尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

子どもに10万円、「現金かクーポンか」より、奨学金や給食無償化の議論を

2021年12月14日 22時55分37秒 | 政治
 「子どもに10万円」給付という公明党の公約が、選挙後の与党協議で「現金で5万円、クーポンで5万円」「所得制限あり」となった。しかし、クーポンだと事務経費が967億円もかかるということが判明して、全額現金の方が良いという声が大きくなり、理由があれば可能となって、さらに岸田首相は「全額現金給付を認める」と表明した。
(現金給付を認める岸田首相)
 という問題をちょっと考えておきたい。この問題は公明党の公約から始まっている。僕が選挙中に書いたように、自公両党は選挙区の調節を行い全面的に選挙協力を行った。だから自民党だけで過半数の議席を獲得したわけだが、両党で連立内閣を組んでいる。そのことは事前に想定されたことなんだから、本来なら「連立与党共通公約」を出すべきではないか。10月31日に選挙をして、年内にも給付しようという「短兵急」が混乱の大本である。本来もっと練り上げられた公約を掲げるべきだった。

 僕は選挙中に「公明党の「子どもに10万円給付」公約を考える」(2021.10.24)を書いた。そこで(中学生までの場合は)「児童手当」の仕組みを利用すれば簡単に給付できると指摘した。やっぱりその通りになったが、所得捕捉の方法が現状に合わないという声がかなりある。しかし、それは児童手当全体の仕組みを総合的に考えるべきことで、今回はやむを得ないだろうと思う。だけど、16歳から18歳への給付はどうするんだろう。子どもがいない困窮世帯もいっぱいあるはずだし、18歳で区切ると「大学生」はどうなるんだろう。それは「学生支援緊急給付金」というものを作るらしいが、そっちの支給はいつになるのか。

 そのような「全体的仕組み」こそまず議論するべきことなのに、世論は「クーポン問題」に集中してしまった感がある。これが今問題化したのは、臨時国会で予算委員会が開かれて「一問一答」の質疑が始まったからである。つまり、今まで(首班指名の特別国会を除き)、内閣は野党が要求し続けた「臨時国会」を開かなかったから、野党に追及の場がなかった。そのため、「半分をクーポンにしろ」という自民党の意向が通ってしまった。やはり国会は大事だ。

 もともと財務省は現金給付に反対の意向が強い。給付してもほとんどが貯蓄に回ることが多かった。財政赤字のみ積み上がって、消費拡大効果が乏しいというわけである。そのような考えがある中で、自民党としても公明党の公約をむげに退けることはできないが、完全に言うことを聞いて「バラマキ」などと言われたくもない。だから「5万円はクーポンで」という案をひねり出したんだろう。貰う方からすれば、クーポンより現金の方がいいかもしれないが、くれないよりクーポンをくれる方がいいだろう。今まで何でも「地域振興券」などを出しているから、全くゼロからやるわけじゃない。

 だから、僕は政策意図がはっきりと伝わるならば、クーポンでも悪くはないと思っているのである。そこで問題は「政策意図」になる。「子育て支援」か、「景気対策か」である。景気対策でやるというなら、余計な金が掛かってもクーポンの意味はある。だけど、「子育て支援」なら、「そもそも各家庭に10万円を給付する」という政策の有効性を問わなければいけない。「現金かクーポンか」の議論をしているうちに、そのお金をもっと有効活用できるんじゃないかという議論が野党からも提起されなくなった。

 子育て世帯に10万円を給付しても、僕は大部分は貯蓄に回るのではないかと思う。テレビでは育児用品の店などでインタビューして、有り難いという声を放送していた。2歳、3歳の子どもの場合は、確かに使われるかもしれない。僕も学齢未満の子ども世帯には「現金給付」が良いと思う。しかし、小学生は中学生になり、中学生は高校生になり、高校生は大学や専門学校生になるということが目前に迫って来ている家庭では、私立へ行くかもしれない、制服代も高い、部活や塾にもお金が掛かる、取りあえず貯蓄しておこうということになる。その問題を解決することに使った方がいいのではないか。

 つまり、結局は「大学や専門学校にお金が掛かる」という大問題がある以上、子育て世帯は消費を控えざるを得ない。しかし、今回高校生に給付するお金を使えば、「奨学金をすべて無利子にする」程度のことは出来ないのだろうか。その方が有効なのではないかというような議論こそすべきではないのか。また小学生の場合では、「給食費を(所得制限なしに)無償化する」ことを真剣に考えるべきではないか。給食費取りたてには学校事務職員や担任教師までが負担感を持っている。それに給食が地域経済、農業や食品加工業に持っている経済的意味は大きい。小学生の給食は「食育」の意味も大きく、国が全面的に負担してもおかしくないと思う。単に経済的困窮世帯だけでなく、所得制限なしに子どもの健康を支えるという意味で給食費を国庫負担とする。例えば、そういう議論をする方が生産的ではないだろうか。
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奥泉光「ゆるキャラの恐怖 桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活3」を読む

2021年12月13日 22時35分19秒 | 本 (日本文学)
 平野啓一郎決壊」を読んで、心が暗澹たる思いに囚われてしまった。「暗い」というよりも、「恐ろしい」という方が近い。それが現代であり、あるいは人間性の深淵であるとは言え、ここまで心の闇に踏み込んでこられると、どうしたらいいのだろうか。そこで11月新刊の文春文庫、奥泉光の「ゆるキャラの恐怖 桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活3」を読むことにした。このシリーズは、簡単に言えば「学園ユーモアミステリー」というジャンル小説だけど、そのおバカ度において現代最強(凶?狂?)レベルの域に達している。今まで書くまでもない感じで、一人で楽しんでいたけど、今回は是非紹介しておきたい。

 主人公の桑潟幸一、通称クワコーは、千葉県権田市にある「たらちね国際大学」情報総合学部日本文化学科の准教授である。最初に登場した「モーダルな事象 桑潟幸一助教授のスタイリッシュな生活」(2005)では東大阪にある敷島学園麗華女子短期大学(通称レータン)という短大に勤めていた。大阪で一番「低レベルの短大」であるゆえに、ほとんど研究意欲に欠けるクワコーでも勤めていられたが、折からの少子化進行に伴い短大経営は苦しくなるばかり。そこに同僚だった鯨谷教授から「たらちね」への転勤話が持ち込まれクワコーは飛びついた。鯨谷は元サラ金の取締役で、主著は「ヤクザに学ぶリアル経営術」である。

 たらちね国際大学は元短大が4年制大学に昇格したばかり。レータンに勝るとも劣らぬ底辺大学で、元短大だけにほぼ女子学生ばかり。男子学生は立った一人しかいない。なんかかんだで諸手当がどんどん引かれ、クワコーは准教授という名にふさわしからぬ低賃金にあえいでいる。便意は極力ガマンして、「大」は家ではしないようにして水道代を節約している。近年はますます研究意欲が蒸発して、ついに倹約のため学会は全部辞めてしまった。クーポンが時々手に入ると、近所のトンカツ屋でロースカツ定食を食べるぐらいが楽しみ。出来るだけ食費を浮かせようと、今年はついに昆虫食に挑んでセミを捕っている

 クワコーはなぜか「文芸部」の顧問を押しつけられ、研究室はほぼ部室と化している。文芸部といっても、内実はコミケに出すマンガを描いている「腐女子」集団である。木村部長はまだ「クワコー先生」と呼ぶが、いつも「クワコー」と呼び捨てにするのが「ホームレス女子大生ジンジン。理由も不明ながら、港区に実家があるはずが、なぜかキャンパスの裏でテント生活を送っていて、本名神野仁美から「Call me JINJIN」と言っている。他にも「ナース山本」「ギャル早田」「オッシー押川」「ドラゴン藤井」など、個性豊かすぎる面々が研究室を占領している。
(奥泉光)
 今までに「桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活」(2011)、「黄色い水着の謎 桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活2」(2012)が書かれ、ちょっと間が開いて「ゆるキャラの恐怖 桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活3」(2019)が書かれた。クワコー周辺では、なぜか必ず「日常の謎」や「学園をめぐる陰謀」が発生し、クワコーがそれを解決できるはずもないわけで、ジンジンが快刀乱麻を断つごとく名推理を披露するというのがお約束の展開になる。「スタイリッシュ」というのは、普通は「オシャレスタイルで統一されている」ような場合に使われる用語だが、クワコーの場合「クワコー的低レベル生活様式に純化されている」という点で、ある種スタイリッシュではある。

 僕はミステリー的には「黄色い水着の謎」が面白かったと思っている。今回は「ゆるキャラの恐怖」「地下迷宮の幻影」の2短編が収められているが、現代日本のキャンパス事情を風刺する意味合いが強い。大学教員の3大業務は、「教育」「研究」「行政」だと書かれているが、クワコーの場合、教育1、行政9、営業90になっている。(ちなみに研究はゼロ。)営業というのは、高校に説明に行ったりだが、クワコーの場合鯨谷教授に命じられるまま、ティッシュ配りでも何でもやるハメになる。今回はたらちね国際大学がゆるキャラ「たらちね地蔵くん」を作ったので、その着ぐるみに入って地域のお祭りなどに行ってこいとの厳命である。

 そんなクワコーの苦難の夏を描いていくが、最後には大学対抗ゆるキャラコンテストまであって、出場せざるを得なくなる。そこで埼玉まで出掛けていくが、その当日になぜかクワコーのもとに脅迫状が…。そして「鹿のいるキャンパス」を舞台に、みうらじゅんが審査員を務めるコンテストで、準備中にはスズメバチが着ぐるみに仕込まれ(?)、本番ではクワコーを鹿が襲ってくる。これがどうも仕組まれた事件らしい。たらちね近くの「房総工業大学」通称ボーコー大は、底辺のたらちねからさえ下に見られる唯一の大学だが、ここもコンテストに出てるからどうも怪しい。そんなこんなの真相は如何に。

 今の大学、そこまでやるか的な「ゆるキャラの恐怖」に対し、「地下迷宮の幻影」はさらに風刺がヒートアップしている。鯨谷教授からは、文科省のお達しにより教授たるもの研究論文なしではダメだと言われる。が、しかし、それを何とかバイパス出来る方法はある。オープンキャンパスなどでいつもお世話になってる教育産業「ペネッセ」に頼むとか。さらに今追い上げを図っているJED(日本教育開発)に依頼すれば、論文を書いてくれるとか。それに加えて、鯨谷のライバル、国際コミュニケーション学科の馬沢教授からも呼ばれ、秘密裏のミッションを依頼される。

 来年からテレビでも知られる島木冬恒が来年から大学に来るらしいというのである。島木は教育勅語を教育に生かせという主張の持ち主で、総理とも親しいとか。ところでなぜか「ウスゲマン」薄井教授とも親しいらしく、島木が早くもキャンパスに出没しているらしい。島木の父は旧軍人で、たらちねキャンパスは戦前は陸軍の秘密研究所だったという。今もキャンパスの隣にある産廃会社の地下には、秘密の地下迷宮があって何か秘密のもの(麻薬とか?)が隠されているという噂も…。だから、クワコーにはウスゲマンを見張って、島木との交流の中身を探り出せと密命が下ったわけ。特別手当も出るが、出所は「ペネッセ」?

