音楽の喜び フルートとともに

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鉄オタ再び

2022-01-21 15:31:05 | 現代
熊本に出張している次男から写真が送られて来ました。
熊本県立美術館前の公園の機関車。
他にもあれや



これや



男の子は、初めはみんな鉄オタ?夫も長男も好きです。
おかげで、入場券を買って新大阪や京都駅に行くのが、うちのレジャーでした。
廃線巡りとか…。
近いのにUSJなんて一度も行ったことない!
エヘン…自慢しないでよ。

鉄オタと言うとドボルザークを思い浮かべます。
大好きだったみたいで、いろいろな曲に機関車の音をちりばめています。

ドボルザークはまだわかりやすいけれど、アルチュール オネゲル(1892-1955年)フランス ル アーブル生まれ、パリ没。

となると、オタク過ぎて一言も理解できません。
スイスとフランスの二重国籍を持ち、主にパリで活躍したオネゲルは
フルート界隈ではフルート独奏の「牝山羊の踊り」で有名です。
「交響的断章パシフィック231」
という曲は、題名は機関車の号名ですが、そう単純に決めてはいけないそうで、先軸、動輪、後軸の軸数が順に2-3-1のものである。従って "231" の読み方は「にひゃくさんじゅういち」ではなく、「に・さん・いち」である
世界各地で製造された複数の形式の蒸気機関車が当該の車軸配置であり、この題名だけでは形式を特定することはできない。
だそうです。

意味わかります?

後にフランス短編映画がこの音楽に合わせて作られたというので、鉄オタはあちらこちらにいるのでしょう。

鉄オタ、嫌いじゃないですよ。話していると目がキラキラしてくるし、あちこち知らない所へ連れていってくれるし。

オネゲルのパシフィック231を聴いてみると、鋼鉄の機関車に圧倒されます。
重厚長大がリアルに力を発揮しだした時代の空気も感じます。
件の短編映画見つけました。







スッペ ウィンナオペレッタの父

2022-01-20 21:58:06 | ロマン派
クロガネモチがかわいいです。赤い実が目立つ季節ですね。
今日はオンラインレッスン復活でした。
なぜかLINEが使えなくて、普通の携帯電話でしました。
画面もなくて、通話料金も気になりますが仕方ありません。
後からメッセンジャーの使い方を聞いて来られましたが、FBアカウントのパスワードを忘れて入れません。
リプライメールも来ず、時間切れ…困ります。

こういうモヤモヤな時は、わかりやすい、スカッとする音楽です。

フランツ フォン スッペ(1819-1895年)

オーストリア帝国ダルマチア地方スプリト生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン没

ベルギー系貴族の生まれ。10代でフルートと作曲を学び、1832年ミサ曲を作曲します。

ウィーン音楽院のジーモン ゼヒターに作曲を学んだ後、
ヨーゼフシュタット劇場、
アン デア ウィーン劇場

レオポルトシュタット、バーデン劇場のために100曲以上のオペレッタを書き、上演しました。

ウィーンでオペレッタを上演した初めの作曲家で「ウィンナオペレッタの父」と呼ばれています。

「ボッカチオ」(1879年)は「恋はやさし、野辺の花よ」
で有名な1331年のヴェネチアの物語です。

最も演奏されているのは「軽騎兵序曲」。
「詩人と農夫」「美しきガラテア」オペレッタの上演は無いですが、序曲は今も人気です。




マンドリン協奏曲

2022-01-19 21:53:34 | バロック
今日の枚方市は寒かったです。今晩は雪かも。
引きこもって練習していても寒さは感じます。

先日の練習会でマンドリンとギターでヴィヴァルディのマンドリンコンチェルトを演奏した人がいました。
ギターととてもあっていました。

アントニオ ヴィヴァルディ
(1678-1741年)

