群れ」が平和であるように心を砕いている。犬を飼ったことがある人は判っているだろうが、家族がケンカしてると犬は必死に仲裁しようとする。時には犬を虐待して捨てる人もいる。そんな目にあった犬が保護された時、引き取ってもなかなか心を開かない。果たして人と犬の心が通じ合う日は来るのだろうか。あるいは盲導犬という犬もいる。犬は人間の仕事をすることが喜びなんだと言うけど、犬が犬である以上やっぱり遊びもしたいのだろうか。そんな多くの犬の心を代弁してくれるような小説がここには詰まっている。
(バーニーズ・マウンテン・ドッグ)
 そして犬の寿命は短いから,犬を飼っていると犬の最期を看取ることにもなる。病気になっても痛い痛い、病院に連れてってなどと訴えない。病院に行けば静かに診察されているけれど、終わったら早く帰ろうよと全身で訴える。犬種によれば,遺伝的に病気になりやすい種類があることをこの短編集で教えられた。犬が病気になって死んでゆくことは誰にも止めることは出来ない。時にはあまりにもつらそうなので「安楽死」を選ばざるを得ないことさえある。そして死んでしまってからも、もっと散歩に行ってあげれば良かった、一緒に遊んであげれば良かったとずっとずっと思い続けるのである。そんな様々な死んでしまう犬も出てくる。犬の思い出を抱えている人は、小説の中の名前ではなく自分の飼っていた犬の名前を呼びかけながら読むことだろう。
(フラット・コーテッド・レトリーバー)
 どんなときにも人間に寄り添ってくれる犬たち。そんな犬について、著者も何頭もの犬を飼ってきて、多くの人に伝えなければいけないことがある。そんな強いメッセージも背後にうかがえる。この小説は多くの子どもたちに読んで欲しいと思う。小学校高学年ぐらいから読めると思う。学校の図書館にも置いて欲しい。犬じゃなくて,猫や小鳥や金魚だっていいとは思うけれど、犬をめぐる物語ほどドラマティックなものはなかなか難しいだろう。人間にとって優しさとは何か、それを犬たちが教えてくれるのである。

 ホワイトハウスの主が代わったからといって、世界がすぐに良くなるなどという幻想は全然持っていない。しかし、バイデン大統領になれば,ホワイトハウスに犬が戻ってくる。それだけでも「世界がほんのちょっと良くなる」と僕は思う。これはジョークで書いているのではなく、完全に本気である。もしトランプ大統領が犬を飼っていたら、再選も可能だったかも知れない。愛犬家が投票するなどというのではない。そうじゃなくて、人を癒やす犬が近くにいてくれれば、あんなに多くの閣僚や補佐官をクビにしたりしないし、攻撃的なツイートを連発したりしないと思うのである。

 なんで飼わなかったのか、僕はよく知らないけれど、アメリカの富豪の家ならば大型の番犬や狩猟犬を飼っているもんじゃないだろうか。もしかしたら幼少期に犬に悪い思い出でもあるのだろうか。犬も人間を見ているから、いじめっ子タイプや気持ちが安定しない人間には懐かないものだ。子どもの頃に犬が懐いてくれなかったのではないかなどとつい憶測してしまう。
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中公新書「明智光秀」を読む

2021年01月04日 22時41分19秒 |  〃 (歴史・地理)
 福島克彦著「明智光秀」(中公新書)を読んだ。12月に出たばかりの新刊。つい買ってしまって,つい読んでしまうタイプの本である。これが2020年のラスト本だが、案外時間が掛かってしまった。今は新書本もなかなか難しい。自然科学系の新書だとお手上げの時もある。だから、こういう「史料に基づく」歴史学的な叙述は難しいと思う人もいるだろう。でも「俗説」を排して実像を見極める手続きを知ってもらう意味でも、歴史ファンにも是非チャレンジして欲しい本。