 そして何気なく見張っていると、本当にウスゲマンがキャンパスの隣に出没しているではないか。そして研究室には金庫があって、時々島木が訪問するのも間違いない。それは一体なぜ? クワコーも隣接土地に忍び込むと、謎の土地にはキノコがあるではないか。タダの食材には目がないクワコーは、それを取ってくるのだが、それは「メイテイダケ」らしい。(架空のキノコ。)そして、島木はたらちねに正式に来る前に、一度講演会を開きたいと言ってきた。教育勅語に関する講演である。学生との質疑も欲しいと言ってる。クワコーはその担当も命じられるが、もちろんキョーイクチョクゴなんて名前を聞いたことがあるぐらい。しかも、たらちね学生と質疑? それも男女一人ずつ希望というが、そもそも男子は一人しか居ないじゃないか。

 ということで、JED派遣の「家庭教師」(大学教員向けに論文を代筆してくれる有り難い存在、その若き女性の描写が絶品)とクワコーが組んで準備を進める。男子学生というのは、門司(もんじ)君といって文芸部員でもあるが、女子ばかりのたらちねより、最近はほとんどボーコー大とつるんでいる。そして、モンジ君とその彼女(!?)アンドレ森(プロレス部)が教育勅語をめぐる準備会に呼ばれてくるんだけど…。ここが爆笑、爆笑で、ここまで見事な右翼的風潮批判も珍しいほどの上出来になっている。ここだけでも読む価値あり。まあ、登場人物になじむためには、順番に読む方がいいけれど。

 奥泉光(1956~)は僕と同学年である。芥川賞の「石の来歴」とか、『「吾輩は猫である」殺人事件』『グランド・ミステリー』『シューマンの指』などは読んでいるが、なんせ作品が多いので近年の『東京自叙伝』『雪の階』など読んでない本が多い。いっぱい持ってるんで、これも来年の課題。それにしても、「決壊」の「悪魔」に対抗できるのは、やはり笑いだと思った次第。
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平野啓一郎「決壊」を読むー恐るべき先見性

2021年12月12日 21時00分24秒 | 本 (日本文学)
 この間、平野啓一郎ある男」を読んだので、続いて「決壊」(上下)を探し出してきた。「新潮」に2006年11月号から2008年4月号まで連載され、同年に2冊の上下巻ハードカバーで刊行された。(現在は新潮文庫に上下2巻で収録。)翌年に芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞した。よくオカミが賞をくれたなという小説だが、まあ大臣は読んでないんだろう。同年の「このミステリーがすごい!」13位に選出されたが、本質は「純文学」と考えるべき本である。
(上巻)
 これは凄まじい犯罪小説で、読み終わるには力が要る本だ。そもそも長いし、始まってから事件の本筋が見えてくるまでも長い。そして長く辛い読書の末に、ほのかな灯りが見えるかというと、いやいや全く暗いままで暗澹たる世界が広がっているだけ。無理に勧めるのもどうかと思う小説だが、これは10年以上前に書かれた本なのに、全く古びていない。というか、まさに「現在」が書かれていることに驚く。世界がどんどん悪くなっているという感慨を覚えててしまう本である。

 小説内の時点は2002年の夏から秋である。どんな時代か覚えているだろうか。2001年9月11日にアメリカで同時多発テロが起こった。それから1年、アメリカはアフガニスタンに兵を送り、さらにイラクのフセイン政権打倒を掲げてイラク戦争を始めようとしていた。日本では小泉政権の時代で、9月17日に小泉首相が電撃的に北朝鮮を訪問して金正日総書記と会談した。会談では日本人拉致を認めて「5人生存、8人死亡」という情報を伝えた。それらは小説内で語られるが、もちろん今では「イラク戦争をどう防ぐべきか」などという論点は古くなってしまった。しかし、アメリカ、中東、東アジア情勢の重大性は変わっていない。

 この時期は、現役世代のほとんどに「インターネット」が普及した頃だった。パソコンが一般化して、家でネットを使う人が増えた。また、90年代半ば頃から携帯電話の普及が始まり、2002年段階では電子メールの利用も一般化していた。まだスマートフォンというものはなかったが、「IT社会」に近づいたのだった。自分自身では1996年に携帯電話、2000年にインターネット(ケーブルテレビ回線)の利用を始めている。デジタルネイティヴ世代が増えてきて、いつ頃からあったのか判らない人も増えていると思う。21世紀になったばかりの時代はそんな変化が起きた頃だった。
(下巻)
 2021年10月31日。その日は衆議院選挙が行われた日だが、関東地方では開票速報の合間合間に、20時頃に発生した「京王線刺傷事件」のニュースを大きく報道していた。その前に8月6日には「小田急線刺傷事件」が起き、京王線の犯人はそれに影響されたと供述している。思想や宗教に拠るものではない「無差別テロ事件」が日本社会で起きている。また11月24日には、愛知県で中学3年生の生徒が同級生に刺殺された事件が起きた。これらの事件の詳細は未だ判っていないことも多いが、「決壊」を読むとまさに「予見の小説」だったと思わざるを得ない。そういう犯罪小説なのである。

 「決壊」は夏休みの帰省を前にした、北九州市の沢野家で始まる。長く新日鐵で働いて定年になった父は最近元気がなく、母が次男一家(妻と3歳の長男)を車で迎えに来る。次男沢野良介は山口県宇部市で営業の仕事をしているが、必ずしも人生に満足していない。常に優秀な兄と比べられてきた人生だったのである。兄の沢野崇は東大を卒業して、国会図書館で調査員をしている。数年前には外務省に出向しフランスに滞在していた。結婚せずに多くの女性と性的な関係を含めた関わりを持っている。

 結局はこの沢野兄弟をめぐる物語なのだが、最初はこの家庭の話が長い。それはどこにでもあるような、一家の様々な事情が事細かに語られていく。達者なものである。それは面白いと思うが、この本は犯罪小説じゃなかったのかと疑問を抱くほど、何も起こらずに進行する。弟の良介は悩みを匿名の日記としてネット上に書き込んでいた。それを偶然知ってしまった妻は、そのことを夫に秘密にしたまま兄の崇に(メールで)相談する。日記サイトには妻が匿名でコメントしていたのだが、その頃から「666」というコメントも付くようになった。そのため、妻はそれが兄の書き込みなのではないかと思い込む。

 そこに鳥取市に住む中学生の話が絡んでくる。一体それは今までの話とどうつながるのだろうか。兄は別れを決めた女性と最後に京都旅行をしようと思い、そのついでに出張で大阪に来る弟と会うことにした。そして、そこである恐るべき犯罪が起きるのである。その話を書いてしまうと、一応形としてはミステリーなので約束違反になるだろう。それにしても恐るべき犯罪で、その全体像が明らかになるときには、心の中の暗黒面がさらけ出されてしまう。

 この設定からして、これはインターネットと携帯電話なくして起こりえなかった犯罪である。しかし、著者が過剰なほどに現代世界の分析を行うのは、単なる犯罪を描くのではなく「文明史的視点」で世界の変貌を考察したいのだと思う。人間性の中には「悪」がある訳だが、それに対する日本社会や日本警察は全く時代の変化に対応できていない。絶望的に遅れている。想像力の広がりに欠ける。この小説が書かれてから、すでに13年。日本がどんどん衰退しているのも当然か。とにかく読んでいて嫌になるぐらい、暗黒面を見せつけられるが、これは重要な小説だ。精神的にタフな人は是非チャレンジして欲しい。
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映画「Hand of God -神の手が触れた日-」、ナポリで育った少年の人生

2021年12月11日 22時26分55秒 |  〃  (新作外国映画)
 2021年のヴェネツィア映画祭銀獅子賞(審査員グランプリ)を獲得したイタリア映画、パオロ・ソレンティーノ監督の「Hand of God -神の手が触れた日-」が12月15日からのNetflix配信を前に一部劇場で上映されている。先に紹介したジェーン・カンピオン監督の「パワー・オブ・ザ・ドッグ」に比べれば、イタリア映画やコアなアート映画ファン向けの作品かなと思うが、やはり興味深い作品だったので紹介しておきたい。パオロ・ソレンティーノ監督(1970~)の自伝的な映画で、80年代のナポリが舞台になっている。題名は当時サッカーチーム「SSCナポリ」に所属していたディエゴ・マラドーナに因むが、サッカー映画ではない。

 映画はナポリ湾を上空から撮影した美しい映像で始まる。そこがナポリだと判っているけれど、名前が有名な割には案外ナポリのことを知らない。マッテオ・ガローネ監督「ゴモラ」(2008)という映画があったが、ナポリのギャング組織カモッラをめぐる物語だった。今度の映画は80年代の庶民生活を描くが、南部イタリアの濃密な親族関係、今もカトリック信仰が強い社会構造がちょっと判りにくい。親戚一同が結婚相手の紹介に集まるシーンが最初に出て来るが、人間関係が飲みこみにくい。監督自身を思わせる少年と兄、両親を中心に進むが、少年を演じたフィリッポ・スコッティがヴェネツィア映画祭でマルチェロ・マストロヤンニ賞(新人俳優賞)を受賞した。親戚一同が集まると、船があるから海に出ようとなって裸で船に乗ってるシーンが下の画像。