ヴェネチア共和国ヴェネチア生まれ、オーストリア大公国ウィーン没

ヴェネチアのサン・マルコ寺院

のオーケストラでヴァイオリニスト兼理髪師として働いていた父親に音楽を学び、10歳で教会の神学校に入り
13歳で父の代理をするようになり、15歳で剃髪し、25歳で司祭に叙階し、「赤毛の司祭」と呼ばれていました。
1703年から
在俗司祭になり、
ピエタ慈善院付属音楽院でヴァイオリンを教えています。
ヴィオラ ダ ガンバ

ヴィオラ ダ モーレ
も教えています。
ここは女子の音楽教育に力を入れていて、ヴィヴァルディも尽力しています。

デンマーク王フレデリク4世(1671-1730年)
1708年ヴェネチアにやって来て音楽院を訪問します。

ヴィヴァルディの指揮で女子の演奏を聴いて、何度か訪問しています。
ヴィヴァルディはこの時とばかり、ヴァイオリンソナタ集に12曲を作曲し、フレデリク王に献呈しています。
1713年からはサンタンジェロ劇場をベースにオペラを多く作曲しています。

1723年になると人気が出て、ローマ教皇に二度も謁見。演奏を披露しています。

多作で、いろいろな楽器を使った協奏曲を書いています。
マンドリン協奏曲はその中の一つです。



ゴーベールの世界

2022-01-18 22:07:12 | コンサート
久しぶりの子どものサポート。
冬休みに北海道に子どもだけで犬ぞり体感に行った話しをしてくれました。ずっと行事が中止だったので保護者の方が考えて参加申し込まれたそうです。
12月、雪は少なかったそうですが、本当に楽しかったみたい。私もうれしいです。

で1/29(土)20:00~
フルート伊藤公一先生
ピアノ 水野久美先生で
フィリップ ゴーベール
コンサート開催されます。

お申し込みは上記URL。

クラシック好きなオーナーさんは、フルートをされていたこともあって、ゴーベールを以前にも先生にリクエスト。
一年に一度、三年かけてゴーベール特集をされました。

シリーズは終わったけれど、今回はまたゴーベール。

フィリップ ゴーベール(1879-1841年)は

フット県カオール生まれ、フランス パリ没。

パリ音楽院のフルート科の教授でパリ音楽院管弦楽団の主席指揮者もつとめました。

有名なタファネル&ゴーベールは11歳でタファネルにフルートを学んだ時に、どのように忠実にゴーベールに基礎練習を学ばせたらよいかと考えられた教則本です。

そのかいあってパリ音楽院に入学、15歳でプルミエプリで卒業します。

第一次世界大戦に従軍、j勲章ももらっています。

オペラ座で仕事をした後は、向かいのカフェ ドゥ ラ ペでビールを大ジョッキ3杯は飲み、布巾やメニューに曲のスケッチをしてしまったり、夜寝るのは浪費だと思い昼寝をするのが好きだったー。
「彼はムッシュではなくて、大きなガキだった。」

「ああ。パリ!不心得もの!しかし…私は音楽が大好きだ!だから私は世界で一番の幸せものじゃないだろうか。」という言葉を残しています。

生涯で3曲、フルートソナタを書いていますが、今回はその3曲をすべて演奏されます。

すごい!楽しみです。
これは伊藤先生のゴーベールの「2つのスケッチ」です。






モーツァルトのロンド

2022-01-17 22:58:52 | 古典
今日は、歯の定期検診。
まあまあ大丈夫です。
雪雲が出ていましたが、このところ寒かったので体感温度はそう寒く無いです。

ウォルガング アマデウス モーツアルトによって
1781年4月に「ヴァイオリンと管弦楽のためのロンド」K.373は作曲されました。

イタリアのヴァイオリニストのアントニオ ブルネッティのために書かれました。

ブルネッティは他にも二曲。
「ヴァイオリンと管弦楽のためのホ短調のアダージョ」K.261と「ヴァイオリンとオーケストラのためのB♭のロンド」K.269/261a
を依頼しました。