 年末年始にはお城大名の特集番組が多い。年末には「戦国大名総選挙」というのをやっていたが、「戦国武将」かもしれないが「戦国大名」とは言えないような人もランクインしていたように思う。面倒なことを言えば、「戦国大名」の前の時代は「守護大名」で、後の時代は「近世大名」である。何が違うかと言われても、ちゃんと答えられる人は少ないだろう。戦国大名は日本史上で本当に独自の存在なのである。

 織田信長は間違いなく「戦国大名」だが、明智光秀が果たして「戦国大名」と言えるかどうかは微妙だろう。織田信長も昔は戦国の「革命児」のように思われていた。今もそんなことを言う人は多いけれど、歴史学界では案外信長政権の「保守性」が指摘されている。信長は「天下統一」つまり「畿内制覇」(「天下」とは当時「京」の周りの五畿内を指していた)は進めたが、そのために旧勢力との妥協も強いられた。「比叡山焼き討ち」も武力抵抗勢力を排除したのであって、何も古代的勢力を打倒する目的があったわけではない。
(明智光秀像=岸和田市本徳寺)
 織田信長は四方に敵を抱えて戦争ばかりだったから、案外家中統制領域支配を徹底する時間がなかった。今は関東の後北条氏などの研究が進み、戦国大名の支配の仕組みが相当に解明されてきた。織田家には「分国法」さえなかったのである。そんな織田家の武将の中で、「国持ち」を認められた明智光秀羽柴秀吉など「現場」を知る武将たちが、実態に即した分国支配を進めて行くしかなかった。だから明智光秀は織田家中では「戦国大名」的な存在だった。

 明智光秀は歴史の中の敗者なので、残存する史料が少ない。だから生年も生地も確定していない。この本では定説的な美濃(岐阜県)だけではなく、近江(滋賀県)の可能性もあるとしている。最後の室町将軍足利義昭の家臣だったが、その後義昭政権を支える織田信長との「両属」状態になり、やがて信長政権の武将となった。そして坂本城(琵琶湖西岸)を築き、独自の武将と認められていった。それでも京都代官も務めているので、官僚的な才能もあったのだろう。「文化人」でもあって、連歌の会合にもよく出席していた。無いながらも、探せばずいぶん史料もあるもので、ずいぶん光秀の実像も判って来ている。
(明智光秀関連地図)
 そして丹波(京都府と兵庫県の一部)方面司令官となって、丹波統一を長年かかって実現した。丹波は山国なので、半ば独立した土着勢力(国人)が多数存在して制圧には時間が必要だった。しかし、それを実現した段階で、明智軍には「丹波衆」という「自分の部下」を持った。史料的に裏付けられる範囲でも、思いやりに満ちた武将だった光秀が独裁化していっている。その結果として「本能寺の変」が起こったのだろう。史料に基づかない憶測みたいなことは一切書いてない本だから、これが真相だみたいなことは出て来ない。

 だけど、「黒幕」がいなかったのは明らかだろう。関係の深かった丹後宮津城の細川氏さえ従っていないのだから、事前謀議があったはずがない。「足利義昭黒幕説」もあるが、(義昭は広島県の鞆の浦で毛利家に保護されていたのだから)毛利氏が秀吉とさっさと講和したのが理解出来ない。その当時、光秀と並ぶだけの軍事力を持っていた柴田勝家は北陸戦線、羽柴秀吉は中国戦線に釘付けになっていた。そして四国政策変更により、光秀と関係の深かった長宗我部氏討伐軍が出発しようとしていた。そこに絶好のチャンスがめぐってきた。

 著者の福島克彦氏(1965~)は大山崎町歴史資料館館長と出ている。光秀、秀吉の決戦の場となった「山崎の戦い」のお膝元である。そこで独特の歴史を持つ「大山崎」の宿場町構造が見事に説明されている。明智軍がほとんど旧信長勢力を味方に引き入れられなかったことが最大の敗因だ。我々は秀吉がこの後全国を統一したことを知っている。だから「山崎の戦い」を秀吉中心に見てしまう。この時点では神戸信孝(信長の三男)も陣中にいたし、北畠信雄(信長の次男)も別にいた。織田家から後継が出ると思った人が多いのだと思う。

