★ モンテスキュー『法の精神』(根岸国孝訳、河出書房新社 “ 世界の大思想 ”、1974年)(野田良之ほか訳、岩波文庫(全3冊)、1989年)
民法改正をはじめとする立法過程論ないし立法学を検討するなら、最初に立ち向かうべきは政体および風土・習俗と立法との関係を論じた古典中の古典、モンテスキュー『法の精神』から読むべきである、といった高邁な気持ちから読みだしたのではない。読まないままに放置してある本のうち分厚い本から読んで行こう、『結婚の生理学』、『エミール』(ただし上下巻の2冊のみ)と来たから次は文庫本で全3巻の『法の精神』にチャレンジしようといった程度で読み始めたのである。
最初は野田良之ほか訳(以下では野田訳と略す)の岩波文庫版(全3冊)で読み始めたのだが、どうもすんなりと読み進めることができない。学生時代に買ってそのままにしてあった根岸国孝訳の河出・世界の大思想版の該当箇所を読み比べたところ、根岸訳の方がしっくりくる個所もある。
例えば、野田訳では「官能」と訳しているところが意味不明のため(そもそも「官能」という日本語自体の意味がよくわからないのだが)、根岸訳を見ると「助平」と訳してあるではないか!「助平」も「官能」に劣らず分かりにくいが、かと言ってフランス語の原語にあたったところでフランス語のニュアンスはぼくには分かるまい。ほかの箇所では野田訳の「官能のはたらき」(上巻347頁)に対して、根岸訳は「感覚作用のはたらき」となっている(178頁)。
おそらく現代語で言えば「性的な」くらいのニュアンスを1748年当時は露骨に表現することができないので、こんな言葉を用いたのではないかと思う。
流れとしては「助平」式の根岸訳のほうがスムースに読めるのだが、正確を期したという野田訳も捨てがたい。例えば、根岸訳の「政法」というのが分からないので、野田訳を見ると「国制の法」となっていて、“droit politique”という原語も注記してある。結局、野田訳を読みながら時に応じて根岸訳を参照することにした。
ちなみに、岩波文庫版は、ラテン語の翻訳の校正に協力したのが、私の編集者時代の大先輩である横井忠夫氏ということを「凡例」で知った。氏は十数か国語を操る語学の秀才で、誤訳に関する著書(『誤訳悪訳の病理』)などもある。この本からは、「誤訳を避けたければ、保険だと思ってとにかく辞書を引きなさい」という教訓を得た。訳者の一人である稲本洋之助氏と東大法学部の同級生だったとも聞いている。
1週間かけて、ようやく岩波文庫版の上巻(第1部、第2部)を読み終えた。通読することそれ自体を目的に読みだしたのだが、内容が広汎にすぎて全体像がつかめない、下手をすると読み通すことができないかもしれない。手強くて、バルザックやエミールのようにはいかない。
ギリシャ史、ローマ史、ペルシャ史、ロシア史、中国史、さらには日本史などの、それも古代から近世に至る史実が前提になっており、その知識を欠くぼくにはモンテスキューが持ち出す事例が説得的なのかどうかさえ判断できない。誰かの解説に書いてあったが、この本は全体の構成に難があり、各項目の配列にも問題があるという。ぼくのような浅学の者が論述の流れに乗れないわけだ。
しかも、「啓蒙思想家」のはずなので、もっとフランス革命に至る歴史の流れに掉さす内容かと思っていたが、意外に貴族政に好意的な記述が目につく。これも解説によれば、この本はエルヴェシウスから「反動の書」と烙印を押されたという。
モンテスキューは、高等法院副院長の官職を金で買い、その官職を売却した金で老後の生活を維持した法服貴族だったと解説に書いてある。自己保全という人間の本性に正直であれば、モンテスキューが貴族政を支持するのも当然だろう。古代ローマのことは詳細なのにフランスの当時の王政(ルイ王朝)への言及は余りない。ローマを語りつつ当時のフランス王政を批判しているのだとしたら、ぼくにはそのような「奴隷の言葉」を読み取る能力はない。素直に貴族政支持者の言説として字面とおりに読んでいる。
長くなったので、上巻(すなわち第1部、第2部)の内容については、つづきで。
2020年6月26日 記