“小説家になるための本”を読むシリーズの1冊として、スティーブン・キング『小説作法』を読んだ。
順番としては、森村誠一、若桜木虔、校條剛、大塚英志、有馬頼義・松本清張、ディーン・クーンツのつぎに読んだのだが、いま時間が空いたので書いておくことにした。
この本を知ったのは、校條剛の『スーパー編集長のシステム小説術』で引用していたからである。
品切れだったため、アマゾンで定価より高いのを注文した。訳文についてはアマゾンのレビュー通りだった。
スティーブン・キングの作品をぼくは読んだことがない。
映画の“スタンド・バイ・ミー”、“シャイニング”は見たが、原作を読みたいという気にはならなかった。この本がはじめてのスティーブン・キングである。
そしてこの本がおそらく最後のスティーブン・キングだと思っていた。ぼくは、ヘイリー・ミルズの側の人間だし、デビー・レイノルズ“タミー”の側の人間だと思うから。
でも、この本は面白かった。月並みだが、面白くてためになった。
スティーブン・キングの世界に浸りたいとは思わないが、彼の『小説作法』の実践を確認するために、1冊くらい読んでみようかという気になった。
この本を読んだからといって、誰もスティーブン・キングにはなれるわけではないだろう。
「文章はテレパシーである」、「情況が決まれば、プロットはいらない」、「パラグラフは何かをきっかけに励起して息づきはじめる」などということは、誰にでも起こることではない。
スティーブン・キングは天才であるか、高校生のとき以来の創作、投稿経験によってそのような能力を身につけたのだ。
スティーブン・キングにはなれないとしても、彼が蔑む地方新聞のコラムニスト程度なら、なれなくもないような気がしてくる。
彼は、大工だった祖父の道具箱から話し始める。
道具箱には、小さな釘からはじまって、ドライバー、ハンマー、のこぎりなどが納まっている。どんな簡単な仕事をするときでも、祖父はこの道具箱を持ち歩いた。
作家に必要な道具箱に入れておくのは、まず「語彙」。長編小説も、結局は一語一語の積み重ねである。ではどんな語彙を使うのか。
彼は「まっ先に頭に浮かんだ言葉を使え」という。これも天才の言葉である。
つぎに、語彙と語彙をつなぐ文法。ここで彼は、ストランクとホワイトの共著『文体の要素』(“The Elements of Style”)を奨める。松本安弘・松本アイリン『英語文章読本』(荒竹出版、1979年)として邦訳が出ている。ぼくも編集者時代に誰かに奨められて読んだ。要するに簡潔な文章を書けという。
たとえば副詞を多用してはいけない。「ドアをばたんと閉める」、「蔑むように言った」などと書いてはいけない。
会話を受けるのは「~と言った」だけ。「蔑むように言った」とか、「~と嘲った」と書かなければいけないのは、会話自体が失敗だからである。
パラグラフは、その場を演出するだけでなく、人物造形、情況設定、場面転換など重要な役割を果たす。しかし天才には、パラグラフは何かをきっかけに励起してしまう。この「何か」がないのが凡人なのだが。
もう、その次は、書き始めるのだ。さまざまな小説執筆のアドバイスが続くが、最終的には、ひたすら読んで、書くだけだと彼はいう。下手な小説から学ぶことが多いという指摘は新鮮である。
スティーブン・キングは、小説の要素は、話をA地点からB地点、そして大団円のZ地点に運ぶ叙述。読者に実感を与える描写。登場人物を血の通った存在にする会話、の3つであるという。
これは、大塚英志『物語の体操』の「物語の構造」と同じ指摘である。大塚も、物語の基本は「行って、帰る」だといっている。行って、境界線をわたり、成長して帰ってくる(日本では成長していないこともある)と大塚は書いていた。
“スタンド・バイ・ミー”などは(映画では)まさにその通りの「物語の文法」に従っていた。
でも、その「叙述」、「描写」、「会話」が書けるかどうかが問題である。
ただ、読み、書きつづけるしかない!
* 写真は、スティーブン・キング/池央あき(耳へんに火)訳『小説作法』(アーティストハウス、2001年。品切れ)の表紙カバー。