 2020年の大河ドラマの主人公である明智光秀を歴史学でどうとらえるか。この本が一つの結論だろう。史料ばかりだし、面白い話はあまり出て来ない。でも限られた史料から、光秀の感情面も含めて実像を探る試みは、僕は単に歴史学に止まらずに「現実を謙虚に分析する」というトレーニングになると思う。まあ無理に読む必要もないと思うけどね。
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陣内秀信「水都 東京」を読む

2021年01月03日 22時40分27秒 | 〃 (さまざまな本)
 年頭所感のようなことを書いた年もあったけれど、毎年毎年「一年」が単なる時間の連なりにしか思えなくなった。もともと「初詣」なんかしないので、今年も例年と同じ日々である。まあ多少はいつもよりノンビリ寝正月になってしまった。ちょっと具合が悪いかなあと思ったが、寝ていて治ったようだった。例年インフルエンザが大流行してる年でも、インフルエンザになるより「ちょっと風邪気味」の人の方が多いだろう。今年だって、具合が悪くても、「新型コロナ」じゃなくて「ちょっと風邪気味」の方が圧倒的に多いに違いない。

 読んだ本も出来るだけ記録しておきたいと思う。陣内秀信氏の「水都 東京」(ちくま新書)は2020年10月に出た本で,陣内氏の東京研究の集大成のような本だった。読んだのは「小説 琉球処分」どころか、「アジア太平洋戦争」(「戦争と文学」)よりも前で、12月半ばのことだった。すぐ書く必要もないと思ってたら、年を越してしまった。ちょっと「業績報告」みたいな本だし,東京の人しか関心が無いような本かなとも思った。スルーする気だったが,やっぱり書いておくことにする。

 陣内秀信氏(1947~)は建築史都市論の研究者で、長く法政大学教授を務めた。(現在は名誉教授。)1985年に出た「東京の空間人類学」やヴェネツィアを初めとするイタリア都市論で知られている。今回の本は副題が「地形と歴史で読みとく下町・山の手・郊外」と題されている。「水の下町」「坂の山の手」とよく言われる二項対立的な安易な通説ではなく、郊外、山の手、下町を通じる「江戸の水構造」を極めている。
(陣内秀信氏)
 東京論の本だけど、水の循環構造水をめぐる歴史水辺景観の復元など全国どこでも役立つ論点が詰まっている。その意味では「原理論」として東京以外にも応用できるんじゃないかと思う。東京では、都庁移転(現在は西新宿、元は有楽町の東京国際フォーラムの場所にあった)や、盛り場の移動(浅草、上野から銀座、新宿を経て、渋谷、六本木などへ)を見ても、「東から西へ」「下町から山の手へ」「川の町から坂の町へ」へと移り変わってきた。

 それを象徴するのは「坂道シリーズ」と呼ばれるアイドルグループの命名法だろう。2020年の紅白歌合戦では「AKB48」が落選して、アイドルグループでは「乃木坂46」「日向坂46」「櫻坂46」の3組が出演した。「乃木坂」は乃木将軍の家が残る実在の地名だが、厳密に言えば「日向坂」(ひなた坂)「櫻坂」は実在しない。(「日向坂(ひゅうが坂)」「さくら坂」はあるらしい。旧名の「欅(けやき)坂」は存在する。)テレビ局やコンサートホールなどが渋谷区、港区周辺に多いのは事実だから、イメージとして「坂道」が命名されるのも理解は出来る。

