講義と会議の間に2時間ちょっと(小津の語法でいえば「ちょいと」)時間があいたので、図書館で小津の映画を見ることにした。
いくらDVDのコーナーを探しても見つからないので、カウンターに聞きに行くと、VHSのビデオだった。
時間から逆算すると、90分1本と、40分1本程度の長さでなければならない。
あれこれ計算をして、“大学は出たけれど”と“生れてはみたけれど”にした。“大学~”は他の映画の予告編も入れて30分弱、“生まれて~”は94分で、ちょうど間尺が合う。
“大学は出たけれど”は1929年(昭和4年)の作品で、小津の監督として第10作目に当たる。
「昭和恐慌」の真っただ中に発表された作品で、「大学は出たけれど」という当時の就職難を象徴する言葉はこの映画の題名から世間に広まったらしい。今なら、流行語大賞に選ばれただろう。
「就職活動」などという言葉もすでに使われていた。
内容は大したことはない。
大学は出たけれど、不況のために就職できない大学卒業生(高田稔)のもとを、田舎から母親が嫁さん候補(田中絹代)まで連れて上京してきてしまう。田舎には就職が決まったなどと嘘をついていたのである。
仕方なく高田は昼間は公園で時間をつぶして、仕事をしている振りをする。やがて母親は田舎に帰るが、花嫁(田中)には嘘がばれてしまう。妻は夫を助けようと、内緒でカフェの女給の仕事を始めるが、店でばったり夫と出くわしてしまう。
妻にこんな仕事はさせられないと、夫はかつて門前払いを食った会社に再び出かけて行って、受付でもいいから雇ってくれと懇願する・・・。
といったストーリー。
職のない息子のもとに田舎から母親がやって来るというのは“一人息子”を思わせ、田中絹代が女給に身をやつして、というのは“風の中の牝雞”を思わせる。
就職試験を受けに行く会社の風景は、最晩年の“秋日和”や“秋刀魚の味”の佐分利信や笠智衆の勤める会社に至るまでの、つまり高度成長以前の昭和の「会社」の雰囲気が漂っている。ぼくが昭和40年代に就職した小さな出版社もあんなものだった。
小津は同じような作品を作りつづけたというのは、戦前からその通りであった。
それにしてもサイレントというのはまどろっこしい。
不況の真っただ中の昭和4年に公開されたこの映画の興行収益はどうだったのだろうか。
もう1本の“生れては見たけれど”(1932年)は、ぼくは嫌いだ。
スラップ・スティックものだが、ぼくはこのジャンルは嫌いだ。
早送りで(VHSの早送りは滅茶速くて、字幕がよく読めなかった)30分ほどで済ませてしまう。
子どもに向かっては「勉強して、偉くなれ、偉くなれ」と言っている父親が、会社ではうだつが上がらず、上司にへいこらしているの姿を子どもたちが見て、人生に絶望するという話(だろうと思う。早送りのため字幕をきちんと読めなかったので)。
唯一の取り柄は、昭和初期の東京郊外(多摩川縁?)の新興住宅地の風景を知ることができた点。
* 松竹ホームビデオ、“小津安二郎大全集・大学は出たけれど”のケース。下の写真は“生れてはみたけれど”(VHS)のケース。
2010/9/21