上野の国博で開催されている「大徳川展」を観てきました。キャッチコピーのように”全徳川家の想いが集結する一大展覧会”でした。なにせ、御三家をはじめ日光、水戸などの東照宮に伝えられてきた、門外不出の宝物が勢揃いしているのですから。
はじめの会場の最初の展示物から、いきなりドッキリ、ドキンちゃんです。”シダ具足(家康所用)”、焦げ茶色のシックな具足(戦場でつける衣装)に金色の羊歯(しだ)の前立(兜みたいな飾り)。な、ななんと、関ヶ原の戦いで家康さんが実際着用したものだそうです。そして、その横には、巨大な金色の扇子が。扇子の骨が2メートルはあるでしょうか、”金扇馬印”です。そして、そのあとにも家康さんが着用した具足や鎧や鞍がずらり。関ヶ原合戦の様子が目に浮かぶようです。
そして、刀。ボクは、これまで刀剣類になんら芸術的関心をもっていなかったのですが、今回、国宝やら重文の太刀を眺めているうちに、とてもうつくしいと思うようになってきました。名刀正宗(名物観世正宗)の刀の部分の波模様のとろけるようなうつくしさ、刃先の繊細さ、ここでもドキンちゃん。正宗のお墓は鎌倉の本覚寺にあり、お参りしたこともあります。子孫の方が現在でも鎌倉で、刃物関係のお店を出していますよ。正宗の弟子、貞宗の短刀(国宝)も良かったですよ。
日本印刷史に偉大な足跡を残したといわれる銅版印刷の技術の一端もみせてもらいました。銅活字の大きいのと、小さいの。それにすり板も。これで、1615年に、10万個の活字を使って、125部も明時代の仏教書を出版したのだそうです。知らなかったです、これにも、どっきり、ドキンちゃんです。家康さん、すごい、徳川書店出版社の社長さんでもあったわけ、ソンケイしちゃいます。
そして、ボクが今回の全宝物のなかで、一番、ほろりとした作品。小さな、小さな、たからもの、それは、竹茶杓、銘(あだ名のこと)泪。本当に、泪なくして語れないのでありんす。秀吉から切腹を命ぜられたあとの、最後の茶会に臨むにあたって、千利休みずからが、つくった竹茶杓です。茶会のあと、それは古田織部に譲られました。織部はそれを納める、黒うるし塗りの筒をつくり、筒の窓からみえる竹茶杓をお位牌のように拝んでいたそうです。その竹茶杓と筒が並んで展示されているのです。
そして、女性陣が大喜びしていた、千代姫の華麗な婚礼調度品の数々、絢爛たる衣装の数々。3代将軍、家光が2才の娘の嫁入りのために、当時の最高の工芸品、衣装をつくらせたのです。家光さんの親としてのせつない心のうちがみえるようです。
そして、ラストを飾る、うるうる宝物。14代将軍、家茂に嫁いだ皇女和宮所用、”空蝉の袈裟”。家茂は長州征伐に出掛け、その凱旋土産として望んだ西陣織は、結局、形見として和宮に届けられることになります。
”空蝉の 唐織り布 なにかせん あやも錦も 君ありてこそ”
いかにすばらしい織物でも、あなたがいてこそのものです、この歌を添え、織物を袈裟に仕立て、家茂の追善法要に用いたそうです。オレンジ色を基調にした、鮮やかな、華やかな袈裟の衣ですが、肩のあたりの重なりのあいだから、皇女和宮の泪が流れているようでした。
・・・
会場を出て、しばらく休憩して、一般展示会場へ。特集陳列”板碑、中世の供養塔”を覗いてみました。ボクは石仏とか供養塔にもちょっと関心をもっていて、将来、ケンキューしてみたいなと思っているブンヤなのです(汗)。板碑は、いたひ、と呼びますが、いかにも語呂がワルイので、ボクはこれをノリピーのマネをして、イタピーと呼んでいます。
関東のイタピーは緑泥片岩(長瀞で採れるそうです、うすい石板にしやすいのです)でつくられていますので、イタピー全体が緑色がかっています(ボクは緑色が好きなのです)。そして、イタピーの上部には種子(しゅじ)と呼ばれる、阿弥陀如来などのシンボルマークみたいのが彫られています。中世のはじめの頃は、豪族のがものが多かったのですが、後期は庶民の供養塔になっていったようです。
イタピーもこうして、博物館に展示されると、なんだか一流の彫刻作品みたいです。シンプルな美です。さきほどの豪華絢爛の徳川さんの宝物が三つ星レストランのフランス料理とすれば、こちらは、町のおいしいお蕎麦屋さんのもりそばと言ったところでしょうか。
フレンチとお蕎麦を頂き、満腹した一日でした。緑のライオン像のある表慶館の前に、小田原城の前で発掘された、母親の一周忌供養のための自然石イタピーがあるというので、それを観て帰りました。