Cのロンドは遅れ、2つのオーボエ、2つのホルンと弦楽合奏のために作られています。

1781年4月8日父への手紙で
「ぼくが何より嬉しく思い、また不思議に思ったのは、驚くほどの静粛さと演奏の中に『ブラヴォー』という叫びがあがったことです。こんなに多勢のピアニストのいるウィーンでは珍しいことです。…ブルネッティのための協奏曲に属するロンドと、ぼくがピアノ伴奏を弾くヴァイオリン伴奏つきのソナタ、これは昨夜11時から12時までに作曲したのですが、一応仕上げてしまうために、ブルネッティのための伴奏の部分だけを書いて、自分のパートは頭の中に入れて置きました。…」

1時間で三曲書き上げたことを父親に報告するとともに、ウィーンについて
「ここは素晴らしいところです。…ぼくは当地が気に入っていますし、だからこそ、ぼくの全力を上げて稼ぎたいと思います。ぼくの唯一の目的は、できるだけお金を稼ぐことにあると信じて下さい。なぜなら、お金は健康についで最上のものですから。」
と、書いています。

バイオリンのために書かれましたが、フルートで演奏されることも多いです。
よかったら、両方聴いてみて下さい。




アルフレート カゼッラ

2022-01-16 23:14:23 | 近代
富久田晴彦先生門下の発表会でした。

会場は、名古屋ドルチェ楽器のアートホールでした。
京都から

新幹線に乗って、

雪!

滋賀辺りでしょうか。
名古屋に着いたら、晴れ。
雪もありませんでした。

本庄定雄さんと楽器店で落ち合おうと言っていたら、店の前で出会いました。

リハーサル。
いいホールです。良く響いて気持ちいい。
本庄さんも「気持ちいいね~。」

本番はもっと気持ちよかった❗
控え室に戻ったら、伊藤公一先生のセミナーで一緒だった今田聡美さんが…。

お久しぶりです。
最近はオンラインコンサートで会うだけでした。

そしてもう一人、藤原友紀さんも。
4年ぶり。

今田さんはカゼッラのシシリエンヌとブルレスク。
藤原さんはプロコフィエフのソナタ。

二人とも美しい音色、丁寧に曲に向きあっています。

素晴らしい演奏でした。

アルフレート カッゼラ
(1883-1947年)

イタリア トリノ生まれ、ローマ没。
チェリストの父と、ピアニストの母の元に生まれ、音楽の手ほどきを受けました。

13歳でパリ音楽院に入学しました。
フォーレに学び、同級生にエネスコとラヴェルがいました。
パリではドビュッシーの牧神の午後への前奏曲を聴いて衝撃を受けました。

他にも、マーラー、シュトラウス、ストラヴィンスキー、ファリャ、ブゾーニとも関係がありました。

イタリアに戻りセントチェチーリア音楽院でピアノを教えました。

1927-29年ボストンポップスオーケストラの指揮者をしていました。

ヴァイオリン、チェロとトリオイタリアーノを作り、ピアニストとして世界を巡り、大成功しました。

そのためトリオ曲を多く書いています。

器楽曲、バレエ曲、オペラ、オーケストラ作品を書いています。





マジョルカ

2022-01-15 22:42:03 | 国民楽派
今日は今津公民館で西宮ギター練習会でした。

本庄定雄さんのギターでヴァイスのソナタ14番のアダージョ、ブーレ、シャコンヌを演奏しました。

明日、名古屋ドルチェ楽器のホールで演奏するので前哨戦。

これだけでOKと思っていたら、一昨日、横浜の高木裕治さんが来るとメッセージを頂き、「何かやりますか?」と聞いたら、「イベールの間奏曲を」とのリクエスト。

二年ほど前にやったような…?
レッスンの合間に必死で思い出して。

当日朝、20分ほど合わせ、
なんとか演奏出来ました。
終演後、飲み会の変わりにケーキで打ち上げ。

おもしろい!
作り込むのもいいですが、冒険もいいです。

高木さんは、田郷さんとバッハの2声のインベンション1番と8番。
古橋さんと佐藤弘和さんのシンプルソング、ソロでアルベニスのマジョルカを演奏。

「せっかく、関西に来るので、いろいろな人と出会って合奏したい。」そうです。

私もいろいろな人と合奏してみたい。

イサーク アルベニス(1860-1909年)