 この時期のナポリ人の話題の中心は、噂に出ている「マラドーナがナポリに来るのか」問題。バルセロナにいたマラドーナがナポリに来るわけがないというのが大方の結論。マラドーナは厳しいマークに怒って暴力を起こし出場停止3ヶ月になっていた。クラブとの関係が悪化し放出が決定的となっていたが、ナポリは決して有力チームではなかった。1926年創設以来、ほとんどセリエAに所属していたとはいえ優勝したことはなかった。イタリアにはもっと有力なチームが幾つもあったが、結局ナポリは当時最高の1300万ドルの移籍金を払ってマラドーナを獲得した。(現在ではこの金額は100位にも入らない。史上最高はネイマール。)

 映画の中で父親は銀行に勤めていて、ある夜同僚から電話を貰う。銀行が保証してマラドーナがナポリに来ることに決まったというのである。映画のシーンが真実ならば、ソレンティーノはナポリ人最高の秘密情報を最も早く知った一人になる。ウィキペディアには以下のように記述されている。「(1984年)7月5日にスタディオ・サン・パオロで行われたお披露目会見にはスタジアムに7万人のサポーターが駆け付け、マラドーナはヘリコプターからピッチに降り立つパフォーマンスで登場し、「僕はナポリの貧しい少年たちのアイドルになりたい。なぜって彼らは、アルゼンチン時代の僕と同じだからだ」とコメントした。」1986-87シーズンにはナポリは初の優勝をとげ、ワールドカップでもアルゼンチンが優勝し、マラドーナは唯1回の世界最優秀選手に選出された。
 
 監督も当然ファンだったわけだろうが、86年ワールドカップの「神の手ゴール」が題名の由来ではない。生と性のドラマを、時には幻想的に、時には狂騒的に描いてきたドラマは、半ばで暗転する。ある夜、友人たちとつるんでいると、兄が呼びに来る。両親が病院に運ばれたと。別荘に居た両親は一酸化炭素中毒で亡くなったのである。彼は遺体に会わせても貰えない。その日、彼はナポリのホーム戦を見に行っていたのである。マラドーナを見たかったから。そのため彼は難を逃れたのだ。その日こそが、「神の手が触れた夜」なのだった。しかし、何のために彼は「神」によって生かされたのか。
(パオロ・ソレンティーノ監督)
 そして実在の映画監督アントニオ・カプアーノと出会って、映画監督になりたいと思う。今まで数本しか見ていなかったのだが。カプアーノ監督はイタリア新作映画祭で上映された映画もあるが、日本では正式公開作品はないようだ。美しき親戚の人妻は精神病院に囚われ、上階に住む老婦人に誘われるように初体験を済ませて、もう彼の「青春」は過ぎ去っていく。ナポリを舞台にある少年の青春彷徨を描きながら、こうして映画は苦い終わりを迎えるが、いつものように映像美に見とれながら、青春のはかなさを感慨をもって見ることになる。

 ソレンティーノは現代イタリアの中堅監督として映画祭で受賞も多いが、日本では今ひとつ人気がないようだ。僕は「グレート・ビューティー/追憶のローマ」(アカデミー賞外国語映画賞)が非常に面白かった。しかし、それよりもアンドレオッティ元首相を描く「イル・ディーヴォ 魔王と呼ばれた男 」やベルルスコーニ元首相を描く「LORO 欲望のイタリア」などイタリア現代政治を取り上げた作品で知られている。重厚な上、イタリア社会やイタリア政治を知ってないと、よく判らない描写が多い。でもすごく充実した映画体験が出来る重要な映画監督だ。
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全斗煥、デクラーク、ソンドハイム等ー2021年11月の訃報③

2021年12月10日 22時48分44秒 | 追悼
 大韓民国の第11代、12代大統領全斗煥(チョン・ドゥファン)が11月23日に死去、90歳。韓国大統領は選出方法に関わらず、一期ずつ数える。全斗煥は5人目の大統領だが、李承晩が3期、朴正熙が5期務めたのを数に入れ、全斗煥が11代になる。陸軍士官学校同期で、政治行動を共にした盧泰愚が先月死去したのに続き、韓国現代史の中心人物が亡くなったことになる。韓国大統領の死亡順を見れば、要するに「悪人ほど長生きをする」という鉄則が正しいように思われてくる。
 
 全斗煥は韓国大統領として初めて正式に日本を訪問した人物だが、日本側のカウンターパートだったのは中曽根康弘である。1979年10月26日に衝撃的な朴正熙大統領暗殺事件が起きた。その後、12月12日に国軍保安司令官だった全斗煥が、戒厳司令官の鄭昇和を逮捕して軍内の実権を握る「粛軍クーデター」が起きた。それまで僕は全斗煥という人物を知らなかったが、この日から突如韓国の実権を握る人物となった。そして1980年5月17日に「非常戒厳令」を全国に拡大し、「ソウルの春」と呼ばれた民主化運動の弾圧に踏み切った。金大中らを逮捕し全羅道の光州で民衆の反発が強まると陸軍の特殊部隊を送り込んで弾圧した。僕は全斗煥と言えば、やはり光州事件を思い出すし、そういう人物を中曽根が国賓として呼んだのかと思ってしまう。
(全斗煥と中曽根)
 もちろん、だからと言って全斗煥を狙ってビルマで爆弾テロを起こした北朝鮮の行為は批判しなければならない。87年には大韓航空機爆破事件も起きたが、これらは88年ソウル五輪の招致に成功した韓国に対し、北側の焦りがあったのだろう。87年の民主化運動で大統領直選になって盧泰愚が当選した。しかし、大統領退任後に親族の蓄財疑惑が発覚、隠遁生活を余儀なくされる。金泳三政権になると、「過去の清算」が進んで、過去の粛軍クーデターにさかのぼって「内乱罪」で裁かれることになった。96年に死刑判決が出るが、金大中大統領の特赦によって無期に減刑された。最後まで光州事件への「謝罪」はなかったと報道されている。
(囚人服姿の全斗煥(右)と盧泰愚)
 僕が初めて韓国を訪れたのは、全斗煥がまさに大統領になろうとする1980年夏だった。ハンセン病回復者定着村のワークキャンプに参加したわけだが、その後に光州を訪れた思い出がある。なかなか外国人が行きにくかった時期だが、僕はソウルから夜行寝台列車で出掛けた。そんなのがあったのである。ハングルは読めるが、会話が上手に出来るわけではない。その上、事件の数ヶ月後だから、安易に聞いて回るわけにもいかない。早朝について中心部をウロウロしただけで、再び列車に乗って海岸部の麗水に移った。韓国で読んだ新聞には、数多くの経済団体などが「全斗煥将軍を大統領に推戴します」という広告を載せていた。その時は「統一主体国民会議」なるものが作られて、全斗煥を大統領に決めたのである。

 南アフリカの「白人最後の大統領」だったフレデリック・ウィレム・デクラークが11月11日に死去、85歳。どうしても過去を抜きに語れない全斗煥と違って、デクラークはネルソン・マンデラとともに1993年ノーベル平和賞受賞した人物として記憶されている。前任のボタから後継に指名され、1989年に大統領に就任。その時点ではデクラークが「アパルトヘイトを廃止する大統領」になるとは思われていなかった。しかし、獄中のマンデラを呼び寄せて会談し、マンデラを信頼してアパルトヘイト廃止を表明する。全住民参加のマンデラ政権が出来ると、当初は副大統領として参加したが、96年には連立政権を離脱して辞任。97年には政界を引退した。その後も貧困など多くの問題を抱えつつ、南アはマンデラ、ムベキ、ズマ、ラマポーザと一応民主政権が続いている。
(デクラーク)
 カンボジア王族で、カンボジア和平後に王党派政党を率いてフン・センと政権を争ったノロドム・ラナリットが11月28日に死去、77歳。1944年にシアヌーク国王の第二王子として誕生。長く続いたカンボジア内戦の後に、1991年のパリ和平会議後に最高国民評議会議長に就任した。1993年の実施された選挙では、王党派政党フンシンペック党を率いて、事前予想を覆す第一党になった。人民党のフン・センと二人首相となり、王政復古後は第一首相となった。しかし、1997年に両派の武力衝突が起き、フンシンペックが敗退して首相を解任された。その後は抵抗を続けたり、欠席裁判で有罪になったり、恩赦で帰国して政界復帰を目指したりするうち、次第に王党派は弱小化していった。フランスで死去。
(ノロドム・ラナリット)
 アメリカのミュージカル界で活躍した作曲家、作詞家スティーヴン・ソンドハイムが11月26日に死去、91歳。「ウェストサイド物語」の作詞、「フォリーズ」「太平洋序曲」「スウィーニー・トッド」などの作詞・作曲をしている。トニー賞とグラミー賞を8回ずつ、アカデミー賞を1回受賞するなど、アメリカでは非常に有名で重要な人物とされている。ミュージカルに関して、ウィキペディアに長大な記述が載っているが、僕にはよく判らない。 
(ソンドハイム)
ネルソン・フレイレ、1日死去、77歳。ブラジルのピアニスト、モーツァルトやシューマンで知られた。アルゲリッチとの親交でも知られる。
太田淑子、10月29日死去、89歳。「ジャングル大帝」「リボンの騎士」などの声優。テアトル・エコーでも活躍した。
中原伸之、1日死去、86歳。元日銀審議委員。大胆な金融緩和を主張し、安倍元首相のブレーンと言われた。
小川洋、2日死去、72歳。前福岡県知事。福田康夫内閣から菅直人内閣までの内閣広報官を務めた。
川嶋辰彦、4日死去、81歳。学習院大学名誉教授。秋篠宮紀子妃の父。
徳山諄一、8日死去、78歳。コンビでミステリーを書いた作家、岡嶋二人の一人。もう一人は井上夢人。
長谷川和夫、13日死去、92歳。精神科医で認知症への理解を広げる活動を続けた。非常に多くの著書がある。本人も晩年に認知症を公表した。
江上泰山、19日死去、85歳。元臨済宗相国寺派宗務総長。金閣寺炎上を僧侶として目撃した。
元幕内豊ノ海、20日死去、56歳。巨漢で知られ、最高位は前頭筆頭。99年引退後は二子山部屋の親方として3年間勤めた。
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中村吉右衛門、ワダエミ、古葉竹識等ー2021年11月の訃報②

