prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「最後の決闘裁判」

2021年10月22日 | 映画
三人の視点から繰り返し描かれる強姦と殺人をめぐるドラマとして「羅生門」を非常に意識したそうだが、誰が殺人犯人なのか全部違うのをいちいち画で見せる「羅生門」に対し、出来事そのものに大きな違いはないので同じことの繰り返しなので(アングルは同じでも微妙に違うテイクを使っているようだが)もう少し省略できないかとは思った。

ただ「羅生門」に対する最近浮上してきた批判として、強姦された女が完全に被害者なのに悪女のように描かれるのはおかしくないかというのがあって、今回時代の推移に従ってこれに対する修正が入った感。

第一のエピソードには描写として抜け気味だと思える箇所かいくつかあって、第二のエピソードで埋める格好になる。
この二度のエピソードの積み重ねで男たちのどちらが正しいと作者が位置付けるわけではないのがわかってくる。

この第三のエピソードが初め強姦場面での感情に違いがあるのかと思ったらまったく関係なくて一方的に女性の意思を無視した行為であることが二度繰り返して描かれて強調される格好になる。

その後男たちの決闘で勝った方が神の支持を得たことになり、夫が負けたら妻は火炙りになるという中世ならではの理不尽な展開になる。

このあたりから完全に今でもレイプ被害者が晒されるセカンドレイプの問題と通じてくる。
何しろ強姦罪という罪そのものがなくて、夫の財産に対する侵犯罪という位置づけなのだから、妻は夫の所有物以外の何者でもない時代の話。
気持ちや感情の問題というより、もともとヒロインは領土や持参金と同様の交換の対象として位置付けられているのがわかる。

今は違うようで、しかし中世の極端なあり方を通すことでかえって今に通じるモチーフが見えやすくなった。

脚本はマット·デイモン&ベン·アフレックの「グッド·ウィル·ハンティング」のコンビに女性のニコール·ホルフセナーが加わった陣営。

性行の際快感を覚えなければ懐妊しないとか、今聞くと荒唐無稽としか言い様のない主張が裁判でなされるのは中世ならではだが、最近でもセックスの仕方で男女が産み分けられるといった本質的に大差ない誤情報がれっきとした育児情報サイトに載ったりしている。

結果、今に通じる所有物としての女性の扱われ方という現代にも通じるというか今でもなくならない問題が炙り出される。

神だの名誉だのといったコトバが結局はエゴの張り合いに過ぎない本質の上辺を飾るのに使われたかありありとわかる。
決闘場面の残酷さはこれが名誉だなんだという体裁の裏をひんめくった感。

リドリー·スコットとしては監督デビュー作「デュエリスト 決闘者」の頃は屋外屋内ともにフォッグがたちこめたようなテクスチャがかつてないものと注目された一方で、あまりに画として出来すぎていて息苦しく流れり乏しいと批判もされたのだが、長い監督経験を経て緩急自在、リアリズムと画の完成とを共に操ってみせる。