スペイン王国カンプロドン生まれ、フランス共和国カンポ レ バン没
4歳でピアノを演奏する天才。ライプツィヒ音楽院で短期学んだ後、1876年ブリュッセル王立音楽院で学びます。

1883年、教師で作曲家のフェリペ ベドレルにスペイン音楽の作曲を勧められます。
同じ頃、弟子のロジーナ ホルダーと結婚。
その後、1男2女をもうけます。

ロンドンとパリに住み、劇場作品を多く作曲しました。

1905-1907年最も知られる12のピアノ曲集「イベリア」を書きました。
1900年頃から腎臓病ブライト病を煩い1909年、ピレネーの山中で亡くなり、バロセロナに埋葬されました。

「マジョルカ島(舟歌)op202」は1883年以前に作曲されたピアノ曲です。
6/8拍子、マジョルカ島はショパンとジョルジュ サンドと過ごした島です。

ピアノで作曲されましたがギターに編曲され、こちらの方が圧倒的に演奏されています。
聞き比べてみましょう。
アリシア デ ラローチャのピアノとタチアナ リズコヴァのギターです。




トスカニーニとフルトヴェングラー

2022-01-14 22:56:32 | 音楽
ヤツデの花が大阪城のお庭に咲いていました。
かつてはよく見かけましたが最近見ないです。


指揮者のアルトゥーロ トスカニーニ(1867-1957年)

イタリア パロマ生まれ、アメリカ合衆国ニューヨーク没

ヴィルヘルム フルトヴェングラー(1886-1954年)

ドイツ帝国ベルリン生まれ、西ドイツバーデンバーデン没。

の接点は1929年。

ワーグナーの息子ジークフリートがトスカニーニの演奏に感動してバイロイト音楽祭に外国人として、初めて指揮をすることを依頼したことから始まりました。

「タンホイザー」や「トリスタンとイゾルデ」を指揮し大成功しました。

しかし、この期間にジークフリートが亡くなります。

1931年、ジークフリートの妻ヴィニフレートがフルトヴェングラーも招聘します。

ヴィニフレートが介入し過ぎるので嫌気がさして、二人とも次回は指揮しないと思っていました。

1933年そこをなんとか出演を取り付けます。

しかしその年の1月、ドイツにヒットラー政権が誕生します。

トスカニーニはヒットラーへの抗議の声明を出し、以後ドイツにはいかないと決めました。

困ったヴィニフレートはヒトラーに介入を依頼し、ヒトラーはトスカニーニに手紙を書きます。
トスカニーニは返信でナチス政権がユダヤ人排斥運動を止めないと音楽祭にはでない。と書き、ヒトラーを激怒させました。
まだ、支配が及んでなかったザルツブルク音楽祭に出演します。
1937年まで出演しましたが、オーストリアがドイツに併合される直前にそこを去りニューヨークへ移住します。

一方フルトヴェングラーはザルツブルクに戻り演奏を続けます。

トスカニーニは「あなたはナチだから出ていけ!自由な国と奴隷化された国の双方では指揮する資格はない」と言うと、
「音楽家にとって、自由な国も奴隷化された国もないと考えています。ワーグナーやベートーベンが演奏される場所では人間は自由です。芸術は政治体制とは別の世界に存在する。」とフルトヴェングラーは答えてドイツで演奏し続けます。

実際にはナチスに退廃音楽と名指しされた作曲家ヒンデミットの作品を取り上げたり、ヒムラーに目をつけられ、戦争末期には亡命しています。

自国の独裁者ムッソリーニにも抵抗して国を出たトスカニーニにすれば、声をあげないフルトヴェングラーはナチスに見えたのでしょう。


ノイシュバンシュタイン城

2022-01-13 21:34:13 | ロマン派
塚口Traumでハープのレッスン。

阪急塚口駅

Traumのキジ猫さん。
帰ろうとすると急に横になって背中をタイルにすりすり。

これは!
「背中を掻いて。」の合図。
なでなでして帰りました。


ドイツのノイシュバンシュタイン城1869年着工。

1864年リヒャルト ワーグナー(1813-1883年)