2021年12月09日 22時52分35秒 | 追悼
 日本人の訃報だけでも書くことが多いので、外国人は3回目に。歌舞伎俳優の中村吉右衛門(2代目)が11月28日に死去、77歳。僕は歌舞伎をほとんど見ていない。だから円丈の落語について演目を語るようには、吉右衛門の弁慶は、俊寛は、などと書くことが出来ない。それが残念なんだけど、初代を追悼する「秀山祭」を2006年からやっているのは知っていて、一度は見ておきたいと思っていた。兄の白鸚より先に逝くとは思っていなかったのである。1944年に5代目市川染五郎(後の8代目松本幸四郎、初代白鸚)の次男に生まれた。母は初代中村吉右衛門の娘で、結婚するときに男児を二人以上産んで、一人は吉右衛門を継がせると約束したのである。そのため兄と違って中村吉右衛門(播磨屋)を継ぐ運命のもとに育つことになったのである。
(中村吉右衛門)
 しかし、父や兄とともに、松竹を離れて東宝に移った時期もあった。1961年から74年である。当時は中村萬之助を名乗っていて、兄の染五郎と「さぶ」(山本周五郎原作)を演じて大人気だったという。その時代は知らないが、その後は主に歌舞伎を中心に活躍した。他ではテレビの「鬼平犯科帳」で鬼平を演じたことが有名。多くの人はそれで記憶しているだろう。映画では「鬼平」劇場版を除けば脇役が多いが、篠田正浩監督「心中天網島」で紙屋治兵衛を演じて見事な演技を見せている。また香川県の「こんぴら歌舞伎」の復興に力を注いだことも重要で、その成功が各地に波及していった。テレビの文化番組のナレーター、美術展などの音声ガイドなどもかなりやっていたので、多くの人がどこかで接していたと思う。3月28日に倒れて、舞台を降板。一時復帰が伝えられたが、結局叶わなかったので、病状はかなり深刻なのかと想像はしていた。全く残念なことだ。
 (弁慶)(鬼平)
 衣装デザイナーのワダエミが11月13日に死去、84歳。本名は和田恵美子だが、「ワダエミ」と表記していた。夫はNHKの演出家だった和田勉で、夫の外部公演の舞台衣装を担当するうちに舞台や映画の衣装を数多く手掛けるようになった。1985年に黒澤明監督の「」を担当し、アカデミー賞衣装デザイン賞を受賞した。これはシェークスピア「リア王」を日本の戦国時代に移したものだが、確かに衣装は重要な役割を果たしていた。それをきっかけに、イギリスのピーター・グリーナウェイや中国のチャン・イーモウなどの作品を手掛けた。日本映画では勅使河原宏監督「利休」や大島渚監督「御法度」などがある。
(ワダエミ)(黒澤明「乱」)
 広島東洋カープ監督として1975年の初優勝に導いた古葉竹識(こば・たけし)が11月12日死去、85歳。現役時代は俊足の内野手(主に遊撃)として1958年から広島で活躍、二度の盗塁王に輝いた。1963年には打率3割3分9厘で、わずか2厘差で長嶋に及ばず首位打者を逃した。しかし、他の年は打率もそれほど高くなく生涯打率は2割5分ほどだが、生涯出塁率が3割を超えている。1970年に野村監督に請われて南海に移籍、翌71年に引退した。その後南海のコーチをしていたが、74年に広島のコーチに就任。75年に外国人監督ジョー・ルーツが突然辞任した後を継いで、5月に監督に就任した。
(古葉竹識)
 広島は各球団の中で唯一優勝経験がなく、「お荷物」扱いされていたが、この年に初めて優勝した。優勝決定は後楽園球場の巨人戦で、僕は大学の友人と授業後に見に行ったけど、もちろん入れず外から熱狂的な応援を聞いていた。ドームじゃない時代である。山本浩二衣笠祥雄のカープ黄金時代だった。79、80、84年にも優勝し、日本シリーズも制覇した。85年まで務めて退任、86年から3年間大洋の監督をした。2003年の広島市長選、2004年の参院選比例区に自民党から出馬したが、いずれも落選した。それはともかく、野球史に残る名監督で、野球殿堂入りしている。
(75年の初優勝、胴上げされる古葉監督)
 「神田川」の作詞家、喜多條忠(きたじょう・まこと)が11月22日死去、74歳。かぐや姫の「マキシーのために」が初の作詞で、その後かぐや姫のために「神田川」「赤ちょうちん」「」とヒット曲を書いた。「神田川」は自身の体験が基だと言うが、「四畳半フォーク」などと言われながら大ヒットした。この時代の曲は大体口ずさめるわけだが、僕は「マキシーのために」が一番好きだった。他にはキャンディーズの「暑中お見舞い申し上げます」もあるが、意外なことに石川さゆりや五木ひろしの演歌が多い。2017年に伍代夏子の「肱川あらし」で日本作詞家大賞受賞。
(喜多條忠)
 朝日新聞論説主幹だった松山幸雄が10月30日に死去、91歳。ワシントン特派員、ニューヨーク支局長、アメリカ総局長を歴任し、83年から91年にかけて論説主幹を務めた。国際派ジャーナリストとして当時は非常に有名で影響力もあった。「『勉縮』のすすめ」など多くの本が評判になったが、長生きして忘れられてしまった感がある。吉野作造賞、石橋湛山賞などを受賞している。
(松山幸雄)
 元ラグビー日本代表監督、早稲田大学名誉教授の日比野弘が11月14日死去、86歳。早稲田大学ラグビー部で活躍した。1970年に早大監督に就任して大学選手権、日本選手権で優勝した。76年、82~84年、87~88年に日本代表監督を務め、83年の海外遠征でウェールズ戦で接戦を演じた。今でも語り草と言われる試合だという。世界との差が大きかった時代の噺である。 
(日比野弘)
 占術家(新聞にそう出ている)の細木数子が11月8日に死去、83歳。「六星占術」が80年代にブームとなり、テレビにも多数出演して「視聴率の女王」と呼ばれた。
(細木数子)
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三遊亭円丈と川柳川柳ー2021年11月の訃報①

2021年12月08日 23時09分31秒 | 追悼
 2021年11月の訃報では瀬戸内寂聴を別に書いた。他にも重要な訃報が相次いだが、最初にまず落語家の三遊亭円丈川柳川柳の二人を書いておきたい。落語にちょっとでも関心がある人だったら、この二人の訃報が同じ月に続いたことに深い因縁を感じたと思う。二人はともにかつて「昭和の名人」と称えられる6代目三遊亭圓生の弟子だった。そして1978年の圓生の落語協会脱退問題に巻き込まれることになった。僕はこの二人の高座を何度となく聴いていて、特に円丈師は年齢からもまだまだ聴けるものと思っていただけにとても残念な思いがする。2021年になって寄席に出てないなと思って心配していたが…。
(三遊亭円丈)
 三遊亭円丈から先に書くが、11月30日に死去、76歳。1964年に圓生に入門し、1978年に真打に昇進して圓丈を襲名した。(ここでは本人がよく使っていた「円丈」と書く。)現在の新作落語の元祖というべき落語家で、現代落語に非常に大きな影響を与えている。もともと柳家金語楼の「兵隊落語」など新作落語はずっと存在してきたが、それらは大体「人情もの」だった。それに対し、円丈は不条理演劇のような奇想天外でSFのような設定を落語に持ち込んだのである。それは弟子の三遊亭白鳥三遊亭天どん等だけでなく柳家喬太郎や協会を越えて春風亭昇太桂文枝等に大きな影響を与えた。

 まさに新作落語の「ラスボス」というか「ビッグボス」のような存在であって、「円丈ゲノム」という落語会が開かれるぐらいである。「渋谷ジァン・ジァン」で開かれていた円丈主催の「実験落語の会」というのが、そもそもの源流だという。小劇場ジァン・ジァンは渋谷の公園通り、山手教会の地下にあって何度も行ってる。中村伸郎の「授業」(イヨネスコ作)とか、エリック・サティの「ヴェクサシオン」全曲演奏など今も鮮烈だ。上の山手教会は先に書いた瀬戸内寂聴の追悼で書いた富士茂子さん支援集会が開かれた場所である。だけど実験落語の会には行こうと思わなかったのである。当時は関心がなかったんだなあ。
(著書「御乱心」を持つ円丈)
 円丈は東京都足立区の東部にある六町(ろくちょう)、一ツ家(ひとつや)に長く住んでいた。僕も同じ足立区だが、東京の特別区は広いから一度も行ったことはない。むしろ東武線沿線に住む者からすれば、「陸の孤島」みたいな地域なのである。ところが2005年になって、「つくばエクスプレス」が開業するに伴って「六町駅」というのが出来た。そこから青井、北千住、南千住と乗れば、次は浅草駅になる。この浅草駅は東武や地下鉄銀座線の乗換駅ではなく浅草六区にあって、浅草演芸ホールの真下にある。これが円丈には嬉しいことで、浅草演芸ホールのマクラによく使われて、いつも大受けしていた。

 東京東部は東京人の中で「差別」されていて、中でも足立区は一番下になる。同じ足立区でも、千住に住んでる人は、荒川北方に住んでる人を「川向こう」と「差別」する。そんな「川向こう」であっても、そこは「東京の一部」には間違いないから、「埼玉より上」ではないか。というような隠微な差別心理を背景にして「悲しみは埼玉に向けて」という新作の傑作が生まれた。もっとも地方では受けないし、東京でも新宿末廣亭向きではないが、上野鈴本や浅草演芸ホールならば必ず爆笑になる。確かに面白いんだけど、聞いたときの気持ちはかなり複雑だ。地方出身の妻は非常に驚いたという。しかし、僕は長く教員をしていたから、確かに東京各地に「学力差」があることを現実問題として知っているのである。

