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韓国の友人は、ベトナム派兵を韓国近代史の汚点として当時の政府を糾弾している。

2017-01-03 | 戦争だけはやめてほしい

韓国軍のベトナム虐殺を扱った『最後の子守歌』、

ベトナム国営VTVドキュメンタリー賞

登録 : 2017.01.02 22:54 修正 : 2017.01.03 09:44

年末放送大賞ドキュメンタリー部門奨励賞を受賞 
異例にも国営放送局が製作し受賞 
「ベトナムピエタ」像のモチーフとなった虐殺を扱う

ベトナム国営放送クアンガイ省「VTV」テレビプロデューサーのホニョッタオ氏(左)が韓国軍による民間人虐殺問題を扱ったドキュメンタリー『最後の子守歌』を撮影している//ハンギョレ新聞社

 昨年12月24日に開かれたベトナム国営放送「VTV」放送大賞でベトナム戦争当時の韓国軍による民間人虐殺問題を扱ったドキュメンタリー『最後の子守歌』がドキュメンタリー部門奨励賞を受賞したと2日伝えられた。ベトナム現地で韓国軍による民間人虐殺を扱ったドキュメンタリーが製作され、国営放送会社の放送大賞を受賞したのは異例のことだ。ベトナム政府はベトナム戦終戦以後、民族統合と和合を最優先課題とし、この過程でかつての韓国軍による虐殺問題は公論化しない基調を維持してきた。

 

 『最後の子守歌』の背景は、1966年に韓国軍の青龍部隊が南ベトナムのクアンガイ省ビンホア村で行った虐殺で、この虐殺で民間人430人が亡くなった。虐殺当時生後6カ月だったトアヌンイア氏(50)は銃弾に倒れた母親の腹の下にいてかろうじて生き残ったが、雨水と共に流れ込んだ弾薬のために失明した。この話は子供をしっかり抱きしめた母親を彫刻した「ベトナムピエタ」像のモチーフになった。

 

 ドキュメンタリーは昨年11月30日から5泊6日の日程でベトナム平和紀行に参加した韓国人参拝団30人あまりの姿も含まれた。ビンホア虐殺50周年の慰霊祭が開かれた12月2日、トアヌンイア氏を訪ねた韓国人参拝団が「犠牲者の墓の前で心が痛んだ」として涙を流し、トアヌンイア氏が参加者の手を握る姿は“和解”と“慰労”というドキュメンタリーの核心メッセージを伝える。

 

 ドキュメンタリーは過去16年間にわたり「ごめんなさい、ベトナム」運動をリードしてきた韓国ベトナム平和財団のク・スジョン理事、2015年ベトナム民間人虐殺被害者として初めて韓国を訪問した生存者ウンウイェントロン氏、「ベトナムピエタ」彫刻像を製作したキム・ソギョン、キム・ウンソン夫妻の姿を照らした。

 

 ベトナム戦当時、韓国軍による民間人虐殺は80件あまり、犠牲者は9000人に達する。韓国政府は未だ韓国軍によるベトナム民間人虐殺を認めていない。

 

ファン・グムビ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

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NO.2 まず我が家は? 何年か前に我が家の家系図を紹介したことがあるので簡単に書いておこう。

2017-01-03 | 「私がお話し」します。

呉服屋をしていた。屋号は向日町大丸・福島屋と呼んでいた。

 私の祖父(母方)が115年ほど前に福島飯坂温泉の近くから向日町に引っ越してきて、公務員のあと呉服屋をしていた。屋号は向日町大丸・福島屋と呼んでいた。終戦時でも玄関の入り口の上に向日町大丸と書いたガラスがはまっていた。夜になり中の電気をつけると外からよく見えるようになっていた。家の表には当時としては立派な一間半ほどの大きなガラスが入ったショウウインドウがあり、その前にガラスが割れないように、学校の鉄棒のような安全対策がしてあった。丁度子どもが鉄棒がわりに遊ぶのに都合がよく、そこにぶら下がってあそんでいた。

 家の中で私が覚えているのは、客と話をする畳の部屋と反物を入れる棚や客が座る場所と2階が呉服を保管する中二階のような天井の低い部屋が2つあった。そこには大きい呉服棚が2つ並んでいた。床の間もあった。祖父は隣の家で代書屋(司法書士)事務所を開いていた。

戦後は呉服屋をしていない、幸い昭和のはじめごろの商店街を撮影した映画が向日市の資料館に保管されている。そのコピーのテープを持っている。それをみれば雰囲気がわかる。30年ほど前に大屋根を修理してもらった時に、大橋と書いた小さな瓦が落ちていたので今でも保管している。

 戦後すぐに、その二階に赤井さん一家が引っ越してきた。ご夫婦と子どもが4人もいたので、狭いところで大変だった。戦後の困難な時期にはどこの家もそんなことがあったものだ。赤井さんがなぜ来たのかといえば、叔父さんが呉服屋時代にここで働いていたからだ。しかも福島県の出身で祖父・孝(よし)さんの祖父が赤井という人と結婚しているので親戚になるからだ。大橋五郎さんが書いた家系図にも出ている。

 我が家は父が17年12月6日に死んだので母と兄と妹と私と4人、だから10人で暮らしていたが、赤井さんに5人目の子ができ、一時期は11人だった。

 赤井さんの長女が中学1年?(S11年生まれ?だったと思う)で死亡した。

叔父さんが戦時中炊事兵だったらしくその経験を活かして小さな食堂をはじめた。飯、うどんそば、焼き芋、今川焼き等を売った。醤油やそうめん、アイスキャンデーも売った。私は小学校の高学年になれば商売の手伝いをした。

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