映画『12人の怒れる男--評決の行方』(原題“12 Angry Men”。20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン、DVD)を見た。
「評決の行方」という副題は不要だろう。「12人の怒れる男」で陪審裁判のことが分からない人は「評決の行方」といっても分からないだろうし、「評決」だの「~の行方」だのを名のったその後の法廷映画に便乗する匂いを感じる。『12人の怒れる男』は『12人の怒れる男』だけで十分である。
ヘンリー・フォンダの『12人の怒れる男』のリメイク版。1998年の製作らしい。
ヘンリー・フォンダが演じた陪審員役を、今回はジャック・レモンが演じている。有罪の疑いに疑問を投げかけるジャック・レモンに対して、最後まで(証拠も論理もなく、スラムに住む移民に対する偏見から)有罪を主張しつづけて抵抗する頑固な陪審員役をジョージ・C・スコットが演じている。
原作はどちらもレジナルド・ローズで、今回の映画も基本的に原作を踏襲している。ただし、前作では陪審員全員が白人の男性だったが、今回の陪審員にはアフリカ系、ヒスパニック系、イスラム系の有色人種や、東欧系の移民も入っている。
原作が「男」(Men)となっているので、女性を入れるわけにはいかなかったのだろう。少し前までの判例法では、すべての陪審員が同一の性(男だけ、女だけ)では陪審は無効になったが、最近のジェンダー・フリーや性別の相対化(男女不問)のもとではどうなっているのだろうか?
今回の映画では、罪滅ぼしのためか、裁判官は女性だった。
※ 下の写真は、原作、Reginald Rose, “Twelve Angry Men”(“Ladder Edition”, Yohan Pub. Inc., 1975)および、同著、額田やえ子訳『十二人の怒れる男』(劇書房、1982年)。
ストーリーは改めて紹介する必要はないだろうが、父親殺しの嫌疑で訴追された息子に対する陪審裁判である。
前作のヘンリー・フォンダに良心的アメリカ人の典型を見た思いを抱いてきたが、その後ヘンリー・フォンダの私生活上の問題行動を知ってしまった後では、以前ほどの感慨はなくなっていた。
ヘンリー・フォンダが中年の精悍なアメリカ白人男性だったのに対して、今回のジャック・レモンは、年齢を重ねた穏やかだが信念を曲げない老人を好演していた。ジャック・レモンもぼくも年を取ったなと思った。
ジョージ・C・スコットの隣りに座る陪審員を演じたアーミン・ミューラー-スタールという俳優も(有罪、無罪どちらに傾くかが読めない)両義的な役をうまく演じていて印象に残った。
しかし、ぼくが一番気になったのは、イスラム系の有色の陪審員だった。
いかにも品性が下劣で、英語も汚いらしい。喋り方や態度に品がないのは分かるが、その英語がどの程度品がないのかはぼくには分からなかったのだが、英語ネイティブの陪審員から「汚い口を閉じていろ」と怒鳴られるシーンがあったので、汚い英語なのだろうと想像した。
まるでエディー・マーフィーが陪審員室に突然闖入してきたような演技だった。ポリティカル・コレクトの時代に、イスラム系の人間をあのように描くことが許されていることに驚いた。あるいは9・11の余波が及んでいたのだろうか。
ひょっとすると彼が一番“angry” だったかもしれないが、ああいう態度を“angry” というのだろうかと疑問になって辞書を引いてみると、“angry” は「他人の悪いふるまいや不公平な状況などに対して怒っている状態をさす」とあり、ムカついている、カッカしているという場合は“mad”や“pissed”を、性格が怒りっぽいことを表す場合には“short-tempered”といった語を当てるらしい(ウィズダム英和辞典)。
あの役者の怒りは後者だったように見たが、もし彼の怒りの根源がイスラム系アメリカ人に対する不公平な扱いに由来するのであれば、あれも
リメイクは本作ほどの出来栄えではないことが多い。しかし、この映画は結末が分かってしまっているのであまり期待もしないで見たのだが、時代に程よくあわせて陪審員の年齢、背景などが変更されており、陪審員間の激論も一部は改変されており、ほぼ新作と言ってもいい印象だった。
ただし前作のようなアメリカ中西部(?)の蒸し暑さは伝わってこなかった。この作品では陪審員室のあの(気象上の)熱気が必須なのだが、本作では陪審員の来ているシャツの背中が少しずつ汗にまみれてゆくのだが、いかにも衣装係が霧吹きか何かで濡らしただけといった感じだった。
2014年にイギリス旅行をした際も、ピカデリー・サーカスの劇場でマーティン・ショウ主演で「12人の怒れる男」が上演されていたが、英米では、陪審裁判劇(とくに「12人の怒れる男」)は定番の作品のようだ。
英米の刑事裁判においては、「合理的な疑い」(a reasonable doubt)をさしはさむ余地がないまでに被告人が有罪であることを訴追側(検察官)が証明できないかぎり、陪審員は「無罪」(not guilty)を評決しなければならないのであるが、ごく普通の市民である陪審員の口から「合理的な疑い」という言葉が自然にしかも頻繁に出てくるところにアメリカ陪審制の強みを感じた。さっさと有罪の評決をして野球の試合を見に行きたいと思っている陪審員でさえ、検察官の主張に「合理的な疑い」が残っている限り、有罪評決ができないことは理解していた。
2021年8月16日 記