 しかし本書を読むと、「川系」とか「橋系」のグループもやがて出てきて欲しいなと思った。今は「小名木川46」とか「清洲橋46」なんて言われても、オシャレなイメージを喚起しないかもしれないが、ホントはもっと美しいイメージで語られるべきなのだ。この本では隅田川も出てくるが、次に日本橋川を取り上げているのが貴重。日本橋の下に流れるのが日本橋川だが、僕もどういう流れになっているのか、すぐには判っていなかった。神田川から分かれて隅田川に注ぐ短い川だが、流域には貴重なモダン建築群がまだあるらしい。
(日本橋川)
 また「外濠」の重要性も大切な指摘だ。「内濠」は江戸城(皇居)の周りにあってランニングの名所になっているから,今もよく判る。でも「外濠」は東京でも道路の名前としてしかイメージできない人が多いだろう。埋め立てられたところも多くて、全部は残っていないからだ。法政大学は外濠に近いので,著者を中心に理科大など近隣の大学にも声をかけて学際的研究が行われてきた。玉川上水から続いて、内濠とも関連する水循環があった。僕も知らなかったけれど、東京都の事業としても外濠復活に向けた取り組みが入ったという。
(外濠の「カナル・カフェ」=飯田橋) 
 さらに山の手の地形を読み解き、著者の「原風景」にあたる杉並区の成宗(なりむね)をモデルに分析している。それってどこという感じだが,地名変更によって今はない地名で「成田東」になった。そして武蔵野から井の頭池神田川玉川上水を取り上げる。最後に多磨地区から、日野を「水の郷」として分析し、また国分寺崖線と湧水を扱っている。
(井の頭池源泉)
 自分は長く東京の東部に住んできたから、どこかへ行くときに川を渡るのが当たり前になっている。逆に坂道を歩くことは日常にはなくて、東京が平地のように思ってきた。昔から「都市空間論」として東京の歴史を考えてきた。改めて東京の地理的、歴史的な文脈から現代文化を考える大切さを思った。今もどちらかと言えば、家から近い浅草や上野に親近感がある。東京東部の再発見のためにも役立つ本だ。まあ、ちょっと業績羅列的なところが多かったけれど。
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「小説 琉球処分」(上下)ー大城立裕を読む④

2021年01月02日 22時31分37秒 | 本 (日本文学)
 2020年に亡くなった沖縄の作家、大城立裕を読むシリーズ。しばらく放っておいたけど,何とか2020年のうちにと「小説 琉球処分」上下巻を年末に読み終わった。何しろ上下巻合計で千頁を超えるので、そう簡単には終わらない。2010年に講談社文庫に入ったのを持っていたんだけど、10年間読まなかった。でも、読み始めたら案外読みやすかった。歴史的な基本用語が「本土」と違うから当初は戸惑うけど、慣れてくると次第にスピードが上がった。
(上巻)
 講談社文庫上巻の帯には、菅総理大臣の「数日前から『琉球処分』という本を読んでいるが、沖縄の歴史を私なりに理解を深めていこうとも思っている」という言葉が載っている。菅総理の読み方は「スガ」ではなくて「カン」である。2009年に成立した民主党・鳩山由紀夫首相が辞任して、菅直人内閣が成立した時期だ。普天間基地の移転先について「最低でも県外」と言っていた鳩山首相だったが、結局「辺野古移転」に転換して、社会民主党が連立から離脱した。

 その時点では絶版だったので、首相の言葉で古書が暴騰し講談社文庫で出されることになった。もともとは1959年に琉球新報に連載された著者最初の長編小説だが,長くなりすぎて完結する前に連載中止となった。芥川賞受賞後に、残りを書き足して講談社から1968年に刊行された。後にファラオ企画、ケイブンシャ文庫というところからも刊行されたが初版止まりだったという。そして2010年に講談社文庫に入った。一応今も生き残っているようで、ネットならすぐ買える。「カクテル・パーティー」の次に知られている大城作品だろう。