に手紙が届きました。

18歳で王位についたばかりのバイエルン国王ルートヴィヒ二世(1845-1866年)


からで、ローエングリンを見て衝撃を受け、ワーグナーを招聘するものでした。

白鳥城とも呼ばれるのは「ローエングリン」白鳥の騎士に心酔していた王が、その世界のイメージを再現しようとして、建てたからです。

玉座
大広間も素敵ですが、

洞窟はもうローエングリン。
白鳥の船があります。

他にもバイロイト祝祭劇場を建てるなど
やりたい放題です。
しかし、1866年オーストリア帝国とプロイセン王国との戦争に参加し敗れ、賠償金を払わなくてはならなくなって
いました。

1886年、財政上の理由で首相によってルートヴィヒ二世は精神病とされ廃位させられました。
廃位の翌日、ベルク城の湖で医師と一緒に水死体となって発見されました。
どういういきさつでそうなったのかは謎に包まれたままです。

ノイシュバンシュタイン城で検索するとワーグナーとでるかと思っていたら、シンデレラ城と出て、軽くショックを受けました。

指輪4部作の「ワルキューレの騎行」1870年初演。
バイロイト祝祭劇場での上演はプロローグと3日かけて演奏されます。
ラインの黄金に続く2日目に演奏されます。
ヴァルキューレは戦場に現れる戦死した兵士の魂を岩山に連れ帰る半神のことです。


仮面舞踏会ヴェルディ

2022-01-12 22:27:04 | ロマン派
昨日から圧を感じるほどの暗い雲、冷たいみぞれ混じりの雨。
午後になってようやく晴れ間がやってきたと思ったら、水玉がまぶしい位キラキラ。
うちのノースポールにも。

よく映りませんが気分あがってきました。

マスク生活も飽き飽きしてきました。

マスクの始まりは仮面。
紀元前4000年頃アフリカの遺跡の壁画にあったそうです。
仮面をつけて演じられるギリシャ悲劇、日本のお能などなど。

15世紀イタリアでは仮面をつけて舞踏会が流行り、ヴェネチアのカーニバル…現在も開かれています。


17.8世紀は流行り過ぎ、風紀を乱すとマリア テレジアに禁止されたりしました。

1792年、スウェーデン国王グスタフ三世(1746-1792年)

は統治に不満を抱くヤコブ ヨハン アンカーストレムによって仮面舞踏会中にピストルによって暗殺されました。

ヨーロッパで医学的な意味で使われ出したのは1890年代、ペストが感染症で人から人に移るとわかってからだそうです。

ジュゼッペ フォルテゥニーノ フランチェスコ ヴェルディ(1813-1901年)

が書いた、オペラ「仮面舞踏会」はこのグスタフ三世の暗殺を元に作曲されました。

スウェーデン王はボストン総督リッカルドに変えられ、リッカルドの秘書のレナート、その妻アメーリアとの三角関係に変えられて上演されました。

その頃イタリアは小国に分裂していたのがそれぞれオーストリア、スペイン、フランスの後ろ楯を得て権力闘争を繰り返し、国境線がイタリア内部で変更し、当時はナポレオン三世に支配されていました。

彼の暗殺未遂事件が起こり検閲で上演を拒否されましたが、
舞台をボストンにすることで、1858年初演されるとイタリア国民により熱狂的に迎えられました。

それはリソルジメント(イタリア統一運動)の気運の高まりと無関係ではなく、統一のシンボルサルデーニャ王国ヴィットーリオ エマヌエーレ二世万歳の頭文字
VIva Vittorio Emanuele Re D'Italia
とViva Verdi (ヴェルディ万歳)が重なり、国中にオペラにかこつけてこの文字が掲げられ、ヴェルディ自身の思いとは別に時代の寵児になりました。

政治的意図はない、愛と友情と嫉妬がテーマというヴェルディの主張を証明するのでしょうか?
このアメーリアのアリアは美しいです。