豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

ホッブズ『リヴァイアサン』第2部

2021年07月21日 | 本と雑誌
 
 トマス・ホッブズ『リヴァイアサン(2)』(角田安正訳、光文社古典新訳文庫、2018年)を読んだ。

 水田洋訳(岩波文庫)で読むか、角田訳(光文社)で読むか迷った。Amazonの角田訳にはキンドル版もあって、キンドル版の「試し読み」で一部を読むことができた。
 図書館から借りてきた水田訳と読み比べると、角田訳のほうが読みやすい。今風に言えば「サクサクと」読めそうである。そこで角田訳を購入し、さっそく読んた。

       

 法律を勉強した者にとって、一番興味をもって読むことができたのは第26章「市民法について」である。
 この章の表題の原文は“civil laws”である。角田訳では「公民法」と訳してあるが、法学の世界では“civil law”は「市民法」又は「ローマ法」と訳すのが一般的だろう。水田訳では「市民法」となっている。
 この章の中に(おそらく)1か所だけ“common law”という言葉が出てくる所がある(Oxford World's Classics の “Leviathan”(Oxford University Press、以下ではOxford版)では178頁)。角田訳は“common law”も「公民法」と訳しているが(179頁)、“civil law”と“common law”は違うだろう。あるいは、角田訳が底本としたCambridge版では“civil law”となっているのだろうか。

       

 水田訳は、この個所を「普通法(Common Law)」と訳した上で(169頁)、訳注で「普通法は慣習法ともよばれる」が地方慣習法と区別するために「一般(全国共通)慣習法という意味で、コモンと名づけられた」。「なお、衡平法、制定法、ローマ法、教会法などと区別するために使われることもある」と説明する(196頁)。後半はその通りだが、最近の法学界ではコモン・ローを「普通法」とか「慣習法」とはあまり言わないように思う。
 田中英夫編『英米法辞典』(東大出版会)では、“common law”の第一義は「コモン・ロー」のままになっている。そして、ノルマンによる征服以前の慣習に対して、それ以降に形成された王国の一般的慣習を「コモン・ロー」と定義している。この意味でのコモン・ローと対比されるのが“equity”(衡平法)であり、equityは、国王裁判所によるcommon lawでは救済されない事案を大法官(Lord Chancellor)のもとに請願する中から形成された法体系であるとされる。
 同辞典の“common law”の第二義が「判例法」で、制定法と対比される。法学の世界ではこの意味で使われるのがもっとも普通(common)ではないか。

 ホッブズが『哲学者と法学徒との対話ーーイングランドのコモン・ローをめぐる』(田中浩ほか訳、岩波文庫)で批判の標的にしたのは、まさに第二義としてのcommon law(判例法)だったが、『リヴァイアサン』でも、先例拘束性(同種の事案に対する過去の裁判例は、後に同種事案を裁判する裁判官を拘束するという原則)を批判して、「同種の事例を最初に取り扱った裁判官の判断が不当だった場合には、不当な判断は、後に続く裁判官にとって従うべき先例とはならない」と述べている(角田訳194頁、一部改変)。コモン・ローへの言及も「Common Lawを統制するのは議会だけである」という法学者(クックか?)の言説を批判する文脈で使われているのだから、「公民法」や「市民法」ではなく、判例法か慣習法としての「コモン・ロー」だろう。
 なお、ホッブズはコモン・ローを統制するのは「議会」ではなく、「議会における国王」(rex in parliamento)だという。ホッブズは、議会と国王による共同統治(主権)とか、議会による王権の制約を(許されない)「主権」の分割としてあくまで否定する。

 “equity”も、法学界では「衡平(法)」と訳すのが一般的だと思う。なお上記辞典では第一義が「衡平、公正」で、第二義は「エクイティ」のままになっている。第二義のエクイティの意味は上記の通り。
 ところで、『ユートピア』のトーマス・モアはヘンリー8世の治世に大法官を務めた人物だが、大法官としてのモアもエクイティの請願を受け、その裁判を担ったことがあったのだろうか。トマス・モアの生涯を描いた「わが命つきるとも」という映画があるらしいが、そこには出てくるだろうか。
 角田訳ではequityに「正義」とか(192頁)「正・不正」という訳語があてられている(同じく192頁)。意味はそのとおりだから「衡平」などという法学用語をあえて避けたのかもしれない。 

       


 もう1つ、角田訳『リヴァイアサン』の中で「後天的に成熟した理性」という訳語に出会った(180頁)。法律は理性に反するものであってはならないが、ここで言う「理性」とは、クック(角田訳では「コーク」と表記する)がいうような法律家が長年の研究と経験で獲得した「後天的に成熟した理性」ではないというのである。
 ぼくは「成熟」とか“mature”という言葉に過剰に反応する「過敏性“成熟”反応症候群」とでもいうべき病癖がある。そこで、さっそくOxford版にあたってみたが、残念ながら原語は“mature”や“maturity”ではなく、“artificial perfection of reason”だった。ガックシ!

 訳出された角田氏の努力のおかげで何とか『リヴァイアサン』第2部は読むことができた。つづいて、第1部に挑戦するのだが読み終えることができるか自信がない。訳(わけ)あって第1部は水田洋訳の岩波文庫で読むつもりなのだが、第1部もまずは角田訳で読んだほうがよいのではないかと思っている。第1部こそ「人間の本性」がテーマであり、理解力や判断力も扱われているのだから、ひょっとしたら「成熟」に出会えるかもしれない。『リヴァイアサン』のさきがけとなったホッブズ『法の原理』を読んだ限りでは期待はできなさそうだが。
 第3部と第4部(岩波文庫の3と4)はキリスト教(教会批判)がテーマで、基礎知識がなさすぎるのでスルーするつもりだったが、教会問題(信仰の自由)はホッブズの時代背景として避けて通ることはできない。しかも、ぼくは親による宗教教育の限界に関する現代のイギリス判例を報告する義務を果たさないままに定年退職してしまった。読まなければいけないだろうか。

 良くも悪くも「サクサク」感が角田訳の特徴であった。といっても最近の軽い小説のように読むことができるわけではない。
 今回も上記のような極私的な感想しか述べられないにもかかわらず、生意気かつ生半可なコメントをするのは「烏滸がましい」ことであると自戒している。

 2021年7月21日 記


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