豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

平野謙「昭和文学私論」補遺

2024年10月12日 | 本と雑誌
 
 平野謙「昭和文学私論」(毎日新聞社、昭和52年=1977年)の補遺。

 10月11日(金)夜、ようやく全巻を読み終えた。面白かった。
 永井荷風「断腸亭日乗」から昭和の日本経済史を顧みる吉野俊彦「断腸亭の経済学」もよかったが、平野の本書はそれよりさらに深く昭和の文壇という側面から昭和史全体を概観することができた。荷風の日記からは昭和史のごく限られた一面しか顧みることができないのに対して、本書からは、政府、軍部による言論弾圧という昭和史の重要な一面を回顧することができる。
 本書で、ぼくが読んでみたくなった本は以下のようなものである(順不同)。
 「あの日この日(上・下)」尾崎一雄(平野481頁)
 「故旧忘れ得べき」髙見順( 〃 288頁)
 「昭和文学盛衰史」高見順( 〃 )
 「十年」里見弴( 〃 437頁、昭和10年~20年の回顧だが、平野は戦後20年の意味を考える)
 「悲しみの代価」横光利一( 〃 12頁)
 「土と兵隊」火野葦平( 〃 346頁)
 「麦死なず」石坂洋次郎( 〃 306頁、石坂が元プロレタリア派だったとは!)
 「晩年/道化の華」太宰治( 〃260頁)
 「鮎・母の日・妻/贅肉」丹羽文雄( 〃 251頁)
 「再建、盲目」島木健作(〃231頁)、「囚はれた大地」平田昭六(〃238頁)なども。

 平野によれば、昭和の文学はプロレタリア文学 vs 新興芸術派(ないし新感覚派文学派)で始まり、小林多喜二の拷問死、ナップ解散以降のプロレタリア文学派は、転向文学派、戦争(国策)文学派、私小説派に分かれたが、尾崎は私小説派の代表のようである。プロレタリア文学こそ日本最初の「近代文学」だったと平野はいう。
 尾崎「あの日この日」は、文学史の峰々の頂に輝く文学者ではなく、その裾野で朽ち果てた人びとへの鎮魂歌であり、このような作品が可能だったのは、尾崎自身が志賀直哉という頂に生涯憧れつつ、危うく裾野で朽ち果てかかった一人だったからであるという(484頁ほか)。
 ぼくはなぜか数十年前に尾崎の「単線の駅」という小品集(随筆だったか?)を読んだ。井伏鱒二の「荻窪風土記」と前後して読んで、両方ともその淡々とした記述が気に入った記憶がある。ただし、豆豆先生2019年7月26日付によると、「単線の駅」はその頃断捨離してしまったようだ。そんな老境に達するまでの尾崎の前半生もぜひ知りたくなった。
 
 上に列挙した本は平野の紹介が面白そうだったので読んでみたくなったのだが、平野の紹介、評価にもかかわらず、北原武夫、林房雄などは今さらもういいだろうと思う。
 平野が旧制高校で本多秋五と同級生だったこと、出版社の校正係などをしながら生活していたこと、召集された高見順の代わりに作品集を編集したこと、プロレタリア派から転向後は大政翼賛会の情報局嘱託として日本文学報国会創設にかかわったこと、同会文化部長に岸田国士が就任したのは軍人・官僚に文学統制をさせないために、河上徹太郎が一縷の望みをかけて岸田を防波堤にしようとしたこと(416頁。岸田の部下にはぼくが大学でフランス語を習った小場瀬卓三さんの名前もあった424頁)、中里介山はただ一人入会を拒否したこと(429頁、どんな理由だったのか?)、戦後平野が埴谷雄高と再会したのは本郷の白十字だったこと(466頁。ぼくの先生は東大時代に白十字のウェイトレスに恋したことがあったと聞いた)、などなど平野の回顧談も含めて、これまで文学史上の人物として名前と代表作しか知らなかった作家の生身の姿を知ることができた。

 この本の中の文章で、ぼくの心に響いたのは次のような中村光夫の一文だった。昭和17年に「文学界」が主催した「近代の超克」座談会のために中村が提出した討論用資料の中の文章である。
 「いはば当時(開国時?)の西欧はあたかも19世紀後半に実用化された科学文明によって我国を威嚇し眩惑した。当時の西洋文明の移入とは極言すればその根本において機械の輸入とこれを運転する技術の修得にすぎなかった」。「出来合ひの知識をあまりむやみに詰め込まれれば、僕等の頭脳はそれだけ自分で物を考へる能力を喪はざるを得ない」と中村は書いている(447~8頁)。
 前半部分は今は措くとして、後半部分にぼくは強く共感した。これはそのままわが国の法律学にも当てはまるのではないか。20世紀後半、21世紀の法律家すべてがそうだとは言わないにしても、その人自身の頭で何を考えているのか理解できない場合がある。
 「下手の考え休むに似たり」ともいうが、やはり「学びて思わざれば則ち罔し」で、最後は自分の頭で考えるしかない。

 2024年10月12日 記

 ※ きょうで「豆豆研究室」のトータル訪問数が100万人を突破した。1,000,429 UU とある。いまだに「UU」というのが何のことは分かっていないのだが、延べで100万人以上の人が「豆豆研究室」を訪れてくださったと理解している。若い頃に雑誌編集者として紙媒体の出版に携わったものとしては100万人というのは信じがたい数字である。なお、トータル閲覧数は 2,250,645 PV となっている。
 最近は研究らしいことは何もしていないので、「研究室」という看板は下ろそうかと思っている。しかし、次は何という名前がよいか、どうやったらブログ名を変更できるのかも分からないので、しばらくはこのまま羊頭狗肉でいくしかない。

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