みどりの一期一会

当事者の経験と情報を伝えあい、あらたなコミュニケーションツールとしての可能性を模索したい。

追憶の風景 粕尾(栃木県鹿沼市)/歴史家 色川大吉「村暮らし 民衆史の起点」(朝日新聞)

2008-07-16 09:01:01 | ほん/新聞/ニュース
昨日の朝日新聞夕刊を開いたら、
色川大吉さんのステキな笑顔が、目にとびこんで来た。

朝日新聞の渡辺延志記者が色川さんにインタビューして書いたようだけど、
記事に引き込まれて、一気に読んだ。

歴史家としての色川さんの、原点ともいえる経験が語られていて、秀逸。

夕刊をとっている人は珍しいので、読める人が少なくて残念なので、
さっそくタイプして、以下に紹介しますね。

追憶の風景 粕尾(栃木県鹿沼市)
歴史家 色川大吉
 村暮らし 民衆史の起点
 

 大学を出た1948年の春、できたばかりの新制中学の社会科の教師になりました。場所は栃木県上都賀郡粕尾村。合併し今は鹿沼市の一部になりましたが、足尾銅山の山一つ南側で、傾斜のきつい沢沿いの村でした。
 ナロードニキ(民衆の中へ)の思いがあったのは確か。敗戦から2年余で農地改革のまっただ中。農村に入り、指導することで改革を進めることができるはずだ。そう思ったのです。時代に浮かされていたのですね。
 ところが、指導するなどおこがましい。教えられましたね。民衆とは何かを。鍛えられました。歴史家は何を見て、いかに聞くべきかを。
 大学で親しかった友人が、郷里の村に帰って教師になると聞き、行動をともにしたのでした。就職のないのもきっかけだったのですが、直前になり大学の特別研究生に推薦された。彼にも大学の講師の口が舞い込んだ。しかしもう引っ込みはつかなかった。
 自分はすごいリーダーだ。民衆は遅れていて、現実の知識を持たないと思っていた。そんな頭でっかちのうぬぼれはすぐに砕かれた。彼は村で初めての東大生。それなのに変なアカ学生にそそのかされて戻ってきた・・・彼への期待が大きかったこともあり、村の人たちの僕への視線は厳しかった。勤めた中学校では、僕が辞めないならストライキをするとまで同僚の先生たちから総スカンをくってしまった。
    ◆  ◆  ◆
 夏になって、青年たちとの交流が始まり、立ち直った。村の人たちに学び直そうと思った。青年たちと夜間学校を始めた。そこには奥深い、僕の知らない世界が広がっていた。
 社会科は科目ができたばかりで教科書もない。子どもたちと村役場へ行き調査をした。村の農業振興課、人口動態、出稼ぎ率、自給率・・・・といった具合だ。
 教師の特権をいかし丹念に家庭訪問をした。担任は1年生の29人。すべての家庭で話を聞いた。村の歴史、出稼ぎの経験、暮らしぶり・・・・何でも聞いた。そのうちに、「おれの所へも寄ってくれ」と声がかかるようになった。たいがい男は自慢話で、女は苦労話。
 足尾が近いので、田中正造をめぐる神話もあった。「田中先生はこの縁側に座って・・・」のような話。年代的にあわないので事実ではないことは明らかなのだが、神話=虚構がなぜ伝承されたかを考えなくてはいけないことを教えられた。ウソを恐れてはいけない。歴史家はウソと夢を追うのが商売だ。
 一番驚いたのは秩父事件の伝承だった。徴兵されていた村人が、秩父から逃げてきた一団と銃撃戦になった。しかし、同じ百姓同士が殺しあえるかと、互いに空に向かって撃ったというのだ。
 しだいに、この村には、日本全体を語れる歴史があることを知った。
  ◆  ◆  ◆
 その年の暮れ、彼は病気で亡くなってしまった。痛恨だった。僕たちには夢があった。美しい社会をつくるという夢。だが、それは当時の若者ならたいがいが持っていた夢だ。中国をはじめアジアが大きく変わろうとしていた。日本も変わるはずだと信じていた。貧しかったが社会全体が熱かった。
 
 僕の村での暮らしは1年で終わったが、庶民・農民・民衆の実態を教えられた。その後の僕の民衆史研究は、間違いなくこの村で始まったのです。
  ◇
 虫の目から歴史を見続け60年。提唱する「自分史」を実践、日々の記録を欠かさない。「茶髪のじいさん」の情熱に衰えは見えない。  (渡辺延志)
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 いろかわ・だいきち 25年生まれ。東京経済大名誉教授。日本近代史が専門で民衆史研究の先駆者。主著に『新編明治精神史』『ある昭和史』『自分史』。写真は郭允撮影。
(2008.7.15 朝日新聞)



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コメント (3)
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