 円丈最後の高座は2020年12月23日の国立演芸場の「悲しみは埼玉に向けて」だという。この日は「平成」時代には祝日だったわけで、毎年国立演芸場で円丈を中心に新作落語の会が開かれてきた。今年も白鳥、喬太郎、林家彦いち、柳家小ゑんで「年の瀬に新作を聴く会」として開かれる。もう発売初日にあっという間にネットで即売してしまう人気公演だが、僕は数年前に何とかチケットを確保して行ってみた。ところがそこでの円丈は非常に驚くべき混乱ぶりだった。はっきり言って落語になってなかった。そんなのを聴いたことがなかったが、本人もショックだったのだと思う。早くからホームページを持っていた落語家だが、謝罪の言葉が書かれていた。しかし、僕は何となく「加齢に伴う度忘れ」以上のものを感じて不吉な気がした。

 それ以後も寄席には出ていたが、以前は円丈が出ているから見に行こうという気が起こったが、そこまでは思わなくなった。その後も何回か見ているが、タブレットやネタ帳を見ながらやっていた。それもアリだとは思うけど、寂しい気もした。新作の話ばかり書いたが、晩年の高座では古典を演じることも多かった。圓生に古典をしっかり仕込まれていて、二つ目時代に130以上覚えたという。昔のことは忘れないと言うけれど、自分で作った新作より古典が自然に出て来る年齢になったのか。古典落語の大ネタもやっていたと言うが、むしろ「強情灸」なんかに感心した。チャッカマンで灸を据えるところなんか爆笑である。趣味も多く、特に「狛犬研究家」として有名だった。また「純喫茶」探訪やパソコンゲームなどもホームページでずいぶん書いていた。

 さて、そんな円丈の兄弟子だったのが、川柳川柳である。11月17日没、90歳。55年8月に圓生に入門したが、古典絶対主義の師匠に対して、新作や音楽で売れてしまってなかなか昇進出来なかった。同じく55年1月に入門した5代目圓楽は62年に真打に昇格したが、川柳(当時の名はさん生)は74年まで真打になれなかった。しかも、圓楽、圓丈らは師匠の「圓」の付く名を貰ったのに対し、さん生は師匠の後ろの方の「生」のまま真打になったのである。それは圓生の性格もあるようだが、さん生の方にも度重なる飲酒による失敗があった。特に有名なものに師匠宅前での「脱糞事件」というのまである。
(川柳川柳)
 戦前の古今亭志ん生にも「トンデモエピソード」がいっぱいだが、戦後で一番トンデモだったのはこの人ではないか。そこで1978年に様々な理由あってのことだが、三遊亭圓生を中心に落語協会を脱退する事件が起きた。これはもともと古今亭志ん朝や立川談志なども参画予定の大反乱だったのだが、東京の寄席4つの「席亭会」が認めず、結局落語協会を脱退したのは圓生一門に止まった。圓丈は疑問を持ちながらも師匠に従って脱退し、1980年に圓生が急死した後に落語協会に復帰した。そのあたりのことを書いた「御乱心」という内幕ものは最近小学館文庫で復刊されて、ブログで紹介した。(「伝説の書、三遊亭円丈「御乱心」復刊!」)

 さん生も師匠について行くつもりではあったが、実は脱退話を聞かされていなかった。そのことを酔った勢いで志ん朝に暴露してしまい、もめる原因となった。その結果師弟関係が破綻して、さん生は落語協会に残留することを決めた。破門され三遊亭を名乗ることも認められず、仮に柳家小さんの一門となって川柳川柳(かわやなぎ・せんりゅう)を名乗ることにしたのである。そういう過去を持ちながら、高座ではいつも大受けだった。ある意味、他の誰よりも受けていたと思う。何度も聞いているが、数年前までよく寄席に出ていた。同じ噺だから別にいいかと思っているうちに、気付いていれば寄席で見なくなっていた。
(著書「ガーコン落語一代」を持って」
 その噺というのが「ガーコン」である。これは軍歌とジャズで綴る昭和音楽史のようなものだが、ガーコンというのは足踏み式脱穀機の音のこと。とにかく抱腹絶倒のネタで近年は他の人がやっても受けるという。これに甲子園出場校と入場曲を挙げていく「パフィーで甲子園」を演じることもあった。そしてトリを取る時などは、ソンブレロ姿に変わってギターを抱えて漫談を語る。それも見ているが、「爆笑王」というに相応しい大受けだった。二人とも寄席では大受けするので、席亭には有り難かっただろう。本当にちょっと前まで、毎月のようにどこかの寄席に出てたんだけど、亡くなってしまったんだなあと思うと悲しい。
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扉座公演「ホテル・カリフォルニアー私戯曲 県立厚木高校物語ー」を見る

2021年12月08日 00時14分29秒 | 演劇
 紀伊國屋ホール扉座公演「ホテル・カリフォルニアー私戯曲 県立厚木高校物語ー」を見た。1997年に同じ紀伊國屋ホールで初演された有名な作品で、劇作家横内謙介の高校生活を描いている。ものすごく面白いという評判通りの作品。扉座(1982年に劇団善人会議として結成)の40周年公演である。初演当時のメンバーができる限り、同じ役で出ているという。六角精児などが詰襟学生服で出演しているが、そういう設定なんだと判っているから違和感はない。とにかく面白くてよく出来ているが、客席には空席もある。19日までやってるから、是非多くの人に見て欲しいなと思った。ぴあやカンフェティなどのチケットサイトでは売ってなくて、扉座オンラインチケットか紀伊國屋ホール5階のチケットセンターでしか買えないので注意。

 進学校の神奈川県立厚木高校に入学した横山は特にやりたいこともない。潰れると困るので人数確保のため、頼まれて幽霊部員でいいからと演劇部に入る。でも演劇など全く関心がない。ところが「父兄面談」(「父兄」なんて言ってた時代なのである)に来た母親に東大目指せとか言われて、グレてやるなんて口ずさむ。それが新宿に行ってやるというセリフになるのがおかしい。舞台となる厚木というのは、神奈川県中央部にあって、小田急線で新宿に一本である。その日演劇部の先輩に会って、新宿に連れて行ってやると言われる。紀伊國屋ホールでつかこうへいの「熱海殺人事件」をおごるというのだ。そこで彼は演劇に目覚めてしまった。

 そして演劇に入れ込んで、初めて書いた作品「山椒魚だぞ!」で、全国大会まで進出する。これがいかに凄いことか、高校野球で甲子園に出る以上の凄さだと思うよ。なぜって作品を自作したわけだから。演劇にドラフト会議があれば、これで文学座から1位指名、劇団四季と1億円で契約とか言ってるのがおかしい。でも、そんなものはないから、受験勉強に励んで大学を目指さなければいけない。しかし、高校最後なんだから、文化祭の後夜祭を盛り上げたい。という生徒が出て来るが、受験を控えてクラスの皆は協力できるか。生徒会の話、革命とか受験勉強に意味はあるかなど、70年代の青春らしきセリフが散りばめられていて共感する。

 70年代の曲(「ホテル・カリフォルニア」だけでなく、「心の旅」「いとしのエリー」など多数)がいっぱい流れるので、同時代で知ってるものには懐かしくてたまらない。つかこうへいに熱中するのも懐かしい。全体的に懐かしいムードが覆っているが、それだけでなく「青春」というものの普遍的な匂いを放っている。置かれた時代、地域は違っても、多くの人にこの戯曲が好評をもって迎えられたのも、つまりは「同じようなこと」を人は抱えていたのだ。受験や恋愛、人生行路、人間関係のつまずきなどが誰しも何かしら思い当たるのではないか。ラストでは(時代がちょっと違うが)ロッド・スチュワートの「セイリング」が流れる。高校を出て荒海に乗り出すのである。

 僕も最初の方で「フォークソング」の「マイムマイム」や「オクラホマミクサー」が流れると、懐かしさに心が満たされた。僕は高校時代に生徒会役員をしていて、文化祭前日に先生には相談せずに、突然「前夜祭をやりましょう」と放送して「オクラホマミクサー」を流した思い出がある。(それは「定時制の成績会議中だ」とすぐに先生たちに中止させられてしまったが。)そんなこんなで、自分の高校時代をいろいろと思い出したのだが、同時に今となっては教員時代の文化祭や演劇部のことの方をもっと思い出してしまう。クラスの出し物も大変だったが、文化祭全体の担当をして盛り上がった時は本当に嬉しい。それにしても、初めて書いて、全国まで行った横内謙介は本当に凄いなあ。

 横内謙介(1961~)は僕より6歳若い。70年代の6歳はひと世代違うほどの意味があるだろう。年齢からして、三島事件連合赤軍事件に同時代人として大きな衝撃を受けた世代じゃないだろう。演劇部や文化祭に打ち込んだからか、現役では受からず、一浪して早稲田大学第一文学部に入学、学生時代から演劇活動を続けている。僕もあまり意識していなかったが、スーパー歌舞伎を多く手掛けている。「八犬伝」「新・三国志」「ワンピース」「新版オグリ」など皆この人。それとウィキペディアを見たら、テレビドラマ「ダンドリ」(2006)をこの人が書いていた。いや、担任していた生徒が出てたのです。

 この日は新宿武蔵野館で「悪なき殺人」という映画を見て、紀伊國屋書店で文春や河出の文庫新刊を確認、続いて新宿中村屋でシーフードカリーを食し、紀伊國屋ホールへ向かうという「オール新宿デイ」。それぞれ何度も行ってるけど、同じ日に全部行ったのは初めてかもしれない。紀伊國屋ホールは久しぶりで、それというのも耐震性に問題ありとされたから敬遠していた。都内では他に日大板橋病院(大江光が産まれたところ)も引っ掛かっていて、だから建て替えで裏金問題に通じる。紀伊國屋ホールは数ヶ月耐震化工事をしていたから、もう大丈夫かと思う。椅子が良くなっていたのが嬉しい。演劇チラシが山のように置いてあった机は少し小さくなったように思う。
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土方歳三生家から高幡不動、百草園へ

