1945年から50年頃の近所のはなし おおはし
乙訓郡向日町大字向日小字南山と言っていた頃・・NO.1
最近「庶民の生きた、明治・大正・昭和」という本を読んだ、庶民の証言集である。
私も1945~50年くらい(5歳~10歳)の話を、遊びや暮らしでどんなことをしていたのか書いておく必要があると思った。別に誰に読んでもらうわけでもなく・・・である。
しかし、私の近所は、向日市文化資料館の古い町並み模型に作られた市内のモデル地域であり、そこで子どもがどんな暮らしをしていたのか?書いて残しておくことは将来何かの役に立つかもしれない。・・と勝手に思いながら・・
その昔、豊臣秀吉が朝鮮侵略を仕掛けるときに、関西から九州方面に物資を運搬するために、西国街道(京都の東寺から西宮まで)の拡幅整備工事を行った。特に枚方あたりから伏見を廻っていた大通りのバイパス道路として、大山崎から長岡、向日町、久世、東寺へと最短距離を重視したのだった。そのとき向日神社前に商店街を作らせたが、私の家はその本通りから善峰道にはいる最初の家だ。だから昔から私の家あたりを横丁と呼ばれている。
本通りの北のほうを上ノ町(かみんちょう)、南の方を下ノ町(しもんちょう)と言う。
第二次大戦後71年経った近所の姿は、幸いなことに、神社・仏閣・道路は殆ど変わらず、古い家は5割くらい残っている。小・中学校は同じ所にあるけれども、他の公共施設はそれぞれ現在あるところに移動している。記憶は何歳の時とはっきり覚えているわけではないが、まず横丁の家並み、商売、家族、等から書いていこう。