 文庫に入ったことは名誉だが、この本が「いずれ歴史にすぎないと見られる時代になることを、願っているが、私の存命中には無理であろうと思っている」と著者はあとがきに書いている。実際に読んでみて,僕もこの本はまだ歴史になっていないと思った。何度も刊行されたことについて、「琉球=沖縄が、日本にとって国内軍事植民地としての重要な(?)の価値をもっていて、そのなかからさまざまな意向で訴える声を、国民読者が一定量だけ持ち続けた。そしてその一定量だけに止まったということだろう」と冷静な分析をしている。
(下巻)
 一番最初に「物語の背景」という文があって、当時の琉球王国の歴史と政治制度が簡単に紹介されている。読み方として、「親方」が「うえーかた」はまだ判るが、「親雲上」が「ぺーちん」とか、里之子が「さとぬし」、筑登之が「ちくどん」とか。文中で出てくる時に,全部ルビがあるわけじゃないから、最初は戸惑うし時間もかかる。まあ本土の江戸時代でも、「家老」とか「勘定奉行」とか今とは違う政治制度の言葉があった。でもそういうのは時代劇や時代小説で何となくイメージが出来ているが、琉球王国になるとこんなにも知らないのかと思った。

 琉球王国は、清に朝貢して「王」を認められつつ、江戸時代初期に薩摩藩の侵攻を受けて服属していた。薩摩の支配は苛酷を極め、そのことが琉球王国に大きな傷を残した。その薩摩藩というものが、「廃藩置県」によって無くなってしまった。日本全土が「天皇」のもとに統一され、薩摩藩主も土地を天皇に奉還した。そんなことを聞かされても、琉球では全然判らない。江戸時代には将軍代替わりの時に慶賀使を送っていたので、同じようなものと考えていたら、1873年に国王尚泰を「琉球藩主」に封じ、薩摩藩に負っていた多額の負債も今や無くなったとされた。

 なんだか判らないうちに、突然「近代」に直面した琉球王国の苦難をこのあと延々と描くわけである。「台湾征討」がその当時の心配事だった。その後1875年に大久保利通のもとで内務大丞を務めた松田道之(1839~1882)が「琉球処分官」を命じられて沖縄に赴く。松田の残した「琉球処分」という記録がこの小説のネタ元になっている。以後、1879年の「琉球処分」で「旧藩王」が首里城を明け渡し上京を命じられて沖縄を去るところまで、長い長い政治闘争が描かれていく。
(琉球処分官、松田道之)
 全部書いても仕方ないが、琉球側には抜きがたい中華への恩顧意識があった。だから、いずれ清国が軍艦を派遣するといった噂が流れる。だが、実際にはそのような動きはなく、英仏露などとの抗争を抱えた清国にはそんな力は無いのだった。ただ、外交交渉では清は領有権を完全に放棄したとは言わず、日清戦争まで決着しなかった。日本側から、宮古・八重山を清に割譲する案も出していた。松田らはそれとは関係なく、琉球側に日本の制度への服属を求めることで一貫していた。理解しない、出来ない琉球側には、ある程度までは待ちながらも、最終的には軍事力、警察力で強行するということが決められていた。

 そのような「軍事的制圧」による強圧が、まさに現在を見ているかのようなのである。当時の政府が考えた「国防の最前線」としての「琉球王国」という判断である。しかし、武力というものを持たなかった琉球の人々は、日本の軍隊が置かれることでかえって軍事的危機が起こると心配した。その危惧は1945年に現実のものとなった。その後も「沖縄」は「国防の最前線」とされて、現代でも自衛隊が先島諸島に配備されている。大城氏が予言したように、大城氏の存命中にこの本は歴史にならなかったのである。

 この小説は、琉球処分の政治過程を細かく描き出す。暑い国に派遣され、言語も文化的習慣も異なる中でひたすら消耗する松田道之にも、なんだか同情したくなるほどだ。琉球王国の「頑固党」、つまり幕末の「攘夷派」は水戸藩の徳川斉昭みたいな頑迷な指導者がいて、現実的対策を立てられないまま「清の救援」を信じている。しかし、この小説の読みどころは、仲が良かった若者たちが次第に政治的立場を異にしていく様だろう。あるものは日本政府に仕え、別のものは清国に密航する。世界の様々なところで同じような話を見聞きした。同じような青春の悲劇が沖縄でも起こった。今も読み応え十分な大河小説だった。
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