2021年12月06日 22時13分39秒 | 東京関東散歩
 しばらく散歩をしてなかった。マスクをしてると大変なのである。ようやく冬めいてきて、関東は冬だと晴れるから、少し寒さを我慢すれば散歩シーズンでもある。僕は神社仏閣に関心が薄く、行ってないところが東京近辺でも数多くある。そういうところを一つ一つ訪ね歩けば、行き先に困らない。前から一度行ってみたいと思っていたところに、高幡不動(たかはたふどう)がある。高尾山目指して京王線に乗れば、途中の大きな駅として昔から名前を知ってる。でも、本当は金剛寺というなんてのも初めて知った。ちょうど紅葉の最後の頃で五重塔も美しい。もっともどう見ても最近の建立で「平安初期の様式を模した」とある。
  (高幡不動五重塔)
 ところで今回まず行ったのは、そこではない。「土方歳三資料館」に行きたかったのである。映画「燃えよ剣」も公開され、人気も高まる新選組副長・土方歳三(ひじかた・としぞう)だが、生まれたのは現在の地名で言えば東京都日野市になる。多摩動物公園も日野だが、僕は今までそこしか行ったことがない。僕からすれば東京の西の隅のように思えるが、地図で確認すると東西で言えば東京の真ん中あたりで。(伊豆・小笠原諸島を除く。)まず京王線高幡不動駅から、多摩モノレールで一駅、万願寺駅へ。
 (多摩モノレール万願寺駅)
 多摩モノレールというのも名前は聞いたことがあるが、どこからどこへ行くのか初めて知った。たった一駅だから歩いてもいいんだけど、土地勘がないのとモノレールにも乗ってみたかったので試乗気分。高いところから多摩丘陵を望める(ジブリ映画「耳をすませば」の舞台にも近いあたり)が、駅からは写真が撮りにくい。そして万願寺えきすぐに、土方歳三の生家跡に土方歳三資料館がある。ところがここは日曜日に月2回だけ開館というところなのである。
   (土方歳三資料館)
 生家は建て直されていて、庭に入るとすぐに土方の銅像がある。内部は写真禁止なので撮影出来ない。「愛刀 和泉守兼定」や多くの手紙などが展示されている。しかし、まあ特に土方歳三の熱烈なファンでもない限り、わざわざ行ってみる必要もない感じがする。展示物だけでは、500円の価値があるかは微妙だが、全体合せてムード料というところだろう。
  (土方歳三資料館)
 上の写真のトップは歳三手植えの矢竹とある。2枚目の写真は、裏から受付を撮った感じだが実はそこに当時使っていたという木刀が飾ってある。最後は庭の写真。高幡不動に戻るにはモノレールを目当てにたどればいいと思って、歩き始めたら案外近かった。途中で浅川を渡る。多摩川の支流の一つである。下の2枚目の写真をよく見ると、真ん中に鷺がいる。遠くに山、川には鷺という風景は、やっぱりちょっと遠くに来た気がする。 
 (浅川)
 川を渡ってしばらく行くと駅が見えてくる。駅を迂回していくと地下通路があった。「不動尊は3分 不動産は3階」というビルの広告が面白い。駅前から参道が見えるから、高幡不動へは迷わない。結構立派な参道に見えたが、行ってみれば案外短かった。国宝はないが、重要文化財指定の建造物は幾つかある。下の3枚目の仁王門は参道の向こうに雰囲気を出している。ここにも土方歳三の銅像があって、「ひの新選組まつり」をやっている。日野全体で「新選組のふるさと」を宣伝しているが、今はもちろん「燃えよ剣」に出て来るような農村ではない。単に郊外都市というだけで、幕末ムードを偲ぶのは難しい。
  (仁王門)(土方歳三像)
 境内を歩いて行くと、不動堂がある。1342年建立で、重文指定。さらに奥に進むと大日堂があって、そこでは天井に「鳴り龍」の絵があるというけど、もう何だか面倒になってしまって見なかった。そのさらに奥に墓所もあって、そこにも興味深いところがあるらしいんだけどパスしてしまった。ここは紫陽花の名所なので、またいつか初夏の頃に訪れてみたい。
(不動堂) (大日堂)
 何だか土方歳三資料館も高幡不動もおざなりに見た感じだが、それはこの後「百草園」(もぐさえん)まで歩きたかったのである。高幡不動の隣駅が「百草園前」で、京王電鉄が所有する「京王百草園」という庭園がある。名前は知っていたが、場所は今回初めて認識した。12月5日まで「紅葉まつり」だというから、行ってみようかと思った。シーズン一回ぐらい紅葉を見たい。一駅だから高幡不動から歩けば、大分歩数も稼げるはず。地図を見る限り、道は一本道で判りやすい。行けども行けどもたどり着かないから、段々疲れてきたが、まあ歩くしかない。ホントにこの道でいいの? とその段階になってスマホで検索すると合っていた。やっとここで曲がれば百草園という道を行き、後130メートルと書いてあるところから、とんでもない急坂の連続で参った。
   (京王百草園)
 写真で判るように、紅葉は残っていた。最後に疲れてしまって、入ったらまたも坂なので、あまり頑張れない。なんとなく名前から「向島百花園」みたいなところかと思っていたら、全然違って山ではないか。いやあ、驚いた。
   (京王百草園) 
 上の写真の1枚目は池の風景。3枚目の展望は、本当なら筑波山も見えるというのだが、とても見える感じじゃなかった。最後の写真は若山牧水の歌碑と説明で、かつて牧水はここへよく来ていた。ある年は女性と泊まりがけで来たが、悲恋で終わったというようなことが書いてあった。芭蕉の句碑もあるというが、もっと上まで行く元気がなかった。まあ高幡不動は別の季節に来てもいいなと思ったが、百草園はもういいか。JR日野駅近くに、「新選組のふるさと歴史館」などがあるので、いずれそっちも行ってみたいと思っている。新選組ファンじゃないんだけど、幕末史の有名人には違いないから。
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映画「皮膚を売った男」、アートと政治をめぐる奇想

2021年12月05日 21時01分37秒 |  〃  (新作外国映画)
 「皮膚を売った男」という映画が公開されている。チュニジアの女性監督カウテール・ベン・ハニア(1977~)の作品。今まで劇映画、ドキュメンタリー映画を何作か作っているが、日本では紹介されていないので、名前も全く知らない。今年の米国アカデミー賞国際長編映画賞ノミネート作品である。今年は受賞作「アナザーラウンド」の他に「少年の君」「コレクティブ」「アイダよ何処へ」とノミネート作品が全部すぐに公開された。僕は「皮膚を売った男」が一番面白かった。

 2011年のシリアサムアビールは同級生どうしで愛し合っている。しかし、アビールの親は外交官の男と結婚させたいと考えている。サムは何とか彼女の心を捕まえたいあまり、電車の中で結婚しようと言い出す。自分たちは自由だ、革命だと叫びだし、車内では皆が踊り出す。しかし、この時の言葉が密告されたらしく、電車で革命を呼びかけたとして逮捕されてしまう。何とか逃げ出したものの、もうシリアでは生きていけない。姉の車で隣国のレバノンに逃れる。アビールとはスカイプで連絡を取るものの、会えないうちに結婚を強要されて夫とベルギーに住むらしい。

 難民のサムには当然出国のすべもなく、パソコン越しに話をするだけである。そんな時に現代美術のアーティストと出会って、ある提案を受ける。「背中」をアート作品として売る契約を結びたいというのである。背中にタトゥーを入れることで、彼自身が生きるアート作品となって、国境を越えられるというのである。そして背中を売ったサムは特別なヴィザを得られて、アビールが住むベルギーで開かれる美術展に出掛ける。それは彼にとって彼女に近づく手段だったはずだが、契約に縛られて美術館でずっと座っていなければならない。背中はアートかもしれないが、背中だけを曝し続けることで屈辱感も起きてくる。
(サムの背中)
 ここで「難民」の苦闘を描く作品から、現代アートとは何かというメタアート作品の性格を帯びてくる。「背中」だけを売ったわけだが、皮膚には吹き出物が出ることもある。美術家は作品を売って生活するわけだが、じゃあサムの背中を売ることは出来るのか。オークションでサムの背中が売れたときに、彼は驚くべき行動に出る。そのことからアビールとの関係も二転三転、二人の関係はどうなるんだろうか。シリア難民という政治的テーマと現代アートをめぐる奇想天外な発想が見事に溶け合った傑作だ。

 これは現代アーティストのヴィム・デルボアという人の実際の作品にインスパイアされているらしい。彼は様々な物議を醸す作品を作っているらしいが、その中に豚にタトゥーをするというのがあったらしい。この作品には美術館の撮影などでアドバイザーを務めた他、映画に出たくなって弁護士役で出ているとのこと。主演のヤヤ・マヘイニはシリアの弁護士で、俳優経験はないとのことだが、非常に達者な演技をしている。ヴェネツィア映画祭オリゾンティ部門で男優賞を獲得した。アーティストの助手役でモニカ・ベルッチが出ている。ラストになって、シリアのラッカに戻ると決めるが、そこで驚愕の展開が…。
(カウテール・ベン・ハニア監督)
 今年は「モロッコ、彼女たちの朝」という未婚で妊娠した女性を描く映画があった。マリヤム・トゥザニという女性監督の作品で、イスラム圏でも女性監督の活躍が著しい。シリアはアサド政権の独裁が長く続いていたが、社会主義を掲げるバース党政権だからか、冒頭の電車シーンでもアビールはスカーフをしていない。客の中には頭を覆っている女性が半分ぐらいで、そうじゃない人もいる。映画はフィクションだけど、恐らくシリアの現実を反映していると思う。

 結婚は親が決めるものという考えと当事者による恋愛結婚という考えが相克している。それは過去の日本でも同様だが、アビールの場合外交官である夫と結婚しないと内戦下のシリアから出国できないという悲しい現実があった。シリア内戦を描く映画はかなりあるが、全く異色のフィクションになっている点が興味深い。チュニジア人監督という点でも見逃せない。
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「身を切る改革」の切られる側ー「日本維新の会」考③