はじめの会場の最初の展示物から、いきなりドッキリ、ドキンちゃんです。”シダ具足(家康所用)”、焦げ茶色のシックな具足(戦場でつける衣装)に金色の羊歯(しだ)の前立(兜みたいな飾り)。な、ななんと、関ヶ原の戦いで家康さんが実際着用したものだそうです。そして、その横には、巨大な金色の扇子が。扇子の骨が2メートルはあるでしょうか、”金扇馬印”です。そして、そのあとにも家康さんが着用した具足や鎧や鞍がずらり。関ヶ原合戦の様子が目に浮かぶようです。
そして、刀。ボクは、これまで刀剣類になんら芸術的関心をもっていなかったのですが、今回、国宝やら重文の太刀を眺めているうちに、とてもうつくしいと思うようになってきました。名刀正宗(名物観世正宗)の刀の部分の波模様のとろけるようなうつくしさ、刃先の繊細さ、ここでもドキンちゃん。正宗のお墓は鎌倉の本覚寺にあり、お参りしたこともあります。子孫の方が現在でも鎌倉で、刃物関係のお店を出していますよ。正宗の弟子、貞宗の短刀(国宝)も良かったですよ。
日本印刷史に偉大な足跡を残したといわれる銅版印刷の技術の一端もみせてもらいました。銅活字の大きいのと、小さいの。それにすり板も。これで、1615年に、10万個の活字を使って、125部も明時代の仏教書を出版したのだそうです。知らなかったです、これにも、どっきり、ドキンちゃんです。家康さん、すごい、徳川書店出版社の社長さんでもあったわけ、ソンケイしちゃいます。
そして、ボクが今回の全宝物のなかで、一番、ほろりとした作品。小さな、小さな、たからもの、それは、竹茶杓、銘(あだ名のこと)泪。本当に、泪なくして語れないのでありんす。秀吉から切腹を命ぜられたあとの、最後の茶会に臨むにあたって、千利休みずからが、つくった竹茶杓です。茶会のあと、それは古田織部に譲られました。織部はそれを納める、黒うるし塗りの筒をつくり、筒の窓からみえる竹茶杓をお位牌のように拝んでいたそうです。その竹茶杓と筒が並んで展示されているのです。
そして、女性陣が大喜びしていた、千代姫の華麗な婚礼調度品の数々、絢爛たる衣装の数々。3代将軍、家光が2才の娘の嫁入りのために、当時の最高の工芸品、衣装をつくらせたのです。家光さんの親としてのせつない心のうちがみえるようです。
そして、ラストを飾る、うるうる宝物。14代将軍、家茂に嫁いだ皇女和宮所用、”空蝉の袈裟”。家茂は長州征伐に出掛け、その凱旋土産として望んだ西陣織は、結局、形見として和宮に届けられることになります。
”空蝉の 唐織り布 なにかせん あやも錦も 君ありてこそ”
いかにすばらしい織物でも、あなたがいてこそのものです、この歌を添え、織物を袈裟に仕立て、家茂の追善法要に用いたそうです。オレンジ色を基調にした、鮮やかな、華やかな袈裟の衣ですが、肩のあたりの重なりのあいだから、皇女和宮の泪が流れているようでした。
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会場を出て、しばらく休憩して、一般展示会場へ。特集陳列”板碑、中世の供養塔”を覗いてみました。ボクは石仏とか供養塔にもちょっと関心をもっていて、将来、ケンキューしてみたいなと思っているブンヤなのです(汗)。板碑は、いたひ、と呼びますが、いかにも語呂がワルイので、ボクはこれをノリピーのマネをして、イタピーと呼んでいます。
関東のイタピーは緑泥片岩(長瀞で採れるそうです、うすい石板にしやすいのです)でつくられていますので、イタピー全体が緑色がかっています(ボクは緑色が好きなのです)。そして、イタピーの上部には種子(しゅじ)と呼ばれる、阿弥陀如来などのシンボルマークみたいのが彫られています。中世のはじめの頃は、豪族のがものが多かったのですが、後期は庶民の供養塔になっていったようです。
イタピーもこうして、博物館に展示されると、なんだか一流の彫刻作品みたいです。シンプルな美です。さきほどの豪華絢爛の徳川さんの宝物が三つ星レストランのフランス料理とすれば、こちらは、町のおいしいお蕎麦屋さんのもりそばと言ったところでしょうか。
フレンチとお蕎麦を頂き、満腹した一日でした。緑のライオン像のある表慶館の前に、小田原城の前で発掘された、母親の一周忌供養のための自然石イタピーがあるというので、それを観て帰りました。