2021年12月04日 23時04分38秒 | 政治
 大阪府の吉村洋文知事の選挙演説をテレビで放送していたのを見たら、大阪10区で大人数を前にしてこんなことを言っていた。「ここは強い人がいるんです。名前は言わないけど。(小声で)辻元清美。」ところで、また別の日にテレビを見たら、こんなことを言っていた。「大阪でコロナが増えたのは知事が悪いからって言う人がいて、ホント腹立ったなあ。誰とは言わないけど、立憲民主党の人。(小声で)枝野幸男。」表現は少し違ってるかもしれないが、要するに「笑わせ方」のツボが同じ。大阪では選挙演説でも、まずは笑いでツカミを必要とするらしい。ちゃんと初めから名前を言えばいいじゃないかと思うけど、それが大阪の政治風土なのか。

 もう忘れている人が多いと思うから、ちょっと「維新の会」の歴史を振り返っておきたい。まずは2008年1月の大阪府知事選で、橋下徹が当選した。すべてはそこから始まったわけだが、その後橋下知事は大阪市を解体して大阪府と一体化する「大阪都構想」を主張するようになって、2010年4月に地域政党「大阪維新の会」を結成した。橋下知事は大阪市長だった平松邦夫と対立を深め、2011年11月に知事を辞任して大阪市長選に立候補、再選を目指した平松を大差で破った。この時の府知事選には松井一郎が出馬して、大差で当選した。こうして2011年末段階で「大阪維新の会」が府市のトップを握ることに成功したわけである。

 「大阪維新の会」は2012年末の衆院選で国政進出を図り、「立ちあがれ日本」と合同して「日本維新の会」(第一次)を結成した。この時は石原慎太郎が代表を務めて、橋下徹が代表代行だった。選挙では一挙に54議席を獲得して第3党となった。しかし、石原系と維新系の対立が絶えず、2014年夏に「みんなの党」との合同をめぐって分裂した。石原系は分党して「次世代の党」を結成し、後「日本のこころを大切にする党」と改名、2018年に自民党に合流した。一方、維新系は「みんなの党」の中の合流派が結成した「結いの党」と合同して、2014年8月に「維新の党」を結成した。(橋下徹、江田憲司が共同代表。)

 2015年5月17日に、大阪都構想の住民投票(1回目)が行われた。それに先だって、住民投票に専念するとして橋下共同代表、松井幹事長が辞任して、江田代表、松野頼久幹事長となった。大阪都構想否決によって、江田代表も辞任し、松野代表、柿沢未徒幹事長となるも、大阪系と対立が絶えず、離党も相次ぐ。両者の対立は泥沼化したが、結局大阪系議員が2015年11月に「おおさか維新の会」を結成し、残った「維新の党」は民主党と合同して「民進党」となった。この間、橋下は2015年12月の大阪市長の任期終了をもって政界を引退し、松井一郎が代表となった。2016年の参院選後、「おおさか維新」では党勢拡大が望めないとして、「日本維新の会」に名称を変更した。他の野党との連携をめぐって分裂抗争を繰り広げた結果、結局大阪系のみの党になったわけである。

 そのため、どうしても大阪中心のローカル勢力という感じが否めず、2017年の衆院選では11議席に落ち込んだ。その勢いが復活したのが、2019年の統一地方選だった。2015年の橋下後任を選ぶ大阪市長選で当選していた吉村洋文と、大阪府知事を2期務めていた松井一郎が、ともに辞任してお互いの後任選挙に出るという超奇策に打って出たのである。これが思いのほかに成功して、吉村知事が全国的に注目されるきっかけともなった。この「クロス辞任」など何の意味があるのか全然判らないけれど、それが大受けするのだから大阪の政治風土を熟知しているのだろう。それまでも府市とも維新が握っていたのから、知事と市長を交換することの意義を理解出来ないというのが僕の感想だったのだが。
(「身を切る改革」を訴える)
 その「維新」は常に「身を切る改革」が大好きである。「大阪都構想」と言っても、要するに「大阪市解体」なんだから、解体される大阪市民からすれば福祉などの住民サービスの後退が心配である。だからこそ、2回にわたる住民投票もともに否決されたわけだろう。特にもう終わったと言っていたのに、コロナ禍に2度目の住民投票を行った政治責任は大きい。それは大阪で年末に大阪の新規感染者を増やす原因になったのではないかと思う。それはともかく、「身を切る改革」と言うと潔い感じがするけれど、切られる側も存在するということをどう思うんだろう。
 
 特に「議員定数を減らす」というのは、その結果「少数派の代表が減ってしまう」ということを意味する。「税金の無駄遣いをなくす」ようなことを主張して「多数派の主張を通りやすくする」ものだ。この間、大阪市営地下鉄を民営化したり、大阪の文化施設、文化行政を「虐待」してきた。「民間ではあり得ない」が口癖だが、民間じゃないんだから当然ではないかと僕は思う。「身を切る改革」で不採算部門を切り捨てれば、企業だったら決算に好影響を与える。しかし、行政は全国民(全住民)が対象なので、切り捨てたとしても今度は福祉の対象になってしまう。

 もともと大阪で維新を立ち上げた勢力は、自民党の地方議員が中心だった。だから「維新は自民から出た」わけだが、自民党の中の二つの潮流、「新自由主義的な競争政策」と「国家主義的な国家観」を今でも純粋培養しているのが「日本維新の会」ではないか。「青は藍より出でて藍より青し」ではないが、「維新は自民より出でて自民より自民らしい」とでも言うような感じがする。その「出生」からどうしても大都市中心で、「切られる」側の地方では支持が伸びないような気がするが、その切られる側への想像力の不足には注意が必要だ。
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大阪にカジノ反対運動はないのかー「日本維新の会」考②

2021年12月03日 22時46分19秒 | 政治
 最近の立憲民主党批判に「何でも反対」というのがある。テレビで見ていたら、本当にそんなことを言ってる人がいて驚いてしまった。実際の法案反対率は近年の通常国会の内閣提出法案の場合、15%ぐらいだという。国会(衆議院)のホームページを見てみると、全会一致が一番多い感じがしたが、共産党だけ反対という法案もかなり多い。とにかく、野党の仕事は「政府与党の提出法案を厳正に審議すること」に尽きるだろう。問題法案に反対するのは、野党の義務であり存在理由である。

 最近新聞で若い人の選挙に関する投書を読んだが、記憶にあるのは安倍首相時代だけだと書いてあった。選挙権を得たばかりの18歳の高校生にとって、8歳だった10年前の大震災はうっすらと記憶にあるかもしれないが、確かに民主党政権は覚えていないだろう。その頃の自民党は民主党閣僚の揚げ足取りのような質問を繰り返していた。民主党政権は期待外れのことが多かったが、その時期の自民党の対応も建設的だったとは言えない。今の高校生は「高校授業料無償化」が民主党政権で実現したのを知っているのだろうか。その法案に公明党は賛成したが、自民党は反対した。そして政権復帰後に「所得制限」を設けた。

 もう皆が忘れてしまったのかもしれないが、覚えておいた方が良いことだ。反対するには反対するだけの理由があるのであって、野党がしっかりと反対しているのを批判するなんて、有権者のレベルも落ちているのかもしれない。しかし、それを後押しするような政党もあったわけで、「日本維新の会」は選挙期間中に「立憲共産党」などと口を極めて非難を繰り返した。前には馬場幹事長(当時、現共同代表)が「立憲民主党は日本に必要ない政党」とまで述べた。

 僕に言わせれば実におかしな話で、「閣外協力」とは「維新が安倍政権にやってきたこと」じゃないかと思ってしまう。もちろん、政治の普通の意味では、閣外協力とは「首相指名選挙で与党党首に投票するが、内閣には閣僚を送らないこと」である。しかし、自民党は衆参で過半数を得ていて、数で言えば公明党の支持も要らない。選挙運動中から協力しているので、公明党は閣僚一人を送って「連立政権」を構成するけれど。その意味では「日本維新の会」は野党に間違いないが、これぞと言う与野党対決法案では、内閣提出法案に賛成することが多い。例えば「共謀罪」もそうだったし、「カジノ(IR)設置法」もそうだった。
(カジノ法は自公維の賛成で成立)
 IR法案はむしろ「維新」のための法案というべきだったかもしれない。橋下徹大阪府知事(後に大阪市長)は、ずいぶん前からカジノを夢洲に設置したいという意向を表明してきた。そこは2025年に大阪万博を開くという埋め立て地である。東京で五輪をやるなら、大阪は万博だというような発想で、今さら万博に人が集まるのか。と思っていたら、そこに新型コロナが襲ってきた。2025年には「密」を心配しなくてもいいのだろうか。そうなっていたとしても、このような大型集客イヴェントが成功するのか。それはともかく、維新はそこにカジノを建設することを考えている。
(カジノ推進の橋下元府知事)
 しかし、僕が不思議なのは、大阪にはカジノ反対運動がないのだろうか横浜では住民投票を求める直接請求や市長のリコール運動(不成立)まで起こった。そして市長選では当時の菅内閣の閣僚だった小此木八郎氏が、閣僚を辞任してまで立候補して、その際に「カジノ反対」に舵を切った。しかし、立憲民主党などが支持した山中竹春氏が当選し、カジノ推進政策は覆された。近畿圏で同じくカジノ誘致を目指している和歌山でも反対運動が報道されている。それに対して大阪の動きは報道されない。検索してみたら、「カジノに反対する大阪連絡会」というホームページが見つかった。「明るい民主府政をつくる会」が中心らしいから、共産党系の運動だろう。そして、2019年以来、更新されてないようだ。
(大阪のカジノ反対のチラシ)
 コロナ禍でカジノ誘致も進んでないのだろうが、反対運動も大きな盛り上がりにはなっていないのではないか。横浜の場合、林文子前市長はカジノ誘致は「白紙」と述べて当選した経緯があり、「公約違反」という批判が付きまとった。維新の場合、当初からカジノ賛成を表明しているから、公約違反という批判は出来ないんだろう。東京でも過去の都知事選では「五輪招致反対」を正面から主張した候補はいなかった。それを考えると、大阪でも「万博そのものに反対」は言いにくいのかもしれない。万博に向けて、維新への批判が難しい状況なのか。しかし、権力への反骨は大阪の文化の根本に存在してきた。このままカジノ誘致まで反対なく進むとは考えられない。そういうところから「維新」時代の次の時代が始まるのではないか。
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最大の敵は「週刊文春」?-「日本維新の会」考①

2021年12月02日 22時55分38秒 | 政治
 2021年の衆院選で「日本維新の会」が41議席を獲得し、第3党になった。この党のことはしばらく書いてなかった。大阪で登場したときは、教育に強権的に介入する姿勢が露骨だったので、何回も書いている。また「大阪都構想」というおかしなものを強行することには、何度か反対論を書いた。(そもそも僕は戦時中に作られた「東京都」にも反対である。)しかし、「大阪都構想」は住民投票で二度に渡って否決されたから、僕はもう書く必要もないと思っていた。今回の衆院選で「政治は結果」だと松井代表が何度も演説していたが、「大阪都」が二度も否決された「結果」をどう思っているのか、実に不思議な思いがした。
(衆院選開票日の「日本維新の会」)
 今回は様々な事情が重なって、各ブロックで比例票が積み上がった。そのため近畿ブロック以外でも多くの議席を獲得することになった。議席数は小選挙区で16議席比例区で25議席。小選挙区の当選者は大阪で15、兵庫で1だった。(大阪は維新が候補を立てなかった4つ以外は全勝。その4つは公明党である。)比例では東北1、北関東2、南関東3、東京2、北陸信越1、東海2、近畿10、中国1、四国1、九州2、合計25議席となる。北海道を除く全ブロックで議席を獲得した。しかし、近畿ブロック以外をよく見てみると、惜敗率は6、7割程度が多く、小選挙区で2位につけているところも5区程度。徳島1区ではわずか20.1%の惜敗率(当選の仁木博文が約10万票で、維新の吉田知代が約2万票)で当選した例もある。

 僕は今回これほど「維新」が勢力を伸ばすとは予想していなかった。何故かといえば、石崎徹青山雅幸を直前になって公認したからである。新潟1区の石崎徹は2012年総選挙で自民党から出て西村智奈美を破った「安倍チルドレン」の一人。14年も小選挙区で当選、17年は比例復活だった。しかし、2019年に秘書に対する暴言が「週刊新潮」で報道された。秘書はそれまでに何度も暴行を受けていたとして被害届を出し、石崎は傷害罪、暴行罪で略式起訴され、罰金20万円となった。自民党を離党後も議員を続けていたが、維新の公募に応じた後で辞任した。選挙は当選した西村智奈美12万7千票に対し、わずか1万8千票で落選した。
(石崎徹前議員)
 青山雅幸は2017年に立憲民主党から静岡1区に立候補し、第3位だったものの比例区で当選した。しかし、当選直後に「週刊文春」が秘書に対するセクハラ疑惑を報道した。立憲民主党は会派への入会を認めない処分をし、無所属で議員を続けていたが、2020年に維新の会派に入った。本人は事実無根を主張して、逆に名誉毀損などで告発している。今回は維新から静岡1区に出馬し、自民、立憲、国民に続く最下位の4位。当選の上川陽子元法相10万票に対し、わずか1万7千票で落選した。青山はまあ法的には問題ないかもしれないが、石崎は罰金とはいえ有罪である。「維新の会」はスキャンダルが報じられて元の党に居られなくなった議員の救済機関なのか。全国各地で多数の候補を擁立するためには、誰でも良いのだろうか

 こういう公認をしている党が大きな支持を獲得するとは思えなかったのだが、有権者の多くは知らなかったのかもしれない。今まで「維新」の議員には問題行動、問題発言で離党した人が多い。かつての大阪市で区長、公立学校長の「公募」を行った際も、選ばれた人には多くの問題があった。はっきり言ってしまえば、「維新の公募に応じる」という段階で、何だかうさんくさい人物が寄ってくる気がする。そうでなければ、石崎、青山前議員などを公認できないはずだ。今までそれなりに地域で活動して知名度がある候補もいるが、中には突然「落下傘」で乗り込んできた新人候補もいる。それらの人が風に乗って当選してしまったが、よほど引き締めないとスキャンダルを起こすのではないか。41人が次回までに何人になっているだろうか。

 「維新」の敵は、まず「週刊文春」や「週刊新潮」だろう。どの党もスキャンダルがあれば報じるだろうが、今一番注目されそうなのは、躍進した維新議員のスキャンダルではないか。実際、もう伊東信久という衆議院議員(大阪19区で小選挙区当選)が、マルチ商法業者の講演をしていたとか、議員会館を不適切に使っていたなどと報道されている。今後もスキャンダル報道はあり得ると思っていた方が良いと思っている。まずは本筋とはちょっと違うことを書いたが、こんなことも誰も指摘していないのが不思議。
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日本の低賃金、「連合」の重大な責任

2021年12月01日 22時51分01秒 | 政治
 政党や選挙の問題は終わってないのだが、その前に日本最大のナショナルセンター(労働組合の中央組織)である「連合」(日本労働組合総連合会)について考えておきたい。と言うのも、日本の賃金水準が国際的に比較してあまりにも低いことを知って愕然としたのである。OECD(経済協力開発機構)調査を見れば、その低さは一目瞭然。アメリカの半分程度で、韓国よりも低くなっている。これはドル換算なので、円安だから低くなるとも言える。しかし、実質賃金でもビッグマック指数で比べても同じような状態だという。ビッグマック指数というのは、マクドナルドのビッグマックの値段を国際比較したもので、日本の390円は先進国最安だという。
 (日本の賃金の国際比較)
 一体この違いはどこから来たのだろうか。2012年以後の安倍政権下の円安誘導政策(「大胆な金融緩和」)が背景にあるのだろうが、それにしても他の先進国は上昇している。小泉政権以後、規制緩和の名のもとに派遣労働の大幅な緩和が進んできた。また大企業も賃金を抑えて内部留保を積み上げるところが多かった。そういう政府や企業の問題が大きいとは思うが、一方で労働者を守るために存在するはずの労働組合はこの間何をしていたのだろうか。本来、民間企業の賃金は労使の協議で決まるべきはずのものだ。近年では政府が賃上げの旗を振っているが、何だかおかしな感じがする。

 その労働組合の最大組織である「連合」は加盟組合員総数700万ほどにもなる、恐らく日本最大の組織である。宗教団体などでもっと多い信者数を公表しているところはある。「幸福の科学」や「創価学会」などがそうだが、宗教団体の性格上、家族をまとめて集計するなど、ある程度大まかな数だろう。一方、労働組合はその性格上一人一人の会費がきちんと払われているはずで、組合員の帰属意識には濃淡があるとしても、会員名を特定できる組織としては最大じゃないか。

 その連合で、第7代の神津里季生(こうづ・りきお)会長の任期が2021年9月で終わるにも関わらず、後任会長がなかなか決まらなかった。誰も立候補の意向を見せず、会長候補の届け出期間を延長して内部調整を行った結果、初の女性会長として芳野友子が就任した。所属はJAMで、「ものづくり産業労働組合」と称している。機械・金属関係の大手・中小の労働組合が結集した組織である。芳野はミシンで知られるJUKIに高卒で入社した。前任の神津は東大を出て新日鉄に入社、その前の古賀伸明は宮崎大学を出て松下電器に入社である。労働運動なんだから学歴は要らないはずだが、やはり大卒、基幹産業出身者が多い。
(芳野友子会長)
 いかに今回の芳野会長が異例の人事だったかが判る。コロナ禍で活動が厳しい中、21年衆院選、22年参院選を控え、立憲民主党国民民主党の「分裂」という政治状況の中、大組合には率先して会長を引き受ける覚悟が持てなかったのではないか。そこに「女性会長」が現れて、注目を集めることになった。芳野は岸田内閣の進める「新しい資本主義実現会議」の有識者委員にも選ばれた。労働団体枠と女性枠を一人で兼摂できるから、政権にとっても「使い勝手が良い」人事ではなかったか。

 ところが芳野は就任以来、立憲民主党と共産党の「共闘」を批判し続けている。選挙後には「連合の組合員の票の行き先がなくなった」などとも非難した。これは言い過ぎである。連合所属組合の出身議員は、数で言えば立憲民主党の方が多い。比例区はもちろん、ほとんどの選挙区には立憲民主党か国民民主党の候補がいたんだから、どちらかに入れれば良いはずだ。立憲民主党の選挙協力の対応を批判するとしても、多くの組織内議員が立憲民主党にいる現状を考えれば配慮が必要なはずだ。例えば事務局長は日教組の清水秀行だが、日教組出身の参院議員は二人とも立憲民主党である。

 ここではこれ以上触れないが、前任の神津会長は国民民主党と立憲民主党の合同を求めてきて、最後に国民民主党側が「分党」という措置を取ったことを批判していた。組合員が戸惑わないようにということなら、両党の合同を求めるべきである。しかし、何が合同をジャマしているかと言えば、最大の要因は電力労連が原発ゼロの立憲民主党に反発していることだろう。その問題をどう考えるか、それは両党がそれぞれに考えるべきことで、労働組合が政党に介入するようなおかしなことは止めなければいけない。

 組合活動家としては政治路線に関心があるだろうが、一般組合員はどこまで関心があるのだろうか。僕は共産党との関係を気にするよりも、職場を守るためにもっと力を発揮して欲しいという組合員の方が多いと思う。(それは共産党系組合にも言えることだが。)賃金を上げることは労働組合の一番大事な仕事だ。この間の日本の賃金低下に、連合幹部も自責の念を持って欲しいと思う。何党支持なんていう問題よりも、現実に大きな実績を上げた労働組合に支持が集まるはずだ。この間、連合でもパート従業員の組合加盟を進めるなどの取り組みを行ってきた。正規・非正規の区別を越えて、労働者の連帯を作ることが連合の最大の